第26話「絆、深まる(?)」
しんと。
まるで激しい嵐が過ぎ去った後のように、奇妙な静寂がその場を支配していた。
先ほどまで甲高い声で騒ぎ立てていた伯爵令嬢とその取り巻きたちの姿は、もうどこにもない。
彼女たちがいた場所には床に広がった鮮やかな果実水の染みだけが、まるで事件の痕跡のように生々しく残っている。
(……終わった)
私は心の中で深く、深く安堵のため息をついた。
ああ、疲れた。
本当に心の底から疲れた。
もはや指の一本すら動かしたくない。
精神的な疲労が鉛のように私の小さな身体にのしかかっていた。
しかし私の目的は達成されたのだ。
あの面倒くさい連中を追い払った。
これで心置きなく家に帰ることができる。
そう、家に帰ってふかふかのベッドに身を沈めることだけが、今の私の唯一の望み。
私はくるりと踵を返し、その場を静かに立ち去ろうとした。
そう、ただ静かに、誰にも何も言わずに。
まるで最初からそこにいなかったかのように、そっとこの悪夢の舞台から退場するのだ。
「あ、あの!」
しかしそのささやかで切実な願いは、背後からかけられた透き通るような鈴の音色の声によって無残にも打ち砕かれた。
(……うわあ、来た。やっぱり来たわ)
振り向きたくない。
絶対に何があっても振り向きたくない。
私の前世から培われてきた危機回避の本能が、脳内でけたたましく警鐘を乱れ打っている。
お願いだから気づかないふりをして、このまま行かせて……!
わたくしは今あなたの視界には入っていない、ただの空気の塊なのよ!
「エリーゼ様!」
しかし私の腕を小さな温かい手が、そっと、しかし決して離さないという強い意志を持って掴んだ。
その温もりから伝わってくる純粋な感情の熱量に私は観念して、ゆっくりと、本当に億劫そうに振り返った。
そこには。
大きなアメジストのような紫色の瞳を美しい涙でいっぱいに潤ませながら、私をまっすぐに見上げるヒロイン、リリアーナ・フォン・アウグストの姿があった。
その瞳に宿っているのは純度百パーセント、混じりっけなしの尊敬と感謝、そしてもはや信仰に近い熱烈な憧れの色。
(やめて! やめてちょうだい! そんなキラキラした、聖母マリアでも見るかのような目で私を見ないで!)
(わたくしはただ早く帰りたいのよ!)
「ありがとう、ございます……!」
リリアーナは美しいドレスの裾を少しも気にすることなく、その場で深々と頭を下げた。
「わたくし、なんとお礼を申し上げてよいか……! またあなた様に助けていただいてしまいました……!」
「……別に」
私は精一杯ぶっきらぼうにそう答える。
ここで少しでも優しさを見せれば、この勘違いはさらに加速する。
冷たく突き放すのだ。
悪役令嬢として当然の振る舞いを。
「わたくしはただ道が塞がれていて、不愉快だっただけですわ。あなたのためではありません」
お願いだからこれで察してほしい。
私はあなたの味方なんかじゃないのだと。
その幻想を打ち砕いてくれと。
しかしヒロイン様のポジティブ変換能力は、私のちっぽけな想像など遥かに超えていた。
「……はい!」
リリアーナはぱあっと顔を、満開の花のように輝かせた。
「エリーゼ様はそういう些細なお礼などには、こだわらないお方なのですね!」
「見返りを求めずただ己の正義を貫く……! 不正を許せないというそのまっすぐで気高いお心……! 本当に素晴らしいですわ!」
(違う! 話が全くこれっぽっちも通じていないわ!)
私の心はもう絶望のグランドキャニオンの、崖っぷちに立っていた。
どうしてこうなるの。
私はただ家に帰って温かいミルクでも飲んで、寝たいだけなのに。
「……面白い」
その時、静かだがよく通る氷のように冷たい声が、私たちの間に割り込んできた。
声の主はもちろん、クラウス・フォン・シュミット様その人だ。
彼はいつの間にか、すぐそばまで来ていた。
その涼しげなアイスブルーの瞳で、私をじっと見つめている。
その目はまるで新種の、極めて興味深い生態を持つ生物でも観察しているかのようだ。
(うわあ、こっちの一番厄介なのも来た……!)
勘違いヒロインに勘違いヒーロー。
役者が揃ってしまった。
もう私の精神的な逃げ場は完全にない。
「エリーゼ殿」
クラウス様はゆっくりと口を開いた。
その声には先ほどまでの冷たさとは少し違う、何か確信めいた響きがあった。
「君は実に興味深いな」
「……何がですの?」
私はもはやヤケクソで、そう返すしかなかった。
「君のそのやり方だ」
彼は私の瞳の奥を探るように、そしてまるで答え合わせでもするかのように続ける。
「君は決して自分が前に出ることはしない。むしろ目立つことを極端に嫌っているようにすら見える」
「だが誰かが困っているのを見れば、必ず手を差し伸べる」
「それも実に不器用で、分かりにくいやり方でな」
(……は?)
何を言っているんだ、この人は。
私のどの行動をどう解釈すれば、そんな結論に至るというのよ。
「先ほどのアウグスト嬢を助けた時もそうだ」
「君はまるで自分の通り道を塞がれたことに腹を立てているかのように装っていたが」
「あの行動は明らかに彼女を守るためのものだった。そうでなければあのタイミングで割って入る理由が説明できない」
(違う! 断じて違うわ! 勘違いにも程があるでしょう!)
私の心の叫びはもちろん彼には届かない。
それどころか彼はどこか満足げに、全てのピースがはまったというように小さく頷いた。
「……なるほどな。君は自分の善行を人に知られることを好まないらしい」
「名誉や感謝を求めずただ陰から人を助ける。まるで影の守護者のようだな」
(影の守護者!?)
何それ!?
何なのよその厨二病みたいな新しい称号は!?
もうやめて! 私の不本意な称号リストは、もう満員御礼なのよ!
私がのあまりの衝撃に言葉を失い、金魚のように口をぱくぱくさせていると。
「エリーゼ!」
今度は聞き慣れた陽気で力強い声が、ホールに響いた。
見るとお父様とお母様が、満面の笑みでこちらに駆け寄ってくるところだった。
その背後には人々のさざ波のような、賞賛のざわめきがついてきている。
「見たぞ! 全て見ていたぞ我が娘よ! さすがは私の娘だ!」
お父様は私の体をひょいと軽々と抱き上げると、まるで戦勝トロフィーでも掲げるかのように高らかに笑った。
「不正を許さぬその気高き精神! 悪に臆することなく敢然と立ち向かうその勇気! まさにローゼンシュタイン家の誇りだ!」
「まああなた。ご覧になりましたか、エリーゼのあの落ち着き払ったご様子」
お母様もうっとりとした表情で、私の頬を優しく撫でる。
「少しも取り乱さずただ静かに悪を退ける。幼くしてすでに真の貴族の風格が備わっておりますわ」
キラキラした尊敬の眼差しを向けてくるヒロイン。
一人で勝手に納得して分析を終えているヒーロー。
そして盛大に勘違いして娘の”偉業”を誇らしげに語る両親。
完璧な勘違いの包囲網だった。
私の心の逃げ道は完全に塞がれてしまった。
(……ああ、もうダメだ。完全に詰んだわ)
絆、深まる(?)。
そんな生易しいものでは断じてない。
これはもはや決して解くことのできない、呪いのようなものだ。
私はお父様の腕の中でぐったりと脱力しながら、遠い遠い目で頭上で輝き続ける巨大なシャンデリアのきらめきを見つめることしかできなかった。




