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乾いた雑巾

作者: 黒心

 ホールのブザーが鳴ったとき、私はようやく寝ていることに気付いた。キョロキョロと周りを見渡すと聴衆はすでに席についていた。私は柔らかすぎる椅子に慣れていないのか、右の尻が痛んで痛んで仕方なかった。


 寝違えたか。


 そう思うのも無理はないのではないか、自問自答しつつ、なぜ私はここにいるのかを思い出してみた。


 先週の、もっと前の月始めだったか。曖昧な記憶はまるで普段の私そのもので、いい加減な友の口調が蘇った。


「これ余ったんだ。君に上げるよ。いや貰ってくれ、処分するにも勿体ない」


 一つ年上の課長の話だ。いつもなら使えない雑巾と同じ役割を持たせるのに今日だけは優しく接して気分を害した。何か頼みごとがあるときは優しく接して、やってくれるね君、普段よりも優しくしたんだからと言わんばかりの言葉に辟易する。されど私に断る筋合いはない。断る方法も至極当然ある、あるにはあるが毎夜毎夜酒を飲んで寝転がって朝を迎える私に刺激の一つあっても構わないだろうと思っていた。


 憎い課長のぞんざいな態度に呆れる以前に、私は自分に呆れているようだ。


 渋々といった様子で受ける私は如何にも面倒の二文字を顔に書いていた事だろう。仕事机のカバンを乱雑に取り上げて出口へ向かったのはせめてもの抵抗だ。


 貰ったそれは封筒だった。茶色のPDSDを起こすいつものではない。白い、ちょっと装飾されたチケット入れだった。裏には課長の名前が記されており、株主優待券替わりなのか、それとも何かの特典なのだろう。一度も封を切られていないあたり課長は中身を知っているか、知る気がないかのどちらかだ。大方、後者なのだろうが。


 少々気分が上がっていた私はチケットを見た途端に喉が渇く感覚がした。冷蔵庫に向かって缶ビールを探したのは無意識で、私は何の感情も抱かなかった。

 運悪く缶ビールを補充し忘れていた日で冷蔵庫の中は寂しい限りこの上ないものだった。野菜も、肉も、何もない。私は意識を確かに持ってそれを眺めた。


 冷蔵庫から開けすぎたと叱られ、乱暴に観音開きを閉じたはずだ。私がゆっくり閉じるとは思えない。


 水道水で喉乾きを癒すとまたチケットを握っていた。テレビを見る気にもなれず、チケットばかり見ていたに違いない。今でも鮮明に色彩を思い浮かべることが出来る。赤い文字、白い案内、黒い演奏家たち。

 ため息をついてスマホで場所検索したら、電車で一本の近場だった。近場と言っても埼玉から東京へ向かうような距離だ。ちょっと乗車賃は掛かるかもしれないが、不思議とチケットを案内係に渡す光景が目に浮かんだ。


 あとのことは、もう覚えていない。


 ブザー鳴りやんで暫くすると、たった一人の拍手から演奏家が一人、二人と入ってくる。黒い服装で全員が統一され、小豆色や真鍮色の楽器など何かしらの楽器を持つ人がいれば、何も持たずに入ってくる人もいる。

 成程、席にもともと置いてあるらしい。


 指揮者が入場すると盛大な拍手が聴衆から沸き上がった。

 つられて私も拍手をする。有名な指揮者なのだろうか。もしかするとこの会場の価値を知らないのは私だけなだろうか。


 そのまま演奏が始まった。クラシック音楽の良さを味わってこなかった私にはあまりにも高尚すぎて眠気が襲ってきた。しかし、もう一つ、音楽は私の古臭い感情を呼び起こしてくれた。


 最後にクラシックを聴いたのは高校生だったのが最後だ。あの冬の青さときたら懐かしくて堪らない。このぼろ雑巾同然な私にも新品のような春があったのだ。


 忘れかけていた扉が悲鳴を上げてガタガタ音を鳴らす。クラシック音楽はまだ始まったばかり、私は濁り切ったドアノブを握って戸を叩いた。


 走馬灯のように小さい私が向こう岸からやってきて、後ろの光に吸い込まれていった。夢だ、夢だ。暫くぶりの夢だ。脳に響くクラシックが訪ねた記憶はまだ他にもある。

 海岸で拾った巻貝、くしゃくしゃに書きなぐった絵画、どんちゃん騒ぎで怒られたあの日々。懐かしで済んではくれない。


 パッと目をあければ頬に涙が伝った。


 もう一度、もう一度見せてはくれまいか。


 クライマックス。止まって、止まってくれ。


 太鼓の音が激しく打ち鳴らされ、指揮者から小粒の汗が会場に舞うと演奏は終わった。あまりにも短い春の記憶だった。中学の私にも友と呼べるような人がいたはずだ。高校の頃の青臭さは消えてしまったのだろうか。


 誰かと一緒に初日の出をみた時にも涙は流さなかったというのに、私は薄汚れた涙を今流している。

 ホールは明るく光って案内人は退場を促した。

 袖で涙を拭い、顔が晴れていないか心配しながら私は会場を跡にした。


 帰り道、駅の前で歌が聞こえ、缶ビールを片手に歩いていた私はその前に座った。徐にプルタブを弄り一杯、二杯と飲んでいく。


「あの冬の君を忘れはしない」


 語り弾きの歌詞は青臭い春そのものだ。

 笑って、笑われて、今を考えることなどなかった頃。


 きっと、私はすでに雑巾だったのだろう。水をふんだんに含んだ雑巾、それが私だった。いつの間にか絞りに絞られ、乾きに乾いてボロボロになり果てた雑巾。


 ただ今この瞬間ばかりは、涙で湿っていても絞る人はいない。

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