第18話「ヒーロー、困惑する」
(……まずいわ! まずいじゃないの!)
私の心は、今、かつてないほどの焦燥感に包まれていた。
目の前のヒーロー様、クラウス・フォン・シュミット。彼の、あの完璧な顔に浮かんでいるのは、軽蔑ではなく、厄介な”興味”の色。
(これじゃダメよ! わたくしの悪役令嬢ムーブが、彼の好奇心を刺激してしまっている!)
お父様たちとは違うけれど、これでは嫌われるという目的から、どんどん遠ざかってしまうわ!
よし、こうなったら、もっと分かりやすい”悪”で畳み掛けるのよ! 知的な問答がダメなら、次は感情的なわがままよ!
ちょうどその時、メイドのマリーが、お茶とケーキを運んできた。
銀のトレイの上には、美しい焼き色のついたスコーンと、キラキラと輝く苺のタルトが並んでいる。
「皆様、お待たせいたしました。本日のケーキは、朝摘み苺をふんだんに使った、特製のタルトでございます」
「まあ、美味しそうですわね」
お母様が、にこやかに微笑む。
さあ、ここが、わたくしの見せ場よ!
「……なんですの、これは」
私は、テーブルに置かれたタルトを、心底軽蔑したような目で見下ろした。
「また苺? わたくし、もう飽きましたわ」
(嘘よ! 苺大好き! 本当は今すぐかぶりつきたいくらいよ!)
私の心の叫びとは裏腹に、口からは、完璧に傲慢な言葉が紡がれる。
「こんな子供だましのケーキではなくて、王都のパティスリー『銀の鈴』でしか作っていない、『雪解けベリーのミルフィーユ』が食べたいですわ!」
「今すぐ、馬車を飛ばして買ってきなさいな!」
どうだ!
この、TPOを一切わきまえない、理不尽極まりないわがまま!
ここから王都までは、馬車を飛ばしても半日はかかる。
今すぐ買ってこいなんて、ただの嫌がらせ以外の何物でもないわ!
「こら、エリーゼ! わがままを言うんじゃない!」
お父様が、案の定、私を叱りつける。
(そうよ、もっと言って! この子の性根は腐っていると、彼にアピールして!)
しかし、お父様は、次の瞬間、困ったように笑いながら、クラウスに言った。
「いや、申し訳ない。この子は、食に対する探究心が強すぎてな。一度食べたことのないものに、興味を持つと、こうして聞かなくてな……はっはっは」
(探究心!? これが!? ただの駄々っ子でしょうが!)
「まあ、エリーゼったら。お客様の前で、そんなに素直に『あれが食べたい』だなんて。食いしん坊さんですわね。うふふ」
(食いしん坊で片付けないでくださる!?)
「ははっ、シュミット様の前で、自分がいかに洗練された味覚を持っているか、アピールしたいんだろう。可愛いところもあるじゃないか」
(お兄様まで! わたくしは、ただの性悪女を演じているだけですのに!)
私の悪意は、またしても、家族の愛という名の巨大な濾過装置によって、無害で可愛らしいものへと浄化されてしまった。
私は、絶望的な気持ちで、クラウスの顔を盗み見た。
彼は、無表情で紅茶を一口飲むと、静かに口を開いた。
「……なるほど」
「え?」
「『雪解けベリー』。それは、春先の短い期間しか収穫できない、希少な果実。その上、極めて繊細で、長距離の輸送には向かないと聞く」
クラウスは、淡々と、しかし的確に事実を述べた。
「それを、この場で要求する。それはつまり、ローゼンシュタイン公爵家が、いかに高度な輸送網と、王都の有力なパティスリーとの間に、強固なコネクションを築いているか、という示威行動……」
彼の視線が、私を射抜く。
「……考えすぎ、かな?」
(考えすぎよ! 大大大考えすぎよおおおおお!)
なんで、ただのわがままが、そんな高度な政治的パフォーマンスになるのよ!
この人、頭が良すぎるせいで、逆に物事を複雑に捉えすぎているんじゃないかしら!?
私は、もはやどうしていいか分からなくなり、最後の手段に出た。
「……この椅子、座り心地が悪いですわ!」
ガタッ、とわざと大きな音を立てて、椅子から降りる。
「わたくし、お兄様の隣に座りますわ!」
そう言って、私はお兄様の隣……つまり、クラウスの真正面の席へと、ずかずかと移動した。
これで、彼に不快感とプレッシャーを与えられるはず!
しかし、お兄様は、そんな私の行動に、にやりと意地悪く笑った。
「おや? 僕の隣かい? シュミット様の隣のほうが、近いんじゃないか?」
「なっ!?」
「ははっ、照れるなよ。シュミット様、すまないな。どうやら、妹は、君のことが、いたく気に入ったらしい」
(ちーがーいーまーすーわー!)
私の心の絶叫は、もはや悲鳴に近かった。
気に入ったどころか、嫌われたくて仕方ない相手なのよ!
私は、燃え上がりそうな顔を隠すように、俯いた。
その視線の先で、クラウス・フォン・シュミットが、ほんの少しだけ、本当に、ほんの少しだけ、口元を緩めたのを、私だけが見ていた。
それは、面白い玩具を見つけた子供のような、残酷で、そして美しい笑みだった。
(……なんか、とんでもない相手に、目をつけられてしまった気がする)
私の悪役令嬢への道は、かつてないほど、暗く、険しいものになろうとしていた。




