第24話「ヒロイン、嫉妬される」
(……終わったわ。私の人生、完全に終わったわ)
舞踏会の中心、その最も目立つ場所へと引きずり出されながら、私の心は静かにそして確実に死んだ。
頭上で輝く巨大なシャンデリアの光が、私の瞳に浮かんだ絶望の涙で無数に滲んで見える。
宮廷楽団が奏でるどこまでも優雅なワルツの調べが、まるで私のためのレクイエムのように残酷に響き渡っていた。
クラウス様の大きな手にすっぽりと包まれた私の手は、あまりのショックにもはや何の感覚もなかった。
彼の有無を言わせぬリードに従って、私の小さな身体がくるりと踊り出す。
一歩、また一歩と音楽に合わせてステップを踏むたびに、私の魂が少しずつすり減っていくのが分かった。
(……なんで、なんで踊れてしまっているのかしら)
不思議なことに私の足は一度ももつれることがなかった。
いや正確に言えば、何度も何度ももつれかけた。
しかしその度にクラウス様が、まるで背中に目があるかのような絶妙な力加減で私を支え、まるでそれが振り付けの一部であったかのようにごく自然なステップへと繋げてしまうのだ。
(この悪魔……! この完璧超人! わたくしの失態を、すべて完璧な演出に変えているわ!)
私はもはや、やけくそだった。
わざと思いっきり、彼の磨き上げられた純白の靴を踏みつけてやろうとした。
しかし私の小さな靴が彼の足に届くほんの数ミリ手前で、彼はまるで未来予知でもしたかのようにすっと足を引いて、何事もなかったかのように華麗なターンを決める。
その結果、行き場を失った私の身体はぐらりとバランスを崩して、彼の硬い胸板に飛び込むような形になってしまった。
「まあ……!」
「なんて、情熱的な……!」
「あの幼さで、あれほど激しいステップを……!」
周りから感嘆のため息が、波のように押し寄せてくる。
違うのよ!
違うの!
わたくしは今この男に、盛大なセクシャルハラスメントを仕掛けようとしただけですのに!
彼の顔がすぐ目の前にあった。
そのアイスブルーの瞳が面白そうに細められて、私を見下ろしていた。
その瞳にははっきりと、「全てお見通しですよ」と書いてあった。
「……お上手ですね、エリーゼ嬢」
「まるで私の手のひらでさえずる、小鳥のようだ」
(どの口が、どの口が言うのよおおおおおっ!)
私は心の底から絶叫した。
この男は完全に私を弄んでいる。
私の必死の抵抗すら彼の完璧すぎるダンスの前では、ただの可愛らしいアクセントにしかならないのだ。
絶望。
それ以外の言葉が見つからなかった。
こうして私の人生初の舞踏会は、この物語のヒーローとの全く意図せぬデュエットダンスによって、史上最悪の形でその幕を開けたのだった。
◇
そんな会場中の注目を一身に集める二人を、少し離れた柱の影から見つめている少女がいた。
リリアーナ・フォン・アウグストである。
「……すごいわ、エリーゼ様」
彼女はうっとりとした表情で、その幻想的な光景を眺めていた。
クラウス様の完璧なリードに合わせながらも時折はっとするような、独創的で情熱的なステップ(本当はただの失敗と抵抗)を見せるエリーゼの姿は、彼女の目には新しい時代の才能が鮮烈な輝きを放っているようにしか見えなかった。
(やっぱりあの方は特別なのね。あんなにお小さいのに、あの氷の貴公子様と対等に渡り合っているわ……)
しかしそんな彼女の純粋な憧憬に、冷や水を浴びせる影があった。
「あら、アウグスト嬢。あなたまだいらっしゃったの?」
聞き覚えのあるねっとりとした、蛇のような声。
先日のお茶会でリリアーナに絡んできた、伯爵家の令嬢たちだった。
「まあ見てごらんなさいな。あのお二人、まるで物語のワンシーンのよう。なんてお似合いなのかしら」
「それに比べてあなたは一人ぼっち。壁のシミでも数えているのがお似合いですわね」
取り巻きたちが扇で口元を隠しながら、くすくすと下品な笑い声を上げる。
しかしリリアーナはもう以前の彼女ではなかった。
彼女の脳裏に蘇るのは自分を庇ってくれた、小さな、しかし誰よりも気高い少女の姿。
彼女は毅然とした態度で、その令嬢たちに向き直った。
「エリーゼ様は本当に素晴らしい方ですわ。わたくしのような田舎貴族にも、分け隔てなく優しくしてくださいました」
「あなた方のように人を貶めることでしか自分の価値を確かめられない、哀れな方々とは違います」
「……なんですって?」
伯爵令嬢の化粧の濃い顔が、怒りでみにくくひきつる。
まさかあの気弱でおどおどしていた田舎貴族が、自分に真っ向から言い返してくるなど想像もしていなかったのだろう。
「生意気な口をきくじゃありませんか!」
「少しエリーゼ様と話したからって、いい気になっているんじゃないの?」
彼女たちの声が少しずつ大きくなる。
その時、一人の取り巻きが手に持っていた真っ赤な果実水のグラスを、ふと、わざとらしく傾けた。
「あら、ごめんなさい。手が滑ってしまいましたわ」
その白々しい言葉と同時に、真っ赤な液体がリリアーナの純白のドレスへと派手にぶちまけられた。
「きゃっ……!」
白いシルクのドレスの上に、まるで血痕のような鮮やかな染みが無残に広がっていく。
周囲から小さなどよめきと嘲笑が起こった。
伯爵令嬢はその惨状を見て満足そうに、扇の向こうで歪んだ笑みを浮かべる。
しかし彼女たちはまだ知らない。
その卑劣な行為が会場の隅で、一体誰の目に留まってしまったのかを。




