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第25話「悪役令嬢、再び救う」

 地獄のようなワルツの調べがようやく終わりの音を奏でた。

 音楽がぴたりと止まったその瞬間、私はまるで操り人形の糸がぷつりと切れたかのように、クラウス様の大きな手からするりと自分の手を引き抜いた。


「……っ、失礼いたしますわ」


 かろうじて令嬢らしい挨拶を口にしたものの、その声は自分でも分かるほどか細く震えていた。

 もう限界だった。

 身体的な疲労よりも精神的な消耗があまりにも激しすぎる。

 魂がすり減って半分くらいの大きさになってしまったような感覚だった。


(帰る……絶対に帰る……! 今すぐお家に帰って温かいミルクを飲んで、ふかふかのベッドで眠るのよ……!)


 一刻も早くこの悪夢のような空間から逃げ出したい。

 ただその一心で私は、お父様たちが待つ壁際へとよろよろとおぼつかない足取りで歩き出した。

 もう何も見ない。

 何も聞かない。

 私の視界にはゴールであるお父様たちの姿しか映ってはいないのだ。


 しかし私のそんな鉄の意志とは裏腹に。

 私の視線はどうしても会場のある一点に引き寄せられてしまっていた。

 先ほどあの忌々しいダンスの最中に目にしてしまった、あの光景。

 柱の影で伯爵令嬢たちに取り囲まれていたリリアーナ様の姿。


(……まだやってる)


 私の眉が無意識にぴくりとひそめられた。

 状況は少しも好転してはいない。

 それどころか伯爵令嬢たちの粘着質な嘲笑は、さらにその濃度を増しているようにすら見えた。

 リリアーナ様は気丈にも背筋を伸ばして何かを言い返しているようだが、その顔色は明らかに悪い。

 囲んでいる令嬢たちの一人が、わざとらしく肩を突き飛ばしているのが見えた。


(……どうする、わたくし)


 私の脳内で天使と悪魔が最終戦争を始めた。

 いやこの場合、悪魔とさらに邪悪な大悪魔と言うべきか。


『おい、見ろよ。絶好のチャンスじゃねえか』

 大悪魔が私に囁きかける。

『あそこに行ってヒロインをさらに絶望のどん底に突き落としてやれよ。お前の悲願だった悪役令嬢としての名声が手に入るぜ?』


『いや待て。面倒くさいことはやめておけ』

 もう一人の悪魔が私を引き留める。

『平穏なセカンドライフが欲しいんだろ? 関わるな。見て見ぬふりをして家に帰るのが一番だ』


(……よし)


 答えは一瞬で出た。


(スルー、一択で!)


 当たり前じゃないの!

 今の私にあんな面倒くさそうな連中と渡り合う気力など、残っているはずがない。

 悪役令嬢としての名声ポイントを稼ぐよりも、一秒でも早く家に帰ってふかふかのベッドにダイブする方がよっぽど重要だ。

 そうよ私は悪役令嬢なのよ。

 いじめられているヒロインを見て見ぬふりするのは、悪役として正しいムーブのはず!


 私は自分に強く強くそう言い聞かせた。

 知らないわ。

 わたくしには関係のないこと。

 自業自得よ。

 ヒロインなんてそういう運命なのよ。

 私はあの光景から意識的に視線を逸らし、お父様たちの元へと足を一歩踏み出した。


 しかし。

 その時だった。


「きゃっ!」


 短い悲鳴と共にパリンとガラスの砕ける甲高い音が、私の耳に届いた。

 私の足がぴたりと止まる。

 振り向いてはダメだ。

 振り向いたら私の負けだ。

 そう分かっているのに私の首は、まるで錆びついたブリキの人形のようにぎぎぎとゆっくり音を立ててそちらを向いてしまった。


 私の目に飛び込んできたのは。

 床に砕け散ったグラスの破片。

 そしてリリアーナ様の純白のドレスを無残に汚していく、真っ赤な果実水の染み。

 その光景を見て満足そうに扇の向こうで歪んだ笑みを浮かべる、伯爵令嬢の醜い顔。

 そして何よりも。

 大きな瞳からぽろりと一粒、美しい涙をこぼれ落とすリリアーナ様の悲しげな顔だった。


(……ああ、もうっ!)


 ぷつんと。

 私の頭の中で何かが切れる音がした。

 前世の三十代、しがない会社員だった私の記憶が。

 理不尽な上司に何度も煮え湯を飲まされてきた、あの記憶が。

 自分のミスを全て部下に押し付けて得意げに笑っていた、あの課長の顔が。

 目の前の伯爵令嬢の醜い笑顔と完璧に重なった。


 こういう陰湿で卑劣なやり方が心の底から大嫌いだったという、あの燃えるような怒りの感情が。

 私の冷静な思考を一瞬で焼き切った。


 気づいた時には私の体は勝手に動いていた。

 踵を返し一直線に、その忌々しい輪の中心へと向かって。

 私の小さな足が、大理石の床を強く踏みしめる。


「……そこを、おどきなさいな」


 低い、自分でも驚くほど冷たい声が私の口からこぼれ落ちた。

 私はリリアーナ様の前に立ちはだかるようにして、伯爵令嬢をまっすぐに睨みつけていた。


「な、なんですの、あなた!」

 突然の私の乱入に、伯爵令嬢がたじろぐ。

 その瞳には驚きと、そして得体の知れないものへの侮蔑が浮かんでいた。


「わたくしの、お通り道ですわ」

「……はあ? あなたの通り道ですって? 他にも道はいくらでもありますでしょうに」


「聞こえませんでしたの?」

 私はわざとゆっくりと一歩足を踏み出した。

 私の小さな身体から放たれる圧倒的な威圧感に、令嬢たちの顔が引きつる。

「そこをどけ、と申しているのです」


 私の目的はもはや一つ。

 この胸糞の悪い連中をこの場から追い払うこと。

 ただそれだけ。

 私の個人的な怒りを晴らすため。

 それだけだったはずなのに。


 その行動は全く別の意味を持って、周囲の目に映ってしまったらしい。


「まあ……!」


 背後からリリアーナの息を飲む音が聞こえる。

 遠くで私を見ていたクラウス様の目が、わずかに見開かれるのを私は確かに見た。


 そう。

 彼らの目には今の私はこう映っているのだ。


 ――いじめられているか弱きヒロインを守るため、悪の権化たるモブ令嬢たちの前に敢然と立ちはだかる、正義の聖女エリーゼ・フォン・ローゼンシュタイン、と!


(違う! 違うの! 私はただ個人的な怒りで動いているだけなのよぉ!)


 私の心の叫びはもちろん誰にも届かない。

 伯爵令嬢は私のあまりの威圧感に、完全に気圧されている。

 彼女の脳裏にはローゼンシュタイン家という、巨大な権力の影がちらついているのだろう。


「……覚えてらっしゃい!」


 彼女は決まり文句の捨て台詞を吐くと、取り巻きたちを引き連れて蜘蛛の子を散らすように逃げていった。


 後に残されたのは静寂と。

 キラキラと星を飛ばすような憧れの眼差しで私を見つめるヒロインと。

 そして全ての誤解を理解した上で、面白いものを見るかのような複雑な表情でこちらを見ているヒーローと。


 そして一人。

 頭を抱えてその場に崩れ落ちたい衝動と必死に戦う、哀れな悪役令嬢(志望)がいるだけだった。

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