雪の中の懇願
青蘭からの文により、青蘭が浣衣局に閉じ込められていることを、長恭は知ったが、そこから助け出す術が思いつかない。長恭は青蘭の救出を期して、師匠である顔之推の知恵を借りることにした。
★ 顔之推を訪ねて ★
長恭は侍中府から戻ると、急いで平服に着替えた。すでに外は夕暮れに包まれている。
長恭は、回廊を曲がりながら、前日に顔師父を訪ねたときのことを、思い出した。
青蘭には、浣衣局から必ず助け出すと約束したのだった。
しかし、皇太后に懇願するだけでは、解放されるとは思えない。そこで、中原や南朝の政情に詳しい顔之推に策を懇願することにしたのだ。
「一月ぶりだな、散騎侍郎の仕事はどうだ」
「励んでいます」
顔之推は長恭に、椅子を勧めると、長恭の方に茶杯を滑らせた。最後に学堂を訪れたのは、青蘭の居所を探していたときだった。
「例の件はどうだ」
「文叔の居所は分かりました。・・・しかし、そこが特殊な所で出られないのです」
長恭は、眉を潜めて師父を見た。儒学者である顔氏父に、どう打ち明けたらいいだろう。しかし、師父は文叔が女子である事は知っているはず。
「私と文叔は、学堂で学問をするうちに、互いを想い合うようになったのです。それを、御祖母様に知られて、浣衣局に入れられてしまいました」
「そうか、そなたは文叔が女子である事を知っていたのか」
長恭と青蘭は、共に学問に優れ理解し合える朋友としては最高の関係を築けるであろう。しかし、男女の関係となると国や身分の隔たりが余りに多い。二人が結ばれるのには多くの困難が伴うであろう。
長恭は、青蘭が浣衣局に入るまでの経緯を、かいつまんで話した。
「そうか、文叔は浣衣局にいれられたのか」
顔之推は、溜息をついた。
長恭は立ち上がると、拱手をした。
「師父、愚かな私には、文叔を救う手立てが分からないのです。文叔を浣衣局より出す手立てをご教授いただきたいのです」
顔之推は、秀麗な弟子を見遣った。優れた身分と容貌を持っているに拘わらず、なぜ困難な愛を選ぶのだろうか。
「そなたは、皇太后の一番の愛孫であろう。そなたが望めば皇太后も許すのでは?」
顔之推は、茶杯を傾けた。
「祖母は、文叔を誤解しているのです。必死に懇願すればするほど、怒りが深まるのです。・・・どのように説得すればいいのか、分かりません」
顔氏は、座るように促した。
「そなたも子供ではない。貴族にとって、婚姻は言わば家と家との契約だと言うことは分かっておろう。清河王がなぜ王琳と婚姻を結ぶ気になったかを考えることだ」
師父でさえ、婚姻は契約だと考えているのか。
「しかし、王青蘭を浣衣局に閉じ込めることは、決して斉の利益にならない。特に永嘉王の帰還が決まった今は、娘を閉じ込めれば王琳との関係を損ないかねない」
「文叔の母親と王琳将軍は離縁していますが・・・」
「離縁しているから、関係が悪いと考えるのは早計だ。梁の滅亡後も、王琳がなぜ勢力を維持できると思う?」
顔之推は、長恭の顔を見据えた。
「母親の鄭桂瑛は、鄭家の賈主で中原に多くの情報網を築いている。しかも、太賈の財力を持っている。王琳が梁の滅亡後も勢力を誇っているのは、鄭家の助けがあってのことだ」
王青蘭は、決して無力な立場ではないようだ。
「文叔は、己の進む道を見つけたいと弟子入りを希望してきたのだ。儂は女子の弟子は取らない。それで、男装をさせ文叔の字を与えたのだ。いわば、責任の半分は儂にもある」
長恭と青蘭が、学問に励みながら関わりを深めていることは感じていた。しかし、身分を超えて二人が恋仲になるとは、想いもしなかったのだ。
優秀な二人の弟子が、不幸になることは顔之推としても望まないところであった。
「まず、浣衣局から出すことに注力するのだ。その時に、婚儀の話を出せば、その道は困難になる」
「師父、肝に銘じます」
長恭は、丁寧に礼をすると帰った。
★ 婁皇太后への懇願 ★
侍中府での仕事を済ませた長恭は、いつになく足早に宣訓宮に戻った。すでに、前庭は夕闇に包まれ、寒風が官服の裾をあおった。
青蘭は今でも手が切れるような冷たい水で作業をしているに違いない。何としても、青蘭を浣衣局から出してやりたい。長恭は普段の衣装に着替えると、正殿に入っていった。
「御祖母様に、ご挨拶申し上げます」
長恭は、正式に拝礼をした。
婁氏は、何時もと違う長恭の礼に、目を瞬かせた。長恭は立ち上がると、父に似た晴朗な眼差しで真っすぐ祖母を見た。
「今日は、御祖母様にお願いの儀があって参りました」
祖母と孫は、朝の挨拶で毎日顔を合わせているのに、改まって願いの儀とは何であろう。
俯いていた長恭は、上目遣いに祖母を見た。
「王青蘭を、浣衣局に送ったのは御祖母様ですか」
「王青蘭?・・・知らぬな」
婁氏は、顔を逸らした。
「学堂では、王文叔と言っていました」
とうとう、王青蘭の居所を突き止めたのか。
「ああ、王文叔か。・・・あの者なら、皇族を謀った罪で、浣衣局に入れた」
当然だというように、婁氏は扇子を手に取った。
ここからだ、冷静にならなければ・・・。
「御祖母様、王青蘭を掖庭に閉じ込めておくのは、斉の国益にとって良くないのではと思うのです」
感情的に、懇願してくると思った長恭が、国益を語るとは・・・。
「永嘉王の帰還が決まって、王琳将軍は斉に近付こうとしているのです。そんな時、娘の青蘭を浣衣局に閉じ込めておくことは、同盟の妨げになりませんか?」
長恭は青蘭への恋情を悟られないように、できるだけ冷静に祖母に説いた。
「王文叔は、嫡女ではない。それほど気にする必要があるか?」
皇族においても、嫡子と庶子ではその重みは違う。
「確かに青蘭は嫡女ではありません。しかし、母親の鄭桂瑛は、鄭賈の賈主で、王琳の最初の妻だと聞いています。しかも、王琳の勢力が盛んなのは、元妻の力が後押ししているとの噂もあります。単なる嫡女以上の価値があるのでは?」
長恭は祖母の瞳を見つめた。
「そんな二人の娘を、浣衣局に閉じ込めるのは、外交的に良くないかと、・・・だから早期の放免をお願いしたいのです」
「これは。皇族を謀って誘惑した罪だ。本来なら死罪であるのを、浣衣局送りで許したのだ。何か問題でもあるのか?」
皇太后は、当然だというように言ってのけた。しかし、怒りはそれほど感じない。
「青蘭が私を誘惑したのではありません」
長恭は、珍しく祖母の言葉に異議を挟んだ。
「王青蘭は、男装して王文叔と名乗りそなたに近づいて親しくなった。これが罪でなくて何であろう」
「御祖母様、青蘭は、顔氏門下で学問をするために男装をしていたのであり、私をたぶらかす為ではありません」
祖母の誤解を何としても解かなければ・・。
「私が誘惑されたのではなく、私の方が、青蘭の心を奪ったのです」
女人に対してはむしろ堅物であった長恭が、今は女人への好意を隠さないことに、婁氏は苛立ちを感じた。青蘭への長恭の恋情を断ち切らせなければならぬ。
「粛よ知っておるか。王青蘭は、そなたが心を寄せる価値のない女子よ。王青蘭は、高敬徳との婚姻を嫌って出奔し、破談に持ち込んだのだ。そのような名節が汚れた女子は、そなたには相応しくないであろう」
敬徳との過去の縁談を持ち出せば、信義に篤い長恭は、愛想を尽かすはずだ。その時こそ、望ましい花嫁候補を紹介するつもりであった。
敬徳との縁談という言葉は、長らく長恭の心の棘だった。しかし、その棘は自分以上に青蘭を傷つけていたことを知って、長恭は乗り越える勇気が出たのだ。
長恭は、笑顔で顔を上げた。
「御祖母様、そのことは、存じております。青蘭が出奔したのは、本人なりに考えがあってのこと。破談になったからと言って、名節を失ったなどと思いません。・・・青蘭を想う気持ちは何ら変わらないのです。どうか、浣衣局より出してください」
「文叔など、どこにでもいる平凡な小娘だ。祖母が、そなたに相応しい絶世の美女を探してやろう」
「御祖母様、美女など必要ありません」
この愛孫は、すっかり小娘に骨抜きにされてしまっている。
「御祖母様、お願いです」
長恭が、婁氏の袖を掴んで縋ろうとすすと、婁氏は手を払って出て行った。
「粛よ、妖女に惑わされるな」
ああどうしたらいいのだ。長恭はしばらく動くことができなかった。
★ 雪の中の懇願 ★
「今夜は、雪になりそうですね」
そう言いながら、吉良は手桶から炭を火藘に移した。十二月になり、鄴都に陰鬱な雪雲が垂れ込めていた。
榻に座った長恭は、虚ろな眼差しで手を伸ばすと火藘の蓋に触ってしまった。
「熱っ」
「若君、最近心ここに在らずですね」
吉良は、呆れたように笑いをかみ殺した。
顔師父の助言に従って、祖母に対して青蘭を拘束する不利を説いたが、一蹴されてしまった。
「何で、御祖母様は青蘭を、お許しにならないのだ」
長恭は、頭を抱えた。
「若君、下々の者でも姑は、息子の嫁に厳しいのです。仕方が無いかと・・・」
祖母の情が、自分の青蘭に対する愛情をさまたげているのだ。長恭は、榻に身体を預けると目を閉じた。こうやっている間にも、青蘭は辛い仕事をしているのだ。
最後に会ってからすでに七日以上が経っている。青蘭は待ちくたびれているに違いない。
「若君、雪がちらほら降ってきましたよ。手盧を持ってきましょう」
吉良が出て行くと、長恭は扉を開けて雪の降る外に出た。降り始めた粉雪が、頬に冷たい。
ここは、自分を育ててくれた祖母の情に訴えるしかない。これは下策だ。しかし、自分には、他に何ができよう。
前庭には、うっすらと雪が積もっている。
回廊に掛かる灯籠の薄い光の中、正殿の前に立つと皇太后に訴えた。
「御祖母様、どうか、あの者をお許しください」
長恭は、正殿の階の前に跪くと、再び声を挙げた。
「御祖母様、どうか、お許しください」
藍色の空から、粉雪がさわさわと降り落ち、外衣だけを纏った長恭の肩や頭を白く染めた。
「皇太后様、たっ大変でございますよ」
夕餉が済み、陳皮茶の茶杯を手にしている婁氏の元に秀児が駆けてきた。
「若君が、あの者を許して欲しいと、正殿の前に跪いていられます」
なんと、何日か前の話を、また持ち出そうというのか。あんな女子のために、跪くなんて・・・。
「許せぬ、捨て置け」
「雪が降って参りました。若君は雪の中で・・・跪いていらっしゃいます・・・」
あまりのとこに、秀児は言葉を続けられない。
この前の長恭の話は、斉の中原での立場を考えた視野の広い話であり、納得できる部分もあったのだ。しかし、美女とは言えぬあの小娘に骨抜きになっている長恭が許せなかったのだ。長子の高澄によく似た長恭の想い人は、その母のような絶世の美女でなければならない。
耳を澄ませると、外から長恭の懇願の声が聞こえてくる。
「皇太后様、どういたしましょう」
婁氏は、榻の肘掛けに手を置くと、溜息をついた。ここで、簡単に許すわけにはいかない。
「居所に戻るように、言ってくるのだ」
小玉がでていくと、婁氏は急に長恭の身体が心配になった。大人になったとは言え、幼子の頃はよく風邪をひいたものだ。
「披風を持って行ってやれ」
秀児は、清輝閣から長恭の披風を持ってこさせると、外に出た。
白い雪の中に、縹色の外衣を纏った長恭が跪いている。結い上げた髷にも、肩にも白い雪がびっしりと張り付いている。
秀児は披風を広げると、長恭の肩に掛けた。見る見るうちに、藍色の披風の上に白い雪が積もっていく。
「若君、お戻りください。お体を壊されます」
長恭の長い睫にも粉雪が積もって、吐く息が灯籠の光の中で白く見える。
「秀児、御祖母様に言ってくれ、お許しがあるまでここを動かない」
秀児が居房に戻ると、婁氏はいらいらしながら待っていた。
「戻ったか?」
「いいえ、お許しがあるまで動かないと・・・」
粛は素直な子であった。いつでも祖母の気持ちを察し、我が儘など言わぬ自慢の孫であったのだ。それが、あの女子のためには、身体を壊してもかまわぬと言うのか。
少年期に身体を痛めると、大人になっても病弱になるという。身体を痛めたら、武功に影響をする。婁氏は、出て行って止めてこようと立ち上がってやめた。
いや、ここで許しては沽券に関わる。敬徳との縁談のあった女子など、長恭に娶らせるわけにはいかない。純粋無垢な美女こそ孫に相応しいのだ。
「皇太后様、雪が酷くなってきました」
秀児に言われて、婁氏は再度立ち上がった。
「様子を見に行く」
狐の縁取りの着いた披風を纏うと、婁氏は正殿の扉の内側に立った。
隙間から覗く。雪の前庭にぽつんと座る長恭は、頭も肩も雪に覆われ、僅かに顔が見えるばかりだ。
その哀れな姿に、婁氏は思わず扉を開けてしまった。雪が積もる階を、秀児に手を取られながら降りていく。
「粛よ・・・」
婁氏が冷たい手を取ると、長恭は虚ろな目を上げた。ほとんど意識がないのだ。
「立つのだ」
「御祖母様、青蘭をお許しください。あの者は決して私を謀った・・・」
血の気を失った唇が、つぶやくように動いた。ここで、否と言ったら、孫との距離は、取り返しの付かないものになってしまう。
「ああ、許そう」
「御祖母様、・・・ありがとうございます」
生気を失っていた瞳が、輝くと熱い涙が流れた。
「御祖母様、私を信じてくれて・・・うれ・・」
長恭は、そこまで言うと崩れるように雪の上に倒れた。
次の日の昼頃、祖母の臥内の榻牀の中で長恭は目を覚ました。
「粛や、目を覚ましたか」
視界がはっきりしてくると、目の前には祖母の顔があった。
『そうだ、私は青蘭の赦免を願って雪の中を跪いていた』
長恭は、起き上がろうとしたが、力が入らない。
「粛よ、もう外に跪いてはならぬ。あのような無謀なことをしたら、祖母の寿命が縮まる」
婁氏は、長恭の肩を押さえて衾を掛けた。
「御祖母様、私の願いは・・・」
寝込んだために、昨日の約束が反古になってはならない。苦しい息の中で、長恭は祖母に訴えた。
「粛よ、約束は守る・・・彼の娘を浣衣局から出そう」
「本当ですか。御祖母様」
青蘭の辛い浣衣局での苦行もこれで終わるのだ。ここで泣いてはいけない。そう思いながらも、瞳が潤んだ。
「そなたに、嘘はつかぬ。浣衣局から出そう」
婁氏は長恭を抱きしめると、秀児を呼んだ。
祖母の怒りは凄まじく、長恭は雪の中に跪いて許しを請うのだった。雪の中で跪く長恭の姿に、皇太后はついに青蘭を浣衣局から出すと約束をした。