第1話「悪役令嬢、始めます!」
ふかふかの羽毛布団。
レースがふんだんにあしらわれた天蓋。
朝の柔らかな光が差し込む大きな窓。
どこからどう見ても、超高級な子供部屋のベッドの上で、私は目を覚ました。
「……ん」
小さな、自分のものではないような声が漏れる。
体を起こすと、サラサラと銀色の髪が肩を滑り落ちた。
(なんだか、すごく豪華な夢を見てるな……)
寝ぼけ眼をこすりながらベッドを降り、姿見の前に立つ。
そこに映っていたのは、お人形のように整った顔立ちの、見知らぬ美少女だった。
透き通るような白い肌。
宝石のサファイアを埋め込んだかのような、大きな青い瞳。
そして、月光を溶かして固めたような、輝く銀の髪。
(……誰、この子?)
そう思った瞬間。
ズキン、と。
頭の奥で何かが弾けるような、激しい痛みが走った。
「――っ!」
思わず頭を抱えて、その場にうずくまる。
脳裏に、今まで知らなかったはずの記憶が、濁流のように流れ込んできた。
日本の、どこにでもあるオフィス街。
鳴り響くパソコンのタイピング音。
締切に追われ、栄養ドリンクをあおる、三十代の私。
そう、"私"は、エリーゼ・フォン・ローゼンシュタインなんかじゃない。
現代日本で生きていた、ごくごく平凡な会社員だったのだ。
そして、残業続きのある夜。
ぼーっとした頭で横断歩道を渡っているとき、眩しいヘッドライトが視界を埋め尽くして――。
(思い出した……!)
そうだ、私は死んだんだ。
トラックに轢かれて。
そして、どういうわけか、生前ハマっていた乙女ゲームの世界に、転生してしまったのだ。
そのゲームの名前は、『煌めきのソネット』。
魔法と科学が共存するアステラリア大陸を舞台に、平民出身のヒロインが、身分差を乗り越えて王子様や騎士団長といった攻略対象たちと恋に落ちる、王道ストーリー。
そして、私が転生したこの少女、エリーゼ・フォン・ローゼンシュタインは……。
(よりにもよって、悪役令嬢じゃないの……!)
そう。
公爵令嬢という高い身分を鼻にかけ、ヒロインであるリリアーナを徹底的にいじめ抜く、典型的な悪役。
その末路は、ルートによって多少の違いはあれど、ほぼすべてがバッドエンド。
婚約者であるヒーローに婚約を破棄され、家の悪事を暴かれ、最後は断罪イベントで国外追放。
最悪のルートでは、ギロチン台の露と消える。
「……嘘でしょ」
鏡に映る美少女――5歳の私の顔が、絶望に青ざめていくのが見えた。
今日が、私の5歳の誕生日。
ゲームのシナリオが、本格的に動き出す年齢だ。
(このままじゃ、破滅フラグまっしぐらじゃない!)
冗談じゃない。
せっかく第二の人生(?)を手に入れたのに、断罪されてたまるか。
(なんとかして、破滅を回避しないと……!)
頭をフル回転させる。
どうすれば、この最悪の未来を変えられる?
まず考えられるのは、ヒロインと一切関わらないこと。
でも、それは無理だ。
同じ貴族学院に通うことになるし、公爵令嬢である私が社交界から完全に姿を消すなんて不可能に近い。
じゃあ、逆にヒロインと仲良くするのは?
……いや、これも危険すぎる。
ゲームのシナリオには、「シナリオ強制力」という厄介なものがあるかもしれない。
仲良くしようとした結果、意図せず突き飛ばしてしまったり、無意識に悪意のある言葉を口走ってしまったりする可能性は捨てきれない。
中途半端な行動は、かえって破滅フラグを強固にするだけだ。
(……どうすればいい? どうすれば、確実に破滅を避けられる?)
考えろ。
考えるんだ、三十年生きてきた私の脳みそ。
悪役令嬢エリーゼが断罪される理由。
それは、ヒロインをいじめ、ヒーローの恋路を邪魔し、周囲の反感を買うから。
……ん?
待てよ。
反感を買う……?
そうだ。
いっそのこと、徹底的に嫌われればいいんじゃないか?
ヒロインとかヒーローとか、そういう次元じゃない。
父にも、母にも、兄にも、使用人にも、社交界のすべての人間に嫌われるほどの、完璧な悪役になる。
誰からも見放され、愛想を尽かされれば、婚約破棄も家の悪事も関係ない。
「あんな性悪女、国外に追放してしまえ!」と、シナリオ通りに追放してもらう。
そうすれば、貴族社会のしがらみから解放されて、平民として自由に生きていけるかもしれない!
(……これだ!)
暗闇の中に、一筋の光が見えた気がした。
中途半端に良い子ぶったり、シナリオから逃げたりするから失敗するんだ。
ならば、真正面からシナリオを受け入れ、その上で自分の望む結末――「平和な追放生活」を掴み取ってやる!
「ふふっ……」
思わず、口元が吊り上がる。
鏡の中の幼女が、にんまりと悪役らしい笑みを浮かべた。
(よし、決めた!)
今日この瞬間から、私はこの世界で最も性悪で、最も嫌われる悪役令嬢になってみせる!
◇
決意を固めた私のもとに、コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「エリーゼお嬢様、朝のご準備に参りました」
入ってきたのは、私の専属メイドのマリーだ。
ふわふわの栗色の髪を揺らし、いつもニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべている。
(よし、最初のターゲットはこのマリーね!)
悪役令嬢計画、早速開始だ。
まずは手始めに、横暴な態度で威圧してやろう。
マリーがクローゼットから今日のドレスを選んでいる。
……よし、今だ!
「マリー!」
私は、できるだけドスの利いた声で、彼女の名前を呼んだ。
「のろいわね! このわたくしが、待っているのよ!」
完璧だ。
これぞ悪役令嬢の第一声。
きっとマリーは、私の豹変ぶりに怯え、おろおろするに違いない。
しかし。
「まあ!」
マリーはぱあっと顔を輝かせ、感動に打ち震えるように両手を胸の前で握りしめた。
「エリーゼお嬢様! なんて可愛らしい……! わたくしをお待ちになってくださっていたのですね!」
瞳をうるうると潤ませ、感涙にむせんでいる。
「はい! ただいまお持ちいたします! 今日という素晴らしい一日のために、わたくしが心を込めて選んだドレスですわ!」
(……は?)
え、なんで?
なんでそうなるの?
私、今、ものすごく嫌な感じで言ったつもりなんだけど。
そこで、私は一つの可能性に思い至った。
私の声だ。
5歳の幼女が、一生懸命ドスを利かせたつもりで発した声。
それは、大人の耳には、ただの舌足らずで可愛らしい我儘にしか聞こえないのではないか?
(……マジか)
悪役令嬢への道、初手からいきなり詰んでない?
◇
前途多難な未来を予感しつつ、私はマリーに着替えさせられ、家族が待つダイニングホールへと向かった。
豪華なシャンデリアが輝く広間には、すでにお父様、お母様、そしてお兄様が揃っていた。
「おお、エリーゼ! おはよう!」
満面の笑みで私を抱き上げてくれたのは、このローゼンシュタイン公爵家の当主であり、私の父であるアルベルト・フォン・ローゼンシュタイン。
娘を溺愛しており、目に入れても痛くない、を地で行く人だ。
「エリーゼ、5歳のお誕生日おめでとう。今日のあなたは、一段と可愛らしいですわ」
優雅に微笑むのは、母のレティシア。
元王女で、社交界の華と謳われた絶世の美女だ。
夫に負けず劣らず、娘を溺愛している。
「誕生日おめでとう、エリーゼ。プレゼント、気に入ってくれるといいんだが」
少し照れくさそうに笑うのは、兄のレオナルド。
次期公爵として英才教育を受けている彼は、文武両道、才色兼備の完璧超人。
そして、重度のシスコンである。
(……うん、知ってた)
ゲームの知識通り、絵に描いたような仲良し家族だ。
そして、全員が私を甘やかすことしか知らない。
(だからこそ、やりがいがあるってものよ!)
この溺愛一家に、私の悪意を見せつけてやる!
席に着くと、早速お父様から大きな箱が手渡された。
「さあ、開けてごらん。お前が欲しがっていた、宝石がいっぱいついたお人形の家だよ」
(よし、チャンス!)
私は箱を押し返し、ふん、と腕を組んでそっぽを向いた。
「こんなものじゃ、わたくしの心は満たされないわ!」
「もっと、もっと高価なものをよこしなさい!」
どうだ!
5歳児が言うには、あまりにも傲慢で、強欲なセリフ!
きっと皆、私の金銭感覚と性根の悪さにドン引きするはず……!
「おお、エリーゼ!」
お父様は、私の言葉に目を丸くした後、感心したように大きく頷いた。
「もうそんな難しい言葉を覚えたのか! 向上心があって素晴らしい! そうか、もっと凄いものが欲しいのか!」
ガタッと椅子から立ち上がると、お父様は高らかに宣言した。
「よし、わかった! エリーゼのために、隣の国を買ってやろう!」
(はああああ!?)
なんでそうなるの!?
国!? 買ってやる!? スケールがおかしいでしょ!
「まあ、アルベルト様ったら。でも、エリーゼの向上心は素晴らしいですわ。将来が楽しみですね」
お母様がうっとりと微笑む。
「ははっ、欲張りなところも可愛いな、エリーゼ。じゃあ、今度お兄様が魔法で、夜空に浮かぶ本物のお星さまをプレゼントしてあげよう」
お兄様まで、とんでもないことを言い出した。
(ダメだこいつら……! 全然話が通じない!)
私の悪意は1ミリも伝わらず、なぜか向上心があると褒められ、国と星をプレゼントされそうになっている。
どういう状況なの、これ。
(こうなったら、もっと直接的な悪意を……!)
私はビシッとお父様を指差した。
「お父様の公爵の地位なんて、いずれわたくしが奪ってやるわ!」
これならどうだ!
父親の地位を簒奪しようとする、恩知らずで邪悪な娘!
いくらなんでも、これには……。
「――なんと!」
お父様は、一瞬息を呑んだ後。
今までにないほどの、満面の笑みを浮かべた。
「私の跡を継ぎたいと言ってくれるのか! お父さんは嬉しいぞ、エリーゼ!」
わしわしと、愛情たっぷりに私の頭を撫で回す。
「そうかそうか! よし、明日から早速、帝王学を始めないとな!」
(違う、そうじゃないのよおおおおお!)
私の心の叫びは、誰にも届かない。
むしろ、私の野心(と勘違いされたもの)に、家族の絆と期待はますます深まってしまったようだ。
◇
朝食後、私はぐったりと自室のベッドに突っ伏した。
(私の悪役令嬢への道は、なんて険しいの……!)
初日から、計画は完全な空回り。
悪態をつけばつくほど、家族の溺愛は加速していく。
でも。
(……ここで諦めるわけにはいかない)
破滅フラグを回避し、平和なセカンドライフを手に入れるその日まで。
私の、奇妙で、孤独で、そして最高にハードモードな戦いは、まだ始まったばかりなのだ。