第62話:「みのり、職場での『バレた』瞬間」
その日、私は朝から何となく胸騒ぎがしていた。
理由は分からなかった。ただ、いつもより電車の空気が重たく感じて、同僚に「おはよう」と声をかけても、どこか会話が上滑りしているように思えた。
「……気のせい、だよね?」
出勤してすぐ、コーヒーを片手にPCを立ち上げる。メールの通知がいくつか来ていて、その中のひとつ――社内ポータルからの「個人SNS運用に関するご連絡」というタイトルが目に入ったとき、心臓が小さく跳ねた。
深呼吸してクリックすると、そこには“個人のSNS活動が会社のガイドラインに抵触する可能性があります”という注意文が並んでいた。明確に私の名前が出ているわけじゃない。でも、ドキリとする内容だった。
“まさか……違うよね?”
胸に湧いた不安をごまかすように、業務用チャットを確認すると、企画部の後輩・佐々木くんからのメッセージが入っていた。
みのりさんって、もしかして…この猫ちゃんの飼い主ですか?
その横には、もちの写真付き動画のリンク。
再生数は――18万。
まるで血の気が引く音が聞こえた気がした。
ああ、これは夢だ。
悪い夢。たぶん今、寝ぼけてる。目が覚めたら全部元通り――
「高橋さん、部長が会議室でお呼びです」
オフィス内に響いた先輩の声に、私は現実に引き戻された。
目の前の画面がぼやけて、手のひらがじっとりと汗で湿る。
それでも立ち上がり、会議室へと向かう足を止めるわけにはいかなかった。
ドアをノックすると、部長の声が聞こえる。「どうぞ」
入室すると、そこには部長と人事課の女性社員がいた。
空気は静まりかえっていて、空調の風の音すら聞き逃さないほどだった。
「……高橋さん」
「はい……」
「率直に聞きますが、最近YouTubeやSNSで“もち”という猫のアカウントを運用していませんか?」
もう、逃げられない。そう悟った瞬間、膝ががくっと震えた。
「……はい。私です」
そう答えた声は、自分でも驚くほど小さかった。
でも、嘘をつきたくなかった。
もちのことを“隠すべきもの”にしたくなかった。
部長は頷いて、深く息を吐いた。
「そうですか。実は、今朝、ある社員からの通報がありました。『社内の一社員が、会社名の入った書類やデスクを背景に動画撮影しているようだ』と」
――えっ?
私は思わず目を見開いた。社名なんて出した覚えはない。
モザイクもかけてるし、映り込みにも気をつけていたはず。
でも、動画の中で私が映っていたこと、社内の雰囲気や制服の感じから、会社の人間なら分かってしまうのかもしれない。
「君がやっていることは、素晴らしいと思うよ。ペット動画で多くの人を癒してる。それは素晴らしい。でもね、会社としては、社内情報の取り扱いとSNSのガイドラインに、非常に厳しい立場を取っているんです」
部長の言葉は、怒鳴るわけでもなく、責めるでもなく――静かで、でも重かった。
「一度、動画活動の実態と方針をまとめた上で、人事部に提出してください。その内容次第では、今後の業務に影響することもあります」
その瞬間、まるで心臓がぎゅっと握られたように苦しくなった。
「……すみません……迷惑をおかけして……」
私は深く頭を下げた。情けなかった。
恥ずかしかった。だけど――なにより怖かった。
このまま、全てを失ってしまうのではないかという恐怖。
会議室を出た後、目の前の景色がやけに白く見えた。
天井の蛍光灯が滲んで、眩しい。
オフィスに戻る途中、すれ違う同僚たちの視線が気になって仕方なかった。
気のせいかもしれない。
でも、ひそひそ声が聞こえたような気がした。
“あの猫の人って、あの人だったんだね”
“かわいい猫だけど、バレたらどうなるんだろうね”
“副業ってNGじゃなかったっけ?”
頭の中で勝手に再生される言葉に、心がギリギリと軋んだ。
席に戻り、そっとマグカップを手に取る。まだ温かいはずのコーヒーは、もう冷たくなっていた。
“私は……なにをしてたんだろう?”
もちの動画を始めたきっかけは、生活費の足しになればっていう、ただそれだけだった。
でも、今では――もちの表情や仕草を見て、コメント欄で誰かが笑ってくれて、その輪が少しずつ広がっていくことが、何よりの喜びになっていた。
だけど、それが、仕事と衝突するなんて。
その日の午後、私は定時を待たずに有給を使って早退した。
重たい鞄と心を抱えて玄関を開けると――もちが、駆け寄ってきてくれた。
「もち……ただいま……」
ぺたりと座り込んだ私の膝に、もちが頭をこすりつける。あたたかい。やわらかい。まるで「おかえり、大丈夫だよ」と言ってくれているようだった。
ぽろりと涙がこぼれた。
「どうしよう……もち。私、仕事……失うかもしれない」
その言葉を口にした瞬間、急に現実が重くのしかかってきた。
会社か。動画か。生活か。夢か。
頭の中に、いろんな選択肢が浮かんでは消えていく。
答えなんて、まだ見えない。だけど――私は、もちと出会って変わったんだ。
“ただ働くだけ”だった日々から、誰かを喜ばせることに幸せを感じられるようになった。
それだけは、嘘じゃない。




