残り香の調べ ~ 来し方行く末 ~
読んでくださりありがとうございます。
長く読みづらい言い回しになってしまっている部分もあることと思いますが、主人公たちの性格、考え方について、伝わるように書けていると嬉しいです。
消えた灯火 儚く香り
想いは巡る 祈りを乗せて
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これで何度目だろうか。揺らめきながら現れる薄く白い靄が幾重にも重なり、視界が真っ白に包まれ、少しの時間を置き、移り変わった景色が次第に見え始める。清春はまた流れに任せ続きを待つ。
やがて視界が明瞭になり、目の前に広がった庭の景色を目に取り込み、静かに状況を推測する。
先程までは短い時間の中の特に強く記憶に残る場面が少しずつ繋げられているようであったが、今回は時の進み具合が大きかったようだ。明確な日付は覚えていないが、終わらない幸せなどないのだと現実として突き付けられ、それを頭だけではなく心で知った日から半月程が過ぎていた。
卯月の下旬に差し掛かる頃。春は深まり、陽射しの穏やかな暖かい日が続いていた。
行く当てのなかった清春たち兄妹は、庵に助けられ影千代の治療を受けた後、そのまま庵の家で世話になることとなった。
姉に託されたからという理由を語ってはいるものの、姉の言葉がなくともきっと庵は清春たちに居場所を与えてくれていただろう。半月を共に過ごす中で、清春は自然とそう感じるようになっていた。食客が1人から3人になろうと4人になろうと変わらないと抑揚のない声で言っていた素っ気ない姿から本心を正しく探ることは難しいが、庵の義理堅く面倒見のよい人柄は出会ってから半月の間にそれとなく伝わってきていた。
仮に親切心からのことではなかったとしても、住む場所に困らずに済んだことは清春たちにとっては大変有難いことであり、世話になるからにはできる限りの手伝いをしたいと考えていた。料理、洗濯、掃除、買い出しなどできることは限られているが、思いつく限りのことを申し出て、進んで行った。家の事で中心となって動くのは家主の庵だが、清春たちの申し出は断られることはなく、客人扱いを続けられ申し訳ない居心地の悪い思いをすることなく済んでいた。庵から具体的な指示を受けることはあまりないが、これまでも実家で家事の手伝いは行ってきたため、自己流ではあるものの3人ともが概ね滞りなく手伝うことができた。真光がこれまで行ってきた仕事も分けてもらいながら交代でいろいろなことを行おうとしていたが、全員の意向により、料理だけは4人の中で唯一得意な天音がほとんど担当するようになった。以前は真光と庵が交代で行っていたと聞いていたが、こればかりは庵よりも天音の方が上手であり、庵も納得した様子で任せていた。
今まで1人で手伝っていたことを誰かと一緒にできるようになったことで、家事が楽しくなったと真光は言っていた。その言葉で、3人の気持ちは随分と軽くなった。
人との間に壁を作らない真光と3人は一緒に暮らし始めてすぐに打ち解けることができていた。蜂蜜のような透き通った金色の目を細め、いつも明るく屈託のない笑顔を向けてくれる真光は、気丈に振る舞っているつもりでも、突然思い出したように悲しみが湧き上がってきては心を押し潰されそうになる、という状態を繰り返している3人の消えない苦しみを自然な言動で和らげてくれていた。ただ純粋に楽しんでいるようでいて、その実深く考えてから伝えられる冗談めいた発言に救われることもあった。
真光もまた、同じ歳の友人2人と弟のような存在ができたことを心から喜んでいた。八重歯を見せながら嬉しそうに話しかけてくる姿が、清春たちを歓迎してれているという事実が嘘偽りのないものだと信じさせてくれていた。
彼らと過ごす日々が少しずつ当たり前に感じられるようになり始めていたが、清春も天音も、彼らが当たり前のように受け入れてくれたことは当たり前ではないのだとそれぞれ自分に言い聞かせ、心から感謝していた。大切なものを失った後にも尚、温かく迎えてくれる居場所があることが、悲しくて痛くて有難いことなのだと思い知らされた。
記憶の中の自分に入り込んでいるような状況の清春は1人縁側で夏へと向かいかけている春の庭を眺めながら、さらにその中で記憶を辿っていた。いつの間にか不思議な感覚を不思議なまま受け入れられるようになっていた。
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失って得たこの半月の間に、清春の身には1つ不思議なことが起こっていた。
完全にではないものの、耳の痛みがほとんど消え、傷に当てていた綿紗を外した時、普段は5人と1羽しか出入りしない家の縁側で、清春は聞き覚えのない声を聞いた。
鈴の鳴るような声。その先に居たのは杏だった。この時も杏はお気に入りの最も小さな姿で庭の草花と戯れていた。
賢い杏が人や烏天狗の言葉を理解しているのは察しがついていたが、それを喋ることができるとは思わず、驚いて呆然としていると、杏は跳ねながら清春の足元までやってきて、軽く羽ばたき縁側に登る。
「お前、俺たちの言葉が喋れたのか」
驚きを隠さないまま零れてきた清春の言葉に、杏は小さく首を横に振った。
「違う。清春が私の言葉を理解してるの。私は今も私たちの言葉であなたに話しかけてる」
目を丸くしている清春を、杏は真っ直ぐに見つめ返している。その宝石のような瞳は穏やかな気持ちで自然と信頼できるような、言葉以上のものを語る真摯な色を湛えていた。杏の言葉が分かったことで逆に、言葉が通じなくとも揺るぎない心を映す瞳や仕草から伝わってきていたものがあったのだと悟った。それはきっとどんな種族でも変わらないのだろう。
本来、獣や鳥、蟲などの姿をした妖の使う言葉は、人間の話すものとは異なっている。人の形をとる妖――――烏天狗や鬼、化け狐・狸・鼬など――――は人間と同じ言葉を話し、対等に生活している。人型の妖とその他の妖とは互いに相手の言葉を話すことはできない。異なる地方や国の言葉のように学べば身に付けられるというものでもない。しかし今清春が感じたように、互いに理解し合える言葉がなくとも、人も各種の妖も、意思を伝え合い共存することができていた。昔から言葉に頼らない対話を和久国の者たちは大切にしてきた。
それでも、言葉が直接伝わることで便利になることは多い。清春自身は、便利さよりも、急に得た能力への戸惑いと驚き、そして杏と話せることへの単純な嬉しさを強く感じていた。
綿紗を外した瞬間に杏の言葉が分かるようになったということは、それができるのは左耳だけなのだろう。落ちた聴力は回復しないだろうと聞かされていたが、杏の声が聞き取り難いということはなく、むしろ今まで以上に鮮明に聞こえるようだった。頭の中全体に綺麗に響くその声は心地良く感じられていた。
「鬼や天狗とは普通に喋ってたけど、八咫烏と話すのは初めてだ。何だか新鮮だな」
「そうね。でも、私たちはみんな、あなたたちの言葉を理解することはできてるの。あなたたちが私たちの様子から気持ちを汲んでくれるように」
「そうだろうとは思ってた。これまでちゃんと考えたことなかったけど、言葉がなくても意思を伝え合ってこれてたって考えるとすごいよな。でも、同じ言葉を交わせるのと交わせないのとじゃ随分と違うとも感じる」
「言葉の壁がなければもっとたくさんの気持ちを通わせることができるんでしょうけどね。ただ、皆が平等に種族に関係なく言葉を交わすことができるなら良いんだけど、特定の誰かだけが特定の力を持ってるということは、良いことばかりでもなくて......。私はあなたの他にもう1人私たちの言葉を理解できる者を知ってるけど、便利だからこそ力を悪用されると厄介なのよね......。清春は大丈夫だろうけど」
言葉を切る杏に清春はもう少し詳しく訊ねようとしたが、それは清春の方へと1歩近付いた杏の続けた言葉に遮られた。
「この話、当面は聞いてないことにしておいてほしいんだけど」
急に少し気まずそうに頼んでくる杏に、分かった、とだけ告げて、清春はそのまま言葉を飲み込んだ。きっと天叢雲の規則に関する理由なのだろうと予測する。そして、知りたい気持ちよりも、言えない彼女の事情に配慮したいという思いを優先させることにした。
会話内容の詳細は伏せ、杏の言葉が分かるようになったという事実を庵に報告すると、庵はすぐに影千代へと連絡を取った。その手紙を届けてくれたのも杏であり、彼女がどこまでも青く高い空へと飛び立つ前に、行ってきます、という軽やかな声を聞いた。
治療してもらった日の帰り際、清春の耳に何らかの異常が生じる可能性があることを庵も影千代から聞かされていたと聞き、あの日玄関で2人が話していた時の様子を思い出す。治療の際、影千代は明確ではない確信の持てない違和感を覚え、気に留めておくよう庵に伝えていたとのことであった。その違和感の正体は、影千代には分からなかった様子だ。闇雲に付けられた傷ならば何か呪いのようなものかもしれないと気にしていたそうだが、今回の能力を得たことがその結果ならば、どうやら違ったようだった。
だが、耳に傷を負うことで何故このような変化が生じたのかは分からず、清春は情報の少な過ぎる現時点で深く詮索することはなかった。生じた変化で特別に困ることはなく、気にかかるのは聞いていないことにしてほしいと言っていた杏の発言くらいで、影千代の返事をゆったり待とうと思っていた。仮にこのまま理由は分からないままであったとしても杏の言葉を理解できるようになったことは清春にとってはやはり単純に嬉しいことだった。
しかし、代償が全くなかったわけではなかった。影千代に言われ、覚悟はしていたため大きな動揺はないが、庵と話を続ける中で、杏の声を聞くことができるようになった左耳はそれ以外の今まで聞こえていた音や声を聞く力をほとんど失っていることに気付いた。その影響がどれ程のものかこの時点であまり想像はつかなかったが、深く考えず、ひとまずありのままを受け入れようと決めた。
蒼天に消え一刻ほどで杏が帰ってくると、折りたたまれ足に結ばれていた返信を庵がすぐに確認する。影千代にも原因は分からないようだが、傷を負わされたことと無関係ではないだろうとその中に書かれていた。不思議ではあるが悪い変化ではないため、そのまま様子を見ることとなった。
その後、それ以上の変化がすぐに生じることはなく、杏と話せることにも半日も経たないうちに慣れてしまった。真光と樹は清春のことを羨ましがり、何度も通訳を頼んでいた。無邪気な2人の様子を眺めながら、それに混ざることも止めることもしない天音も、本来の聴力を失っていることを気にかけているため言葉には出さないが、杏と直接会話してみたいと思っている様子だった。
左耳のほとんどの聴力と引き換えに得た能力。天音は心配してくれているが、右耳の聴力が残っている状態では得た物の方が随分大きなように感じていた。
後に、清春たちには正確な事実を知っておいてほしいのだと、杏はこの能力を利用して、1つ大切なことを教えてくれた。
雨鳴村の一角が襲撃された日、庵は杏を雨鳴村へ偵察に向かわせ、時野村で別の任務の聞き取りを行っていた。闇雲が雨鳴村で何かを企んでいる様子があるという情報は掴んでいたが、その計画の内容や正式な日時は予想できないでいた。この他にも複数の懸念事項が動いており、何か動きがあった際には誰かが対応できるようにと隊員たちが各地に配置されていた時だった。
各家庭に灯りが点され、夕食を囲んでの談笑が響いていてもおかしくない時分。穏やかな空気を破壊音と悲鳴が切り裂いた。最初に狙われたのは時枝家の道場のすぐ近くの長屋だった。村に住む奏と村内に控えていた2人の隊員が駆けつけ、闇雲の一員と戦闘を始めると同時に、杏は庵へと報せに向かった。庵は杏の様子を見てすぐに当日の宿を離れ、雨鳴村へと急いだ。
到着した時、報せから半刻も経っていなかったが、村は瓦礫と火の海と化していた。崩壊した村を見て、まだ救える場所はないかと探し始めた時、3人の子どもが走って村を出て行く姿を見た。背格好の似た少年少女と片翼の幼い烏天狗という組み合わせから、すぐに奏の姉弟だろうと推測できた。必死な様子の3人を追いかけようとしたが、少し距離をおいて、闇雲の構成員が1人その後を追おうとしていることに気付く。夜の闇の中、崩れた家から上がっている炎に照らされる顔は般若のような形相で、その目は血走っていた。
刀を抜いて駆け出した庵がその行く手を阻む。闇雲の男は立ち止まり、庵に向かって構えの姿勢をとる。お互いが睨み合う短い静止状態の後、両者は同時に地面を蹴った。力のありそうな体格の良い相手であったが、速さの差は歴然で、庵は相手の苦無を弾き飛ばすと、炎を映し煌めく刀を回転させるように持ち替えて、そのまま足の甲へと突き刺した。相手は足を地面に固定されると共に、鈍い呻き声を上げる。
それも束の間、庵はすぐに刀を抜き、清春たちの向かった方を見遣る。しかし、3人の姿はすでに消えていた。
その時、遠目に村に控えていた天叢雲の隊員の1人が清春たちの家の方へと向かっているのが確認できた。庵は刀を収めると踵を返し、血の吹き出す足を押さえ立ち上がれない男を残し、3人の向かった方角へと駆け出した。
庵はその場で考えられる範囲での最善を選んでくれていた。同じ日に2度も自分たちの命を救ってくれていた。庵の語ろうとしなかったあの日の詳細を聞き、清春は助けてもらった日の翌日に自分の言葉によって浮かべさせてしまった庵の表情を思い出し、改めて自分を責めた。あの日玄関に居た女性の気持ちも蔑ろにしたくなかっただけであったが、きっとすでに分かって苦しんでいたであろう庵に対し、自分が言うべきではなかったと後悔した。そのようなことを言ってしまった自分がひどい悪人のように思えた。次第に重い口調になっていった清春の通訳を聞いていた天音、真光、樹は何とも表現し難い表情を浮かべている。清春は無意識に奥歯を噛み締め拳に力を込める。
「知らなかったんだから、あなたは悪くない。言わない庵が悪いの。いつも言葉足らずで誤解されてばかりなんだから。
でも、今回のことは知っておいてほしかった。清春を責めたかったわけじゃなくて、あなたたちに庵のことを誤解してほしくなかったの。許してね」
杏は申し訳なさそうに頭を垂れる。
あの日の庵と女性の会話、庵と清春の会話は杏も聞いていた。清春もそのことには気付いていたが、当時は特に気にしていなかった。しかし杏は深く考えてくれていた。清春は、杏は悪くない、責めるつもりは一切ないと伝えるため、ゆっくりと頭を横に振った。その表情にも杏の様子と変わらないくらいの申し訳なさが滲み出ていた。
彼女から事実を聞いたことは、4人とも庵に告げることはなかった。なんとなく、告げるべきではないと感じていた。清春の心の隅に居座っていた庵の選択に対する複雑な感情は形を変え、大きな感謝の念と同化した。
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回想が終わり、また感覚を伴う記憶の中へ戻ってくる。1人陽光を浴びながらほんのりと温かい縁側に座っていた清春のもとへ、台所の方から歩いてきた天音と真光が姿を現した。
この日庵は非番であり、樹は庵の買い出しについて隣の千桜町の中心部へ出かけていた。時野村の外れにある庵の家には清春、天音、真光の3人と杏が残っていた。
庵に何かを頼まれた時の樹は心做しかいつも嬉しそうな表情を見せている。人見知りの激しい樹が庵には初日から心を許していることは、不思議なようで、しかし何故かとても自然に納得できた。樹は臆病で優しい。人一倍、人のことをよく見ているが故に、相手の本質を見抜く力にも長けているのだろう。
2人が出かけ、半刻が過ぎていた。真光は暇を持て余していたようで、台所に立ち、玉ねぎ、春菊、苺、餡子、塩、味噌というよく分からない組み合わせの食材を並べ何かを始めようとしていたのを天音に止められたところだったらしい。
真光が清春の隣に腰を下ろし、天音もその隣に続く。杏は家を囲むように広がる菫や蒲公英といった春の草花の生い茂る庭で身を翻しながら舞う蝶を追いかけて遊んでいる。
庵の伝達役を務めている杏は、日頃は庵の任務について出掛けているため行動が制限されていることが多い。天叢雲の一員と言って差し支えはない働きをしている彼女が庵と行動を共にすることを誇らしく思っている様子も度々窺えるが、こうして自由に過ごせる時間は嬉しいのだろう。無邪気なその姿は幾度も修羅場を潜り抜けてきたであろう妖のものとは思えない。時が緩やかに感じられた。3人は縁側に並んで腰かけたまま、暫くそんな杏の姿と満開の時期を過ぎた桜の木を眺めていた。
「私、天叢雲に入る」
少し強めの風が吹き、残った花びらの大部分が一気に宙に舞った時、天音がそう呟いた。
「こんなことにならなかったら気付けなかったことがたくさんあった。平和な場所で、世の中の綺麗じゃない部分をあまり知らないまま、守られながら生きていられることに甘えてたんだと思う。きっと」
天音は一旦言葉を切る。一瞬、前を向き先を見据えるようなその瞳の中にも桜が舞っているかのように見えた。
「家族、友人、知人には恵まれていて、常に優しさや温もりに囲まれて生きてきた。家は決して裕福じゃなくて、でも貧し過ぎもしなくて、適度に幸せな生活が何の努力もなしに当たり前のように送れてた。
それが本当は当たり前じゃないって心の隅では分かってたけど、これまでは見てる世界が狭すぎて、自分と身近な人たちのことしか考えてなかった。
世の中が理不尽なことで溢れてること、誰にも手を差し伸べてもらえないまま深刻な問題を抱えて苦しんでる人もいるということは、話で聞いて心を痛めたつもりになっていても、身近なこととして捉えようとしてなかった。それがこんなことに繋がっているなんて想像することもなかった。実際は身近なところでもあったことかもしれないのに、気付かないように無意識のうちに目を逸らしてたんだと思う。何かを恐れて、自分たちに都合のいいところだけを見ようとしてた。身の回りの人に何かあった時には微力でもできることを探してきたつもりだけど、他のことには無関心で、自分たちさえ良ければいいんだっていう考えが、明瞭なものじゃなくても確かにあった」
血の繋がりは関係のない、本物の繋がりを感じさせてくれていた家族、道場や寺子屋で出会った仲間、親切な近所の住民たち。天音たちを取り巻く環境は、一見安定した穏やかなものだったと言える。そんな中で目に見えない暗く濁った側面に気付けないことは仕方のないことだが、天音は平凡な幸せに感謝しながらも、そこで能天気に生きてきた自分を良しとしなかった。
「でも、現状を知ってしまったから、そんな自分と向き合うきっかけができて、今のままじゃいけないと思った。村が被害を受けて良かったなんてことは絶対に言わないけど、これまでの自分のまま生きていくことにならなくて良かった。身勝手な私たちの心の弱さが生んでしまった組織に責任を感じるなんて言ったら烏滸がましいのかもしれないけど、いつかそこに繋がるような理不尽な差別も嫌がらせも、身近なひとつひとつを見過ごしていて良いわけがない。
見て見ぬふりができなくなった途端にこんなことを考えるのは虫が良いかもしれないけど、誰ひとりとして無関係な話じゃない。目を逸らし続けてきた私もきっと、それが見逃される空気をつくっていたっていうだけで、誰かを傷付けるのに加担してたことになる。自分たちさえ良ければいいっていう考えが自分の心の隅にあったことが心底怖くて自分が嫌になった。
罪滅ぼしのつもりでも、村を襲った相手の行動を肯定できるわけでもないけど、復讐したいと思うほど傷付いてる誰かの心に鈍感ではいたくない。蔑ろにしていいわけがない。できるなら解りたい......でも、罪のない人が復讐に巻き込まれるのも防がなくちゃいけない」
考えが及ばなくて当然のことさえ自ら知ろうとしなかったと責めてしまうような真面目な性格、強過ぎる責任感が生んだ想いで、天音は過去の自分を甘かったと戒め、今後への不安と葛藤しながら、納得のできる道を探していた。多くのものを失った悲しみの中で、生き残った者にできることを考え続けていた。
「きっと想像してるよりずっと根深い問題だろうから、私なんかに何がどこまでできるかは分からないけど、この状況を変えるために動きたい。ちゃんと現状を知って、少しずつでもこの世の中の悲しいことを減らしたい。奏姉さんもとうさんたちもきっと同じような想いで戦ってたんじゃないかと思う。その想いを大切にしたい。
このまま自分たちの身だけ守って生きていくのはもう嫌だと思った。変わりたい。天叢雲に入って、他者の苦しみにきちんと気付いてそれと向き合える人になりたい」
肩まで伸びた利休茶の髪を春の風に靡かせながら、少々力の込もった声で、天音はここ数日考え続けていた心の内を語る。憎悪、怨嗟、侮蔑、嫉妬、欲望――――――。遠い昔から蔓延っている悲しい感情は完全に尽きることはないのだろう。それは心を持つ限り仕方がないことなのかもしれない。しかし、それらの感情と上手く付き合っていくための手段を考え続けることは止めてはいけないと思った。
自分の中で見つけたいくつかの答え。大切にしたい考え。それに忠実でありたいと願った。
「今の私じゃ無力すぎてほとんど何もできないだろうけど、だからって、何もしようとしないでいるのは耐えられない。これまで見て見ぬふりを平気でしてきたのに、都合がよすぎるとは思うけど......。誰かにそれを責められたとしても、上辺だけのの正義感だと思われたとしても、天叢雲に入ることで何かできることを見つけられるなら、手が届く範囲だけでも、誰かを救える可能性があるなら、そのために生きてみたい。
何をしたってもう取り戻せないものはあるけど、せめて、残されたものは守りたい。樹にももう辛い思いはさせたくない」
天音の言葉に力が込もる。地面に辿り着いていた最後の花弁は、蒲公英の葉に支えられ、力強く儚く、さらに吹く風に抵抗していた。
「俺もそうしようと思ってた」
続けて口を開いた清春の言葉を意外に思う様子もなく、それが分かっていたかのように受け止め、天音は語り手を清春に譲る。それは季節の移ろいのように自然な流れとして彼らの間で繋げられていた。真光は下駄を脱ぐと縁側に足を上げて組み、身体ごと清春の方へ向き直り、静かに話を聞き続ける。
「あれから、天音と似たようなことを考えてた。平和な環境で優しい人に囲まれて生きて来れて、本当に恵まれてたんだって、今更ながらそう思う。
でも、天音も言うように、この数日で知った一連のことは他人事じゃないんだって、なんで気付けなかったんだろうって、思ってる。庵さんから教えてもらえなかったら、きっとこんなこと考えられなかったと思う。身の回りの見えてる環境にしか目を向けられてなかった。差別や貧困に苦しむ者もいるってことを、身近な問題として捉えようとはしなかった。
実際に誰かが傷付けられるのを目の当たりにして放っていたわけじゃないけど......でも、見て見ぬふりが立派な心の暴力なら、知ろうとしなかったことも同じようなものだ。ちゃんと向き合っていれば気付けたことがあったかもしれないのに、それができなかった」
清春も、自分の過ごしてきた環境の有り難みを改めて噛み締め感謝しながらも、そのために気付けなかったこと、持てなかった気持ちがあることに後ろめたさも感じていた。視野の狭さ、知識の少なさ、考えが及ばなかったこと――――――。自分の所為ではないことも含め、自分を責める要素としていた。そこには本来の真面目で優しい性格であるが故に自分を苦しめてしまう危うさや脆さも見え隠れしていた。しかしその自責の念は、喪失感や後悔と相まって清春にはっきりとした1つの想いを持たせていた。
「今はいろんな人や妖のいろんな想いと向き合いたいと思うんだ。たとえどんなに綺麗な心を持ってる者でも、意図しなくても誰かを傷付けてしまう可能性があるなら、そんな業のようなものを誰もが背負ってるなら、逃れられるものじゃないなら、向き合い続けるしかないと思う。俺自身、自覚なく誰かを傷付けてることもあるだろうし......」
心を持っている以上、簡単には逃れることのできない傷付け合い。助け合うことのできるその手と言葉で、それは簡単に行われてしまう。
それは悪いものばかりではないかのかもしれない。己の利益のために誰かを貶める者、己が生きるために誰かから何かを奪うことを選ぶ者、己の快楽のために誰かを痛めつける者も居れば、誰かを守るために戦う者もいる。時には己の信念に誇りを持ってそれを貫くために刃を結ぶこともある。悲しく醜く美しいそれを、敢えて業と呼んでみた。清春は無意識に自分の胸に手を当てていた。生きているだけなのに少し胸が痛む気がした。
「生きているものみんなが心を持っていて、守りたいものとか大切にしたいものとかがそれぞれにある以上、すれ違いや衝突は避けられないんだろうけど、明確な悪意、一方的な差別や暴力、それに抵抗できず苦しんでいる者、負の感情を持って復讐する者......目を逸らしてちゃいけないものがある。
村を救うとか、国を救うとか、そんな大それたことは考えられないけど、手を伸ばせば届くところで何かが起こって、何かできたかもしれないのに誰かが傷付き大切なものが失われていくのを黙って見ている自分自身は許せない。
自分を責めずに済む何かがほしかっただけで、結局は自分のためかもしれないけど、今はそれしかできることが思いつかない。だから俺も天叢雲に入る」
少し自嘲気味に、胸の内を吐露した清春は、じっと聞いていてくれた2人に心の中で礼を述べた。
失い、後悔し、学んだこと。村が襲撃された時、姉に庇われ、その姉を置いて逃げるしかなかった。妹と弟を安全なところにと考えるだけで必死で、戦う姉を前に、少しの助力もできなかった自分は無力だった。
そんな自分を棚に上げて、庵の選択を、少しだけ、否定したい気持ちになってしまったことがあった。姉も一緒に助けられる可能性を捨てた庵に思うところが以前はあったが、自分自身は助けてもらい、心底感謝もしているのに何か言える立場ではなく、複雑な気持ちのままでいたところに、真実を聞かされた。後悔し、謝りたいと望んだが、庵の方はそれを望まないだろうと考え、その想いを別の形で活かすことにした。
弱い、迷ってばかりの今の自分に大きなことができるとは思えないが、憎しみの連鎖の成れの果て、復讐のために動く者たちがいることを知った今、心のままに決めたことが天叢雲への入隊だった。
忘れてはいけないことがある。天音の言うように、今更虫が良い、調子が良いと思われるかもしれない。独り善がりな正義感がただ出しゃばっているだけかもしれない。結局は自分のために繋がる理由ばかりで、偽善にしか見えないかもしれないが、しかし、軽い気持ちで決めたことではない。曲げるつもりはない。今できる精一杯の範囲で、誠実でありたかった。他者の痛みを分かることができる人間になりたかった。今からでも遅くないと信じて変わりたい。大切なものを見落とさないように。
それに、もう帰るべき家も、継ごうと思っていた道場もなくなってしまった。居場所と役割が必要だった。生き残ってしまった自分にできることは何か考えた結果思いついたのは、地道な毎日の積み重ねだ。同じ悲しみを繰り返さないためにできることは、知ったこと、学んだことを活かしながら、今できることを考え続けるのを止めないことだろう。天叢雲への入隊は、更にその考えを深めるための知識と力、そして自分の向かうべき方向を決めるための手懸りを与えてくれる気がした。
「それに、救ってくれた人たちに恩を返したい気持ちもある。これが恩返しになるかは分からないけど」
苦笑しながら、清春は両親や姉の最期の姿と影千代たちが帰った後の庵の言葉を思い出す。救われた命は大切にするべきなのだろう。しかし、その方法はよく分からなかった。命を大切にするとはどういうことなのか、考え続けていた。
あの姉や継父が適わなかった相手と対峙することは、おそらく、救われた命を自分自身で捨てに行くようなものだ。戦って敗れて終わるなら、恩返しどころか、恩を仇で返すようなものだと思われてしまうかもしれない。
それでも、自分が正しいと思ったことをする為に、救ってもらった命を使いたいと思った。
「そうだね。奏姉さんは反対すると思う」
穏やかに天音が返す。清春たちを戦いから遠ざけようとし、最期まで身を呈して守り続けた姉は、清春と天音が天叢雲へ入ることなど望まないだろう。天音は申し訳ないと思いながら、さらに付け加える。
「継父さんと母さんも良い顔はしないだろうね」
「今度お墓に謝っておかないとな」
冗談っぽく返して笑う清春の顔は泣き出しそうにも見えた。天音も何かが込み上げてくるように胸が苦しくなるが、作り笑いを浮かべたまま、何も言わない。双子は家族に守られながら、安全な場所にいながら、身近な誰かが傷付くのを放っておくことはできない性格に育っていた。自分たちのことしか考えていなかったのだと今は己を責めてはいるが、優しさに優しさを教えてもらい、それをさらに他の誰かへ与えられるような人間になっていた。本当の痛みを知ることで、その範囲が今少し広がった。
心全体を向けて話を聞いていた真光は、2人の気持ちを推し量りながらもその半分演技のようなやり取りに合わせ、いつもの無邪気な笑みを浮かべ、努めて明るい口調で告げる。
「俺も助けられた時に庵に話を聞いて、ここに住み始めて間もない頃から天叢雲に入るって決めてたんだ。後1年でその資格が得られるって時に仲間が2人も増えるとはな! 嬉しい限りだ」
おどけたように言う姿に2人も真光の気遣いを察し、さらに笑みを浮かべ返した。半分は意図的に作られたもので、半分は感謝からくる心からの笑みだった。
それを分かって、満足したようにもう一度真光も笑う。
「それにしても、お前らすげぇお人好しだよな。辛い思いしてんのに、本当にお前らに責任があるわけじゃねぇのに......。俺にはそんなに綺麗な理由ばっかり並べらんねぇ。客観的に見たらお前ら被害者の立場なんだって自覚あるか? 家族を殺されて、住んでる村を滅茶苦茶にされて、相手が憎くないのか?」
歯に物着せぬ真っ直ぐな表現を敢えて行い、また努めて明るく訊ねてくる真光に、2人は同時に答えようとし、一瞬躊躇い、お互いに譲り合う。発言しようとする瞬間が被ることはこの双子にはよくあることだった。埒の明かない状況になる前に、清春が先に話し出す。
「憎くないことはない......けど、何もないのに復讐なんて行おうとする者はまずいないから、相手のことを知らずにそれを一方的に悪だと決めつけて責めたくはない。理不尽に命を奪われた継父さん、母さん、姉さん、村のみんなの仇だし、許せそうにはないけど......。
でも、俺たちだってこの先誰かを傷付けて憎まれてしまうかもしれないし、こんなことは思いたくないけど、自分が闇雲の人たちと同じような復讐したいっていう感情を持たないとも限らない。
闇雲の人たちに復讐を決意するような辛い思いをさせた環境が変わらないと、いつ誰が同じようになるか分からない。
そう思うと、全部は責められないんだ」
「私も。憎くないわけじゃないけど、彼らのそうする理由を無視して責めたくはないかな......。
すべてを理解できるわけじゃない。大切な人たちの命を奪った人の気持ちなんて理解したくない。でも、知りたい。それで復讐を認められるわけでもないけど、話を聞く限り闇雲の人たちだけが一方的に悪いんじゃない。恨まれて当然のようなことを平気でしている人がいるなら、その人たちの感覚こそ分からない。彼らの選んだ方法は認められなくても、選んだ背景には目を向けるべきだと思う。復讐したいと思ってしまうほど傷を負っている人たちの心を推し量って向き合う努力はしたい」
2人とも少しだけ無理をして、それでも本心からくる言葉を紡いだ。
大切なものを奪われ、辛く悲しい思いに支配された。それでも相手を憎み切ることはできず、心の中には誰かと分け合うことのできない苦しさも、行き場のない感情もある。それは簡単に消えるものではないが、間違った表し方をすると心にその感情を芽生えさせた相手と同じになってしまうことは清春も天音も心得ていた。冷静な判断と後悔のない行動をする為、どのような時でも私情に捉われず客観的な視点を持ち続け、平等で清らかな心で誰もと接するべきであると学び、そうしたいと願っていた。しかし、それが簡単ではないことも知っていた。
葛藤しながら言葉を紡いだ2人はそれぞれ自分の言葉に心許なさを感じていたが、自分自身を納得させるためでもある清春と天音の回答を2人らしいと思いながら、真光はまた小さく笑った。
「根っからの善人なんだな。別に奴らを悪者にしろって言ってるんじゃない。
でも、お前らには非は一切ないだろ。憎む時は憎んで、怒る時は怒って、恨む時は恨んでいいと思う。感情を押し殺してばっかりだったら、お前らが壊れちまうよ。
自分がこう在りたいって気持ちも大事なんだろうけど、それだけじゃなくて、辛いとか悲しいとか、負の感情も大切にしろよ」
真光は言い終えると、この言葉、言ってやりたい奴がもう1人いるんだけどな、と心の中で呟き、真光に感情を大切にしろと言ったのに本人はできているように見えない、人の感情に敏感で自分の感情に鈍感な人間のことを思い浮かべる。両親亡き後もそんな人間が近くにいてくれたから、真光は自分を保ってくることができた。
「俺は、両親を殺した奴が今でも憎い。天叢雲に入ったら復讐してやりたいと思ってる」
「「え」」
同じ色の瞳を丸くして同時に声を上げた2人を交互に見て、それぞれに向け、真光はいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「でも、その方法は間違えない。5年前間違えそうになった時、庵が止めてくれたから大丈夫だ。
あいつのことは憎くて仕方ないけど、同じ目にあわせてやろうとはもう思わない。
俺の復讐は、復讐なんか意味がないんだって思い知らせて、復讐したいって気持ちをへし折ってやることだ」
真光は胸を張って、復讐の連鎖を止めるという復讐を宣言する。こじつけた言い方かもしれないが、素直な気持ちを大切にしながら目的を違わぬように伝えるにはちょうど良い表現だと、真光自身は思っていた。
彼の憎しみは消えることはない。相手の姿が脳裏をよぎる度、両親を返せと叫びたくなる。暴れ出しそうな想いに苛まれることもある。だが、彼らはもう戻らない。相手を傷付けたところで、自分も憎む相手と同じになってしまうだけだ。
相手と向き合い、復讐は誰の為にもならないのだと教えてやる。復讐の巻き添えになった両親の為にも。
この考えに至るまでには様々な葛藤があったが、自分なりの復讐を決めた今の真光にはもう迷いはなかった。
「お前も充分お人好しじゃないか」
そう口にする清春の表情は春の陽射しに溶けゆくような柔らかいものだった。
温かいものが胸に宿り、3人は笑い合う。命を賭けることになる決断をし、それを語り合った後にしてはあまりにも穏やかな優しい空気がその場を包み込んでいた。
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見たもの 聞いたもの 信じてきたもの
失ったもの 得られたもの
大切だったもの 大切だということに気付けなかったもの
立ち止まり 迷い 選んで 歩んできた道
その中で 交わり 変わり 離れ 残されたもの
過去に背負ったすべては 今へと繋がり
今から続く 未来を紡ぐ
永久に続くものなど存在しないと知っているから
尊いと感じる刹那を在りのままに大切に
過去に選んできた道程が
この先選ぶ道程が
己の信念に違わぬものであるように
淡い祈りを秘めながら