第92話:「もち、はじめての“処方食”に苦悩する!?」
朝のリビングに、静かな緊張感が走っていた。
いや、正確に言えば、その緊張を感じていたのは“吾輩”である。
吾輩は猫である。名はもち。
高級ちゅ~るよりカリカリ派。
特に、あの黄色いパッケージの「香ばし焼きカツオ味」は、吾輩の舌と魂をもっとも震わせる味だった。
――だった。
そう“だった”のじゃ。
「ほら、もち。今日は先生に言われたごはんだよ」
優しい声で、吾輩のご主人――みのりが言った。
そう、ご主人は何も悪くない。
吾輩も、頭では理解しておる。
獣医の先生から「慢性腎臓病初期ですね」と言われたとき、みのりの顔がこわばったのを、吾輩は見逃しておらん。
「ちゃんと食べてくれるかな、もち……」と呟くみのりの声には、ひとすじの不安が滲んでいた。
だからこそ――
吾輩は、意を決して、目の前に差し出された“見慣れぬフード”へと前足を一歩、踏み出した。
袋のラベルには、やたらと厳かに「腎臓ケア療法食・特別療法食処方済」と記されておる。なんだその重厚な肩書きは。
香りは……うむ、なんというか、香ばしさの奥にある、
ちょっぴり粉っぽい……そして、鼻腔の奥に残る薬草のようなニュアンス。
これは……。
「ほら、もち、食べてごらん。身体に優しいやつだよ」
ご主人の手から、ぱらぱらと皿に注がれた処方食が、カリカリと音を立てて着地した。
だが、その音にはあの心弾む“美味音”が、欠けている。
吾輩はそっと、鼻を寄せる。ふむ……ふむむむ……。
一粒、口に含んでみる。
――もっさぁ……
咀嚼、飲み込み。
そして――ぴたりと動きを止め、静かにみのりを見上げた。
「にゃあ(ご主人、吾輩、これを食べねばならぬのか)」
「……うん、ごめんね。もちの身体が元気でいられるように、これがいいんだって。……先生がね」
ご主人は、申し訳なさそうに微笑んだ。
吾輩の抗議が効いたようじゃが、今回はどうやら“譲歩”という選択肢はないようだ。
再び、皿を見つめる。
うむ、よかろう。吾輩は猫である。
誇り高き猫である。
例え、食の喜びが若干目減りしたとしても、命をつなぐ大義のため、我慢せぬわけにはいかぬのじゃ。
――カリッ。
……やはり、少し粉っぽい。
だが、吾輩は最後まで食べた。
するとみのりが、目を潤ませながら「えらいね、もち、ほんとにえらい……」と抱きしめてきた。
苦味の先にある“ご主人の笑顔”――それこそ、最上のごほうびというもの。
その日の夜、吾輩は静かに考えた。
この身体も、だんだんと年を取っていく。
最近は、寝る時間が増え、飛び乗れなくなった棚も出てきた。
カリカリを食べたあとも、以前よりお腹が重く感じることがある。
でも――吾輩は、まだここにおる。
ご主人と過ごす日々を、少しでも長く、一緒に重ねたい。
たとえ、それが“香ばし焼きカツオ味”を諦めることであっても、吾輩は、選ぶ。
このぬくもりと、笑顔のそばにいることを。
夜、ふたりで並んでソファに座り、みのりが編集していた昔の動画を見ていた。
まだ幼かった吾輩が、初めて猫じゃらしにじゃれた映像に、みのりは「懐かしいねぇ……」と微笑む。
吾輩は、そっとその膝に頭を預けた。
今日の処方食は――まぁ、ぎりぎり合格点じゃな。
明日からは、せめてもう少しバリエーションが欲しいものである。
だが、ご主人のこの温かい膝の上がある限り――
吾輩は、何度でも、食うのである。
たとえ、それが“カツオ風味・塩分ひかえめ・リン・タンパク制限版”でも、な。




