浣衣局の青蘭
宦官を通して青蘭が安徳王に手紙を渡したが、延宗は無事渡してくれるのだろうか。、
★ 長恭への文 ★
皇宮の木々も黄色い葉を落とし、北風の吹く冬となっていた。
侍中府では、長恭が散騎侍郎として、上奏文の山と格闘していた。国境を守る砦である社平戍より俸禄の遅延の上奏が来ていた。長恭は、兵部の調査を命じる箋を挟むと、几案に置いた。
何と言うことだ、この国は命がけで国境を守っている軍籍の兵士の俸禄さえ滞っているのか。鄴都での権臣たちの贅沢な暮らしぶりを見るに、国境の守りの要である鎮や戍の窮乏が心配であった。
長恭は唇を歪めると首を振った。
「兄上」
侍中府の官房の入口に、萌葱色の影が立った。弟の安德王延宗である。
「兄上、いる?」
延宗は笑顔で入り口から顔を出した。
延宗は、宮中で育ったため皇宮の全てが我が庭のようである。陛下の寵児で乱暴者であることが知られているため、後難を恐れて延宗の出入りをさまたげる門衛はいない。
長恭は、外で待つように晴朗な瞳で指示を出すと筆を置いた。
延宗は、持中府の中庭、早咲きの蝋梅の木の下で長恭を待っていた。萌葱色の外衣が、延宗の無邪気な姿をより一層愛らしく見せている。
「兄上は、ずいぶん、しっかりと散騎侍郎の仕事をしているんだな」
延宗は、腕を組んで憎まれ口をきいた。
「私はてっきり、散騎侍郎とは名ばかりで、女子と戯れているのではと思っていた」
延宗は、袖口から紙片を出すと、長恭に向けて振った。
「それは、何だ」
「宮女から兄上への付け文だ。宦官が兄上に渡すようにと持ってきた」
「ふん、くだらん、燃やしておけ」
長恭に想いを寄せる女子は多い、皇宮に参内しているときも、密かに恋文を渡してくる女子は枚挙に暇がなかった。しかし、長恭は、自分に想いを寄せてくる女子には、いたって冷たい。
「分かった。浣衣局の宮女からの付け文だ。焼いておくよ」
「待て」
浣衣局という言葉が、引っかかった。もし御祖母様の怒りを買って捕らわれたとなれば、掖庭宮に送られた可能性が高い。その中でも浣衣局は一番奥まっている。そこから付け文なんて初めてだ。
「まこと、浣衣局からの文なのか。見せてみよ」
長恭は、延宗から紙片を取り上げると、急いで開いた。
『夜中 寝ぬる能わず 起座して鳴琴を弾ず』
手簡の手跡は、正しく青蘭のものだ。
この時代は、手簡が誰かの手に渡った時を考えて、私信には己の名前を記さないのが普通である。
青蘭の名前は記してないものの、手簡の内容は、自分に贈ってくれた詩賦の一節である。
庭に落ちていた玉佩と浣衣局からの付け文・・・。私の知らないうちに宣訓宮に来ていた青蘭は、なぜ浣衣局に送られてしまったのだろう。
「兄上、文を書いた宮女を知っているのですか」
延宗は、清澄な瞳で問い掛けた。
「この文を出した者とは、お前も知っている王文叔だ。文叔は女子で、・・・本当は青蘭という」
延宗は、女人には冷淡だと思われた兄が、男装の麗人を想い人にしていたと聞いて驚いた。叙任後、兄は、休みの度にあちらこちらに出歩いていた。それは、青蘭という女子を探していたのか。
「延宗、頼みがある。お前が浣衣局に行ってくれないか。・・・青蘭が本当にいるのか確かめてくれ」
「兄上が、自分で行った方が手っ取り早い」
「皇宮を自由に出入りできるのは、お前だけだ。私が掖庭宮に行けば、問題になる」
長恭は蝋梅の枝に手を置くと、溜息をついた。後宮の女子が注目する長恭が浣衣局に現れれば、大騒ぎになり噂が広まるのは必定だ。
「分かった、青蘭殿が本当にいるか確かめてくるよ」
延宗が梅林を去ると、長恭は梅の古木に寄り掛かり、しばし動かなかった。
★ 延宗の乱入 ★
浣衣局の衛門は開け放たれ、左右には門衛が守っている。延宗は門衛に腰珮を示すと、門内に押し入った。乱暴者の延宗を止められる者はいない。
「劉内官は、どこにいる」
延宗は藍色の長衣を振り回しながら、浣衣局を所管する宦官の名前を叫んだ。その長衣は、先日浣衣局で洗濯した延宗の日常着である。
乱暴者の延宗を避けるように、宮女や宦官が散っていく。
「ええい。劉内官を出せ」
延宗が辺りを睨むと、太った宦官が震えながら進み出た。
「安德王、何かご用で・・・」
「この浣衣局から戻った衣を見ろ、ボロボロだ。どうしてくれる」
ボロボロになった長衣を見せられた劉内官は、慌てて安德王を庁房に案内した。
「こ、これは宮女の不始末、どうかご容赦を・・」
いつも責任逃れする劉内官は、宮女のせいにすると蛙のように平伏した。
「これを洗った奴は、王青蘭だと聞いている。ここに出せ」
安德王の衣の洗濯は、青蘭が入宮する前のできごとだ。しかし、そのような話が通用する相手ではない。安德王が名前を口にしたことを幸いに、傍にいた宦官に命じた。
「王青蘭を、ここへ・・・」
宦官に呼ばれて青蘭が庁房の前に立つと、燕紹が、側に寄ってきた。
「安德王が、衣が綻びていると怒鳴りこんできたんだ。気を付けろ」
弟の延宗に連絡すれば助かると思ったのは、間違いだったのか。乱暴者の延宗は、青蘭が奴卑に落とされたことを幸いに、いじめようとしているのか。青蘭は、後悔で両手を前でぎゅっと握り合わせた。
庁房の扉が開く。青蘭は左右を宦官に腕を掴まれて、中に入った。
「そなたが、王青蘭か?」
正面の榻に座った高延宗が、憎々しげに片眉を上げた。重陽節に会った延宗は、可愛い弟だったのに、今日は鬼の形相である。
「私の大切な衣を、このようにして許せると思うか」
延宗は、帯に刺していた馬鞭を手にすると嗜虐的な笑みを浮かべた。その恐ろしさに左右の宮女と宦官が後ずさりした。
「青蘭、跪くのだ」
肩が強い力で押さえつけられ、青蘭は跪いた。こんな男に頼った自分が愚かだったのだ。青蘭は、延宗の顔を睨んだ。
「俺様が、詮議してやる。お前たち、邪魔だ出て行け」
延宗が馬鞭を持ち出して、大きく振るいビシッという音が響き渡ると、その場にいた者たちは恐れをなして出て行った。
奇妙な静寂が流れて、下を向いた青蘭に延宗が近付いてきた。
「立ってください・・・」
延宗は打って変わった笑顔で、青蘭を立たせた。
「青蘭殿、兄上の遣いで来た。受け取った文は兄上に届けた。兄上は、そなたを心配している」
延宗は青蘭の耳元で囁いた。延宗は師兄の頼みで来たのか。
「兄上は、そなたに会いたがっている。しかし、ここには来られない」
すぐに長恭に会えると思った青蘭は、がっかりした。
「この衣を修繕して、明後日に安德王府に持ってくるのだ。兄上が安德王府で待っている」
青蘭は、疑わしげに延宗の顔を見た。皇宮では、安德王の評判は地に落ちている。
「何だ、信じないならいい。せっかく来てやったのに」
延宗は不機嫌そうに口を尖らせた。
「わ、分かった。二日後には必ず」
青蘭は、学士らしく小さく拱手した。
「そうだ、それでいいのだ。何も無かったら、不審に思われる・・悲鳴を挙げるんだ」
延宗は、大きく床に馬鞭を振るうと、ビシッと大きな音を挙げた。
「ひゃああ、痛い、い」
青蘭はわざと大きな悲鳴を挙げると、跪いた。
「青蘭、頼んだ」
延宗は衣を青蘭に渡すと、扉を開けて出て行った。
★ 衣の繕い ★
「自分の衣をこれほどにするとは、安德王も酷い方だわ」
晴児は、延宗の長衣を持ち上げると、溜息をついた。明後日までに長衣を繕って持っていかなければならないわりには、衣のかぎ傷はひどかった。
夕餉がすむと、青蘭と晴児は作業部屋に籠もった。青蘭が針を持ち繕い始めたが、延宗により引き裂かれた長衣の繕いは、思った以上に難物だった。
「お嬢様、私がやっておきます。どうぞ、お休みを・・・」
青蘭との連絡のために持ってきたとは言え、衣の繕いに手を抜くわけにはいかない。ボロボロになった延宗の衣は、裁縫が不得意な青蘭では手に負えなかった。
「晴児、お願い・・・」
諦めた青蘭は、ゆっくり壁にもたれた。
「ここに入れられるほどの事を、私はしたのかしら。・・・それとも、江陵から、逃げてきた罰なの?」
長恭は延宗を寄越し自分では会いに来なかった。皇太后をはばかってのことにちがいない。どれほど一途なことを言っていても、母親代わりの皇太后には逆らえないのだ。
青蘭は、初めて涙を流した。
「お嬢様、若様は、お嬢様をさがして、何度も鄭家にいらしたのですよ。お嬢様を必死に探し回っていたのだと思います」
皇子と奴卑、二人の間に横たわる身分の違いが、青蘭の心を苛んだ。
二日後、青蘭は延宗の衣を盆の上に乗せると、延宗が寄越した宦官の後をついて安德王府に向かっていた。皇宮の北に位置する後宮は、皇后を初めとして多くの妃嬪の住まうところである。安德王高延宗は、幼き頃より李皇后の元で育てられたため、十四歳の現在でも宮殿を与えられて、後宮に住まっていた。
安德王府に行けば、長恭が待っているのだ。自然に足早になった。嘉猷門をくぐり後宮に入る。
薫風殿、就日殿の前を通り、安德王府になっている凝陰閣に入った。決して大きくはないが、簡素な中にも整美され、皇后の愛情が感じられる宮殿である。
宦官が声を掛けると、宦官が出てきて正殿に通された。中に入ると榻に座っていた延宗が立ち上がった。
「青蘭、来たのか。待っていたぞ」
延宗は笑顔で衣を受け取ると、卓の上に置いた。
「安德王、確認を・・・」
あの横暴な様子を見ては、猜疑心が拭えない。
「大丈夫だ、あの衣はもう使う気は無いのだ」
延宗は横柄に答えると、藍色の衣の衿をつまんだ。晴児と二人、苦労して繕ったというのに、人の苦労を無にする何という言い草だ。
「延宗様、確かにお渡ししました」
青蘭は、不機嫌に横を向いた。
そのとき、右側の戸が開いて長恭が入って来た。
「青蘭、会いたかった・・・」
長恭は延宗の目をはばかることなく、青蘭の手をにぎった。滑らかだった手が、いまは荒れている。
「師兄、やっと会えた」
長恭の逞しい腕が、青蘭を抱きしめた。たった二ヶ月半ばかりで青蘭はすっかり痩せてしまった。
「すまない、見つけるのが遅くなった。私を恨んでいるだろう」
長恭は弟を気にすることなく、両手で青蘭の頬を包んだ。
「恨むなんて・・・」
これは、夢ではないのだろうか。
「まあ、兄上。僕は用事があるから」
延宗はそう言うと、外に出て行った。
「本当に、探したのだよ。浣衣局にいたなんて・・・どういうことなのだ」
青蘭を榻に座らせた長恭は、両手を取ると頬に付けた。
「それは・・・」
経緯を詳しく話せば、皇太后への恨みを口に出すことになる。青蘭は口ごもった。
「分かっている。宣訓宮から連れて行かれたのだろう?・・・私が贈った玉佩が落ちていた」
ああ、無くしたと思っていた玉佩は、皇太后府から連行されるときに、落としたのか。
「皇太后の怒りを買ってしまって・・・」
青蘭は、曖昧に答えた。
「男子の振りをしただけで、浣衣局に入れるとは御祖母様も心が狭い」
「男子に成りすまして、師兄の心を惑わしたと・・・怒りを買ってしまったの」
祖母は、孫に申し分の無い嫁を望むものだ。男子だと偽り、縁談から逃げてきた娘は、とても許せないだろう。
「お前に惹かれたのは、私なのに・・惑わしたなどと、御祖母様の誤解だ」
ここで、敬徳との破談の話をしたら、一生浣衣局を出られないかもしれない。とても言えないことだ。
長恭は、青蘭の身体を引き寄せた。
「青蘭、しばらく辛抱してくれ。・・・君を浣衣局から一刻も早く連れ出したい。でも、御祖母様に正式に放免してもらわないと・・・二人の婚儀の差し障りになる」
長恭は、真剣に婚儀について考えてくれているのだ。
「師兄、・・・」
二人の婚姻の困難さをここで言っては、せっかくの長恭の希望を削ぐことになる。青蘭は、長恭の肩に無言で顔を埋めた。沈香の懐かしい香が官服の首筋から立ち昇る。
「師兄を・・・信じる」
青蘭が長恭を見上げると、長恭の唇が降りてきて、青蘭の存在を確かめるように濃厚な口づけをした。
★ 青蘭の放免 ★
長恭は侍中府での仕事を終え、足を引きずるようにして宣訓宮に戻った。
吉良に手伝わせて官服から平服に着替えると、長恭は、榻に身体を預けた。
侍中府に居る時は、職務に専心しようと心掛けている。しかし、居所に戻ると心に掛かるのは青蘭のことである。
御祖母様は青蘭を召し出すと、男装をして自分に近づいたことを咎めて、浣衣局に送ったのだ。しかも、そのことを自分に秘密にしていた。祖母の怒りは深い。
皇太后を動かし、靑蘭を浣衣局より救い出す策を考えねば・・。
「吉良、人を動かすのは、何であろう」
居房で夕餉の準備をしている吉良に、長恭は話しかけた。吉良は、幼き頃より皇太后に仕えている宦官である。
「宮中の話でございますか?庶民でしたら、それは、何と言っても、銭でございましょう」
吉良は、当然だと言うようにうなずいた。
「その人は、銭には興味がない」
吉良は、考えるとように顎に手をあてた。
「それでは、利でございましょう」
「利か」
人は、自分にとっていかに利益になるかということを考えて行動すると言うのである。祖母が青蘭を留めていることにより、鄭家との関係が悪くなることはあるだろうが、それによって不利益を被るのは、むしろ鄭賈のほうである。そのために、鄭家は青蘭の所在を知っていながら、何も動きが無いのだ。
「情や理は、どうであろう?」
「若様、聖人や想い人ならいざ知らず、市井の人間で情や理で動く人はいませんよ。情や理で腹が膨れますか?」
「それは、お前の話だろう?」
吉良は長恭に忠実だが、思ったことをずけずけ口に出すきらいがある。
青蘭は、ただの商賈の娘ではない。梁の王琳将軍と鄭賈の賈主の娘である王青蘭としての婚姻には、何かの政治的な意味があるはずだ。
「吉良、そなたに頼みがある」
長恭は夕餉の支度を終えた吉良を呼ぶと、強い眼差しで命じた。
「王青蘭や鄭家、そして王琳将軍についても、詳しく調べてもらいたいのだ」
「承知しました、若様。でも、それには少々・・・」
宦官には、独自の情報網があって官吏の家庭の秘密でさえも、残らず調べることも不可能ではない。
長恭は物入れから銀子の入って巾着を取り出すと、吉良に渡した。
「これは、手付けだ。もっと必要なら後に渡す」
吉良は、巾着を受け取ると、殿舎の外に出た。
延宗の尽力により、長恭と青蘭は安徳王府で再会を果たした。どうにかして青蘭を救いだしたい長恭は、青蘭について詳しく調べ始めた。