第21話「ヒーロー、疑念を抱く」
リリアーナ様は、それはもう感激した様子で、「このご恩は一生忘れません!」と何度も頭を下げた後、メイドに促されてようやく帰っていった。
嵐が去った後の応接室には、粉々になった花瓶の残骸と、気まずい沈黙だけが残されている。
花の甘い香りと水の匂いが、私の絶望を、より一層、引き立てているようだった。
(……終わったわ。何もかも、全部)
私は、魂が抜け殻になったように、ソファにぐったりと沈み込んでいた。
悪役令嬢計画、完全終了のお知らせだ。
ヒーローに嫌われ、ヒロインにいじめられるという、輝かしい未来予想図は、今や見る影もない。
現実はどうか?
ヒロインは、わたくしの熱狂的な信者と化した。
そして、ヒーロー様は……。
私は、恐る恐る、部屋の隅に立つ氷の彫像に視線を送った。
クラウス・フォン・シュミットは、相変わらずの無表情で、床に散らばった陶器の破片を、ただ静かに見つめている。
何を考えているのか、全く読めない。
それが、逆に、とてつもない恐怖を煽った。
(お願いだから、何か言ってちょうだい!)
(「この偽善者め!」とか、「貴様の茶番は見抜いているぞ!」とか、罵ってくれて構わないから!)
沈黙は、金ではなかった。拷問だった。
私の心臓が、その重圧に耐えきれず、張り裂けそうになった、その時だった。
「……見事な反射神経だった」
静寂を破ったのは、彼の、低く、落ち着いた声だった。
「え?」
「あの状況で、咄嗟に彼女を庇うとは。騎士団の者でも、なかなかできることではない」
クラウスは、ゆっくりと私の方へ向き直った。
そのアイスブルーの瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
しかし、そこに宿っているのは、もはや軽蔑の色ではなかった。
(……まずいわ。まずい流れよ、これ)
私は、慌てて反論した。
「か、勘違いしないでくださる!?」
「わたくしは、ただ、あなたが邪魔だっただけですわ!」
「それに、我が家の屋敷で、お客様に怪我でもされたら、ローゼンシュタイン家の恥になりますもの!」
「すべては、わたくし自身のため! あなたのためなんかじゃ、これっぽっちもありませんからね!」
どうだ!
この、恩人に対して言うとは思えない、恩着せがましい上に自己中心的な物言い!
これぞ、悪役令嬢の鑑!
さあ、幻滅なさい!
しかし、クラウスは、私の必死の言い訳を、ただ黙って聞いていた。
そして、ふむ、と小さく息を吐くと、静かに問いかけてきた。
「……君は、一体、何者なんだ?」
「は?」
「アウグスト嬢は、君を『心優しい方だ』と、一点の曇りもない目で信じている」
「だが、君の口から出るのは、彼女を突き放し、己の利益しか考えない、冷たい言葉ばかり」
彼の視線が、私の内面を探るように、鋭さを増す。
「君の言葉が真実なら、あの行動は説明がつかない」
「だが、君の行動が真実なら、その言葉はあまりにも不自然だ」
(……見抜かれている!)
この男、わたくしの矛盾に、完全に気づいている!
家族のように、盲目的に信じるのでもなく、ただの悪意として切り捨てるのでもない。
彼は、その冷静すぎる頭脳で、わたくしという存在を、正確に「理解不能なバグ」として認識してしまったのだ!
「……っ!」
私は、言葉に詰まった。
何か言わなければ。何か、彼を納得させる、最低最悪な言い訳を……!
しかし、私の頭は、完全にショートしていた。
そんな私を見て、クラウスは、初めて、ほんの少しだけ、困ったような顔をした。
それは、完璧な数式の中に、一つだけ、どうしても説明のつかない数字を見つけてしまった、数学者のような顔だった。
「……失礼した」
彼は、それだけ言うと、静かに一礼し、部屋を出て行った。
一人残された応接室で、私は、ただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
嫌われるよりも、憎まれるよりも、ずっと厄介な事態。
(……わたくし、あのヒーロー様に、”解明すべき謎”として、ロックオンされてしまったんじゃ……)
背筋を、冷たい汗が伝っていく。
私の悪役令嬢への道は、今日、新たな、そして最も面倒な障害に、ぶつかってしまったのだった。




