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高長恭の叙任

北斉の皇子高長恭は、学問に励んだことが認められ侍中府の散騎侍郎に叙任した。


   ★ 長恭の叙任 ★  


 十月の蒼天に、初冬の乾いた北風が吹き渡った。華やかに咲き誇った菊の黄色や、萩の紫は色褪せ、草花の葉は茶色に色を変えた。


十月の朔日(一日)になり、高長恭は侍中府に出仕した。

 侍中府は、皇帝を補佐し尚書奏事を処理する役所である。臣下の上程した上奏文や中書省の起草した詔勅を審議し、皇帝の承認を補佐するのである。散騎侍郎は、各州の刺史や廷臣から上げられる上奏文を読み、概要をまとめて内容に応じて整理分類することを主な仕事としていた。

定員は四名で、定員外の侍郎は四名であった。会わせて八名が交代でその職務に当たっていた。


高長恭は、先輩の散騎侍郎である高徳正の案内で書院に入った。

「毎日、膨大な上奏が送られてくる、それを処理するのが我々の仕事だ。まあ、皇子にとっては、つまらぬ仕事かも知れぬなあ」

皇宮でも有名な美貌の皇子を、高徳正は皮肉を込めて見つめた。鮮卑族の不満を受けて、最近は皇族を含む鮮卑族が官吏として登用されている。しかし、それらの者は皇族である事を鼻に掛け、名前ばかりの官位でほとんど仕事を為さないのが実情であった。

「とんでもない、上奏は国の根幹です。政の勉強になります。ご教授ください」

 長恭は神妙な表情で拱手をした。

長恭は同僚への挨拶の後、己の几案に座るとさっそく上奏文を読み始めた。


ほどなく、隣の几案に座る江規之が、話しかけてきた。

「高殿、そなたの歓迎の宴をかねて妓楼で酒宴の席を用意したのだ。そなたの美貌を持ってすればさぞや・・・」

 高長恭は秀麗な皇子として有名で、権門の令嬢だけでなく、妓楼の妓女たちの注目の的であった。

「好意は有り難いが、・・・皇太后が厳しくて妓楼への出入りは、許されておらぬのだ。だから誘いには・・」

長恭は言葉を濁した。

 高長恭が皇太后の寵愛している孫であることは、漢人官吏にも知られていることである。愛孫を妓楼に連れ込んだとなれば、皇太后の怒りを買うのは必定である。

「そうか、・・・残念だな」

鼻白んだ江規之は、上奏文に戻った。


宣訓宮に戻った高長恭は、清輝閣の窓から月のない星空を見上げていた。

 上奏文を読み、その概要を箋に書き出して添える作業は、単純だが斉の政の実情を知ることができる貴重な機会である。鮮卑族が支配する北斉では、皇族の本分は武功である。しかし、鮮卑族が政を総覧するためには、文官としての能力も必須である。

 自分も侍中府で散騎侍郎として地保を築いたら、散騎常侍や侍中として政道に参画する道も開ける。官吏としても力を付けて出世すれば、御祖母様に青蘭との婚姻について話ができるのだ。

青蘭の茉莉花の香りが懐かしい。青蘭に会いたい。学堂を出て、たった数日会わないだけなのに、学堂での生活が遠い昔のように思える。

 官吏はおよそ五日に一回休みを取れることになっているが、新任の高長恭は、月半ばまで休みが認められないのだ。

長恭は唇を噛んだ。


  ★ 青蘭の雲隠れ ★


 半月振りに長恭が訪れた顔氏邸は、紅葉していた木々が落葉し、赤い山茶花の花が咲くばかりの冬の佇まいを見せていた。

 青蘭に会いたい。茶色の落ち葉を踏みながら、長恭は足早に書房に向った。

 書庫に入ると、絹張りの窓から朝の光が差し込んでいる。懐かしい書見台の前に座る。二人で同じ書冊を見ながら、あれこれと論議したものだ。


 この半月、散騎侍郎としての職務に追われる毎日で、青蘭に手簡を出すこともなかった。休みになれば、学堂でいつでも会えると思い込んでいたせいもある。

 斉に来て二年、顔之推の名声はますます上がっている。書架を見ると、書冊や書巻が以前に比べて充実してきて向こうを見通せない。書架の向こうに、いつものように青蘭が居る気がして、長恭は立上がると、回り込んだ。


 その時、書庫の扉が開いて少年が入ってきた。顔之推の長男の顔思魯である。青蘭かと期待していた長恭はがっくりと肩を落とした。鉄紺色の長衣に身を包んだ顔思魯は、真面目な顔で書冊を書架に置き始めた。

「思魯殿、久しぶりだな」

 長恭の存在に初めて気が付いた思魯は、慌てて拱手した。

「若様、おいででしたか」

 顔思魯は、十歳を幾つか出ているだけであるのに妙に老成している。

「文叔は、来ているか?どこにいるのだ?」

 長恭はたまらず、文叔の居所を訊いた。

「文叔様ですか?・・それが、最近、学堂を離れたと聞いております」

「なに、学堂を離れた?」

 信じられない。長恭は、おもわず声を荒らげ思魯に詰め寄った。十月に入ってすぐに学堂に来なくなり、先日鄭家から、退学の申し出があったという。

 何と、自分が学堂を離れると時を同じくして、青蘭も学堂を離れてしまったのか。あんなに、学問に打ち込んでいたのになぜなのだ。

 婚儀の許しを得るまで待つと言ってくれたのに、私に何も言わずにやめてしまったのか。


★ 青蘭を探して ★


青蘭を説得せねば・・・。青蘭に学問を諦めさせてはならない。長恭は、馬車が走るのももどかしく、鄭家に向った。


 長恭は鄭家の門前で馬車から飛び降りると、青蘭への取り次ぎを頼んだ。

 私の顔を見知っているはずなのに、門衛が戻ってこない。しばらくして出てきたのは、青蘭の侍女の晴児であった。晴児は、辺りを憚るように大門の横に長恭を連れて行った。

「文叔に会わせて欲しい」

「長恭様、その、文叔様は・・・いらっしゃいません」

 晴児は、言いにくそうに下を向いた。鄭氏に会わせないように言われているのか。

「私を、謀るのか」

「ほ、本当なんです。・・・どこへ行ったのか分からなくて、私たちも右往左往しているのです」

何と、青蘭が行方不明になっている?

「それなら、鄭家の賈主に会わせてくれ。母親なら居所が分かるはず」

「賈主様は、屋敷におられません」

 晴児の様子は、嘘をついているようには見えない。

「文叔が、行方不明だなんて。どこへ行ったのだ」

「分かりません。ただ、慌てていらした賈主様が、最近落ち着かれたので、どこにいるかはご存じだと思いますが」

鄭桂瑛は、居所を知っているのか。何か自分の知らない訳があるのだろうか。

 長恭は溜息をついて鄭家を後にした。


★ 師父を訪ねて  ★


 その日の午後、長恭は顔之推を訪ねた。

 自分との関わりを嫌っているという鄭氏も、顔之推には事情を話しているに違いない。長恭は、正房に入ると師父に向かって丁寧に揖礼をした。

「長恭、朝に来ていたと聞いたが、帰ったのではなかったのか?」

「はい、用事がありまして、思魯殿には失礼しました」

「長恭、散騎侍郎の職をやってみて、どうだ?」

 長恭の焦りを見透かしたように、顔之推はのんびりと叙任の話題を出した。

「はい、・・・非力浅学な私には、まだまだこなすことさえ難しいです」

 長恭は、正直な気持ちを吐露した。

 

 顔之推は謹厳な様子で目を伏せている長恭を見遣った。

 長恭は、漢人の弟子に互する実力を身につけている。しかし、漢人が牛耳っている六部ではその実力を発揮しづらいであろう。ましてや長恭の秀でた容貌は、仕事には邪魔になることはあっても決して有利に働くことはない。

 長恭は我慢できず、姿勢を正した。

「今日は、お訊きしたいことがあってうかがいました。・・・」

 ただの学友である文叔の行方を、わざわざ訊きに来る長恭を、顔之推は不審に思うだろう。しかし、そのようなことを気にしている場合ではない。

「師父、王文叔が学堂をやめたと聞いています。なぜ、学堂をやめたのかご存じですか?」

顔之推は、目を細めて清澄な長恭の瞳を見た。長恭は文叔が女子である事を知っているのか。はたして高長恭と王文叔は、ただの学友の関係なのであろうか。

 高長恭は、婁皇太后の肝いりで入門を許可した学士だ。最初は、若君の遊び半分かと思ったが、他の誰よりも熱心だった。書庫や四阿で文叔と学問に励む姿が、よく見られた。一部には、長恭と文叔は、儒者として許されぬ関係なのではないかという噂も立っていた。

「十月の初旬に鄭氏が来て、文叔を家業の用事で休ませたいと言って来たのだ」

「はあ、家業の用事ですか?」

「親友の君には、知らせなかったのか?」

「その、最近まで知らなかったのです」

 母親が来たということは、命の危険があるというわけではないらしい。

『青蘭の行方を、母親は知っているにちがいない。母親に会って問いたださなければ・・・』

 長恭は、心に決めると顔氏邸を出て行った。


  ★ 鄭家を訪ねて ★


 星が輝き始めた頃、長恭は再び鄭氏邸を訪れた。昼間は外出していた鄭氏も、さすがに夜には戻ってくるだろうと思ったのである。

 観翠亭や天平寺での外泊で、青蘭の母親には好意を持たれていないにちがいない。しかし、会って青蘭の行方を訊かなければ・・。

 

 さすがに皇太后の愛孫を門前払いはできない。

 鄭家の内院に案内されると、長恭は周りを見回した。表門は決して大きくはないが、屋敷内は並の貴族が及ばないぐらいの広さがある。東西に多くの廂房を連ね、正房は端正な姿を見せている。


 家宰と思われる初老の男に従って、正房の前に立った。家宰が声を掛けると、程なく内側から扉が開いた。正面には、青蘭に似た四十歳ぐらいの上背のある女人が立っていた。鄭氏が、振り向くと丁寧に揖礼した。

「若君に、御挨拶申し上げます」

 鄭桂英は、現在商賈の主であるが、かつては、王琳将軍の夫人であった。

 鄭家は鄭道昭など多くの文人や学者を輩出した家系である。王琳と離縁した鄭桂瑛は、叔父の商賈を手伝うようになると、鄴の支店を任されその商賈を大きくした。

 賈人(商人)の鋭さと清雅さを併せ持つ鄭桂英は、優雅な所作で長恭に席を勧めた。鄭桂瑛は、慇懃で隙を見せない笑顔をみせた。

「学堂では、息子がお世話になっております」

『鄭夫人は、あくまでも男子だと強弁するつもりか』

 まず、居所を知るのが大切だ。

「若君には、どの様な用件で?」

「文叔殿とは、学堂で共に学問に励んできた。文叔殿には会って渡したい物がある」

長恭は桂瑛に勧められて、榻に腰を下ろした。すると扉が開いて、侍女が茶を運んできた。


 広い正房に香しい茶の香りが立ち昇る。鄭家は、元々は士大夫の家柄で単なる庶民ではない。鄴都の豪商は貴族と同じような暮らしをしているのだ。

「家業のために、他所に行っております。贈り物であれば、渡しておきましょう」

「大切な物なのだ。直接渡したい」

 長恭の言葉に、鄭氏は眉をひそめた。

「文叔は、じきに戻って参ります。・・・戻ってきたら、御連絡させますので」

 鄭桂英は、威儀を正すと冷然と笑った。

「居場所だけでも、教えてもらえませぬか」

 長恭は、必死に食い下がった。

「商賈には、情報の秘匿が大切なのです。お許しを・・・。皇子のお帰りだ」

 鄭氏は、手をたたくと家人を呼んだ。

 いくら斉の皇子である高長恭でも、無礼な物言いは出来ない。長恭は、溜息をついて拱手した。

「文叔が戻ったら、連絡をお願いします」

 桂瑛は立ち上がると、出口の方を示した。

「その、文叔は元気にしていますか?それが心配で・・」

 青蘭の身に危険な事が起こったのだろうか。せめて、それを確かめたい。

 前を歩いていた桂瑛は、長恭の方に振り向いた。

「長恭皇子、・・・失せ物は、意外に身近にあるのかも知れません・・・」

 桂瑛は礼をして送り出した。


  ★ 敬徳の就任祝い ★


 高長恭は数日後、冬晴れの中を清河王府に高敬徳を訪ねた。

 清河王高敬徳は、青州刺史への叙任が予定されている。長恭は、任官祝いを渡そうと、贈物を携えて清河王府を訪れた。それは、敬徳が屋敷に青蘭を隠しているのではと疑ったからであもある。

「久し振りだな、長恭」

 敬徳は、いつもの温柔な笑顔だ。不自然さは感じられない。

「敬徳、元気そうだな。青州刺史に就任すると聞いたぞ」

 長恭は、晴朗な笑顔を作ると贈物を渡した。

「江湖で採れた清明茶だ。青州で飲んでくれ」

 皇太后に献上された茶葉が、長恭の所に下賜されたのである。長恭は、磊落に笑うと敬徳の肩を叩いた。


 長恭は敬徳の後をついで、書房に入った。書房の中を見回したが、青蘭のいるけはいはない。

 几案の上には、清河郡の知府からの上奏文や帳簿がうずたかく積まれている。

「侍中府での、そなたの仕事振りは聞いている。故事に通じ、修辞法にも優れているとか」

「そんなお世辞は辞めてくれ。それより、青州は大国だ。そこの刺史に任官するとは、陛下がお前の実力を評価しているからだろう」

長恭は敬徳の傍に行くと腕を乱暴に叩いた。

 青州は、斉水が渤海湾に注ぐ河口に広がる上国(豊かな国)である。青州は前王朝の北魏の時から皇族が支配した土地であった。そのため斉王朝の成立後もその支配に屈しない豪族の不穏な動きには常に警戒が必要だった。

自分は、散騎侍郎としてやっと政に参加し始めたばかりである。それに対して、敬徳は、領地の清河郡の経営だけでなく、青州の監察に力を発揮できるのだ。敬徳が羨ましい。

「本当は、青州刺史の仕事には興味はないのだ。むしろ、斛律光将軍の旗下、周との戦いに出征できないのが悔しい」

 国境を接する周の動きが十月になって報告されてきた。それに対抗して、斛律衛将軍の扮州への出兵が論議されていた。


長恭は取り上げた報告文を閉じると、話題を変えた。

「そう言えば、王文叔が最近学堂に来ていないそうだが、何をしているか知らないか?」

 几案に座った敬徳は、驚いたように長恭を見た。

「王文叔が、学堂に来ていない?・・・さあ、最近会っていない・・・」

 敬徳は、あえてそっけなく言った。文叔に対する友情が、道ならぬ恋に逸脱しそうで会いに行けなかったのだ。

「文叔は、鄭家の息子だ。商売で出掛けることもあるだろう」

敬徳は、卓の前に座ると長恭に茶を勧めた。

「敬徳、いつごろ青州に赴任するのだ?」

「年内には、赴任する予定なのだ。長恭、今度宣訓宮のうまい酒を飲みたいな」

「じゃ敬徳、今度我が居所で一緒に飲もう」

 長恭は笑顔で清河王府を出た。清河王府には、青蘭の痕跡はなかった。

長恭は意味ホッとするとともに、青蘭の手がかりが何も無くなってしまった現実に暗澹たる思いだった。


★ 青蘭への思い ★


 青蘭はどこにいるのだろう。元気でいるのだろうか。

 侍中府から宣訓宮に戻る横街から上を見上げると、東の空には欠けることのない満月が昇ってきた。十月十五日は、下元節だ。

清輝閣の窓を開け放ち、長恭は満月を見上げた。

「青蘭、君はこの月をどこで観ているのだろう」

藍色の夜空に銀色の月が煌々と輝いている。

 長恭は久し振りに琴を取り出すと、弦の上に指を滑らせた。左の指で弦を押さえ、右の指でつま弾く。幽玄な琴の音が、書房の蝋燭を揺らした。。

 なぜ、青蘭はいなくなったのであろう。自分との交際を母親に知られて、禁足を言い渡されたのか。それとも、直ぐに連絡を取るという約束を、自分が果たさなかったからだろうか。


 目を上げると、青蘭から贈られた阮籍の詩賦の掛物が目に入った。

『青蘭、なぜ、私に何も言わずに姿を隠したのだ』

 長恭は、散騎侍郎の仕事で力を付け、皇太后から信頼を得た上で婚姻の話を願い出るつもりであった。それを待たずして、学堂を辞めてしまうなんて・・・。もしや、重陽節での楽安公主に罵倒されたことに、気落ちして雲隠れしたのか。


 夜中、寐ぬる能わず

 起坐して、鳴琴を弾ず


 長恭が左の指を強く揺らすと、琴の幽韻が玲瓏な光の中を流れた。





忽然と長恭の前から姿を消した青蘭を、長恭は必死で探すが、ようとしてその姿は見付からないのであった。

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