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結刃流花譚  作者: もりみつ
第1章 残り香の調べ
8/20

残り香の調べ ~ 花の浮橋 ~

読んでくださり、ありがとうございます。

支え合う、痛みと優しさを描けていればと思います。





 まるで春の雪解けのように


 まるで夏の木漏れ日のように


 まるで秋の実りのように


 まるで冬の星空のように




 心を潤し ひとときの安寧をもたらすような邂逅が

 

 決して生き易くなどない現実を


少しだけ 優しく見せてしまうから

 




 

 ****************

 

 

 

 庵の言葉を噛み締めているうちに、また景色を白い靄が覆い、見つめる先の庵の輪郭は曖昧になり、やがて何も見えなくなっていた。白しかない景色の中で過ぎる長いのか短いのか分からない時間の後、ゆっくりと靄が消えていく。はっきりと周りが見えるようになった時には、庵の部屋へと移動していた。部屋には清春、天音、樹、庵、真光、そして杏が揃っている。

 東側の障子戸は開いたままにされており、陽光が真っ直ぐに射し込んでいる。そのおかげで畳がほんのり温かい。雨はもう止んでいた。

 普段は庵の部屋の中には彼が貼り直した傘が店先の展示か祭りの装飾かのように色とりどり綺麗に並んでいるが、今は傘はすべて部屋の前の廊下に一列に並べられていた。6畳の部屋は、それでも5人が座るには少々狭いが、清春たちはお互いに少しずつ遠慮しながら円を描くように向き合い、杏は変化することのできる中で最も小さな1尺ほどの姿で、時々その間を跳ねるように行き来していた。本来の杏の大きさは4尺7寸ほどと聞いているが、小さな姿でいる方が気に入っているようで、1尺から1尺5寸程度の姿で過ごしていることがほとんどらしかった。


 医者が来るまでの時間、庵は淡々とした口調で簡単にではあっても彼なりの丁寧さをもって、天叢雲について説明してくれた。真光は庵に助けられた5年前に同じ話を聞かされ概ねのことは頭に入っていたが、自ら望み最後まで清春たちと一緒になって真剣に聞いていた。

 

 姉、父、継父の所属していた組織、そして今目の前にいる庵が所属している組織、天叢雲――――――。

 その在り方は、清春、天音、樹の認識とは少し異なるものであった。


 見廻りを行い秩序を保つために動く自衛組織、というのは表向きの顔であり、とある集団から壮和の村と町を守ることを本来の目的とし結成されたのが天叢雲だった。

 天叢雲の始まりは300数年前、永陽暦(えいようれき)1560年頃。現在も特別に人数が多いわけでも有名になっているわけでもないが、当時は今よりもずっと密やかな10名程度の組織だった。信頼のおける身近な者に声をかけ、その組織を立ち上げたのは現在隊長を務める者の祖父だった。

 天叢雲が専門的に対応している集団は闇雲(やみぐもり)と呼ばれている。現在の規模は不明。拠点もそれがあるのかどうかさえも不明であり、見た目もその本質も一般の妖や人と変わらないが、所属する者は身体のどこかに雲の様な刻印を持つ。その刻印は闇雲(やみぐもり)を抜けようとしたり裏切ろうとしたりすると持ち主を飲み込んでしまう。組織への忠誠の証明のようなものであり、一度加入した者を組織へ縛り付けるための呪いでもある。

 闇雲(やみぐもり)を統べる者はこの地に伝説として伝わる大蛇、八岐大蛇と契約を交わした人間だと隊員たちは聞かされている。その者は幼い頃から虐待や差別を受け続けて生きてきた。深く傷付き、その経験から世の中を憎んでいる。

今も昔も変わらず、理不尽な世の中で立場の弱い者はそれに対抗する手段も与えられず、耐え難い苦しみや悔しさを抱え続けている場合が多い。誰がそんなことを決めるのか、平等に与えられた命は平等に生きることを許されていない。その重みにも価値にも差がついているわけがないのにも関わらず、軽視されてしまう存在がいる。傷付きながら、絶望の中で生きていくことを強いられている者は少なくない。

 しかし、幸か不幸か、闇雲(やみぐもり)の創始者である彼は八岐大蛇と出会い契約を交わすことでその術を手に入れ、自分を蔑み痛めつけてきた者たちへの、不条理な世の中への復讐を誓った。静かに、人知れず、反撃の狼煙が上がった。

根深い怨恨を膨らませながら彼はやがて仲間を探し始める。その考えに共感した者が集まり、互いの恨みを晴らすために協力し合い、利用し合うようになったものが闇雲(やみぐもり)という集団である。現在各地で広まっている政治を変えるための運動とはまた別に、復讐を繰り返すことで自分たちの尊厳を主張し地位を獲得し、理不尽な世の中を変えようとしている。

 闇雲(やみぐもり)の上層部には八重の徒花と呼ばれる8名の戦闘能力に秀でた者が存在し、現時点でその半数は顔が割れている。一昨日清春たちの居場所を奪ったのも、5年前、真光の両親を手に掛けたのも八重の徒花の1人だった。この数年は大きな出来事が起こった際には必ず彼らが現場に出てきている。直接対峙した者はほとんどが重傷を負い、最悪の場合は命を落としている。

 天叢雲は闇雲(やみぐもり)を、少なくとも表面上は、敵とは認識していない。彼らをそのような立場に追いやった原因の一部は彼らの力ではどうすることもできないところにある。善も悪もない。ただ、復讐に執着してしまった彼らから周辺の村と町を守り、彼らの罪も自分たちの罪も同様に認めながら、憎しみの連鎖を止め再び共存できる道を探している。進んで戦う機会を作ることはなく、戦闘となった時にも極力相手を傷付けることは望まない。だが、その権利を持つ相手だからといって自由な復讐を許し新たな被害者を生むわけにはいかない。正当防衛としての戦闘は行うこととなる。その中で殺生を避けられない場合もある。また、相手の行動を待ってばかりはいられないため、未然に被害を防ぐための調査は常に行い続けている。正当防衛や調査のためであっても、行動を起こせばその結果、新たな憎しみや復讐の芽を生んでしまうこともある。

 何が正しいのか、何が間違っているのか、試行錯誤を繰り返しながら任務に当たっている。

 深いしがらみを解くことは容易ではなく、闇雲(やみぐもり)の復讐はもう単純な話し合いで止められるものではない。また、ただ力尽くで止めればいいというものでもない。相手も心を持ち、それ故に傷付いてきた者であること、相手にも尊厳があることを忘れず、真摯に向き合わなければならない。そうでなければ彼らを傷付け簡単には変えることのできない深い感情を抱かせた者たちと何も変わらない。

表向きの治安維持組織は、正義の味方、というわけではない。絶対的な正義など有り得ないのだと悟りながら、複雑で曖昧な立場で彼らは動いてきた。

 また、彼らの動きは協力を得る必要のある場合を除き外部の者に話すことを許されない。元隊員や家族であっても同様である。思想の異なる者がそれを知ることで、どのような事態が引き起こされるか想像がつかないためだ。物理的に救うだけでは終わらない、世の中の在り方や己自身との戦いでもある。下手をすると闇雲(やみぐもり)の構成員を増やすことにもなりかねない。傷付き、心の拠り所を求め、復讐に走ってしまいそうな危うさを秘めた者はおそらく大勢存在するだろう。現在は誰もが慎重になっており、堂々とした活動ができていない。それは天叢雲の在り方が誰もに認めてもらえる自信がないためとも言える。いつだって不安定なままの、脆い組織だ。

感情の読み取れない庵の言葉からでも、その重さが響いてきた。

 庵の説明を聞くことで、姉の仕事の話が平和な差し障りのない話ばかりであったことにも納得がいった。それは姉の優しさのみからのことではなく、規律を守ってのことだったのだ。しかしそれでもその大半は、やはり兄妹を巻き込みたくないという思いからの配慮だったのだろう。そしてきっと、姉は少なからず、その仕事に誇りを持っていた。

 以前天音に心配された件もあったためか姉は任務に向かう際に危険のある素振りは一切見せず、話すのは保護した迷子の兄妹が双子で清春と天音によく似ていたとか、落し物を届けた家の庭に季節外れの紫陽花が咲いていたとか、通りすがりの甘味処のお団子が美味しそうだったとか、見廻り中の素朴な出来事だけで、死と隣り合わせで戦う場面があるということは知らなかった。そんなことを感じさせないように、いつも凛として笑っていた。

溌剌としており優しさも持ち合わせていた姉、かつて姉と同じ組織に所属していた父と継父、彼らの戦っていた場所について本当のことを今までよりも少しだけ知ることで、道場でしか知らなかったその強さに納得し、自分たちとの違いを思い知らされる。守るべきものがあった彼らに追いつくなど、これまでの自分たちのままではできるはずもなかった。組織のことも、世の中のことも、何も知らなかったとは思いたくないが、多くのことを知らずに生きてきた。故に、考えの及ばないところが多くあった。

 清春は膝の上で拳を握り締め、継父と姉の残像を、父の残した言葉を思い浮かべていた。本当の痛みを知らなかった者の上辺だけの正義感に駆られた綺麗事に聞こえるかもしれないと思いながらも、清春と天音は自分の無力さを恨み、憧れる彼らの信じてきたものを深く知りたい、そして彼らの守ろうとしてきたもの、自分の守りたいものを守るための強さがほしい、と願っていた。




****************


 


 太陽が高く登り、穏やかな温かさを乗せた風が庭の草花を靡かせている朝四つ頃、2名と1匹の来訪者があった。農家風の造りをしている庵の家は時影山(ときかげやま)の麓にある。時影山のある時野村(じのむら)は、この周辺では比較的住民の多い穏やかな村で、壮和の中央に位置し、そのほとんどの村や町と隣接している。庵の依頼していた医師は、そのうちの2つの東の端、丁度千桜町(せんおうちょう)依斗村(よりとむら)の境目のところに存在する天叢雲の本拠地から来訪すると事前に聞かされていた。

 庵に続き、清春、天音、樹も一緒になって出迎える。玄関先に並ぶ2名のうち1名は天叢雲専属の医師であり、もう1名は裏方の仕事を行っている者であると紹介された。その後ろに、医師の腰ほどの大きさの9本の尾を持つ狐が佇んでいた。手入れの行き届いた艶やかな毛並みは承和色(そがいろ)をしており、深い緋色の瞳は鮮烈なその色とは逆に穏やかな印象を与える。


「初めまして。君が清鷹さんと誉さんの息子、奏さんの弟の清春くんか。私は天叢雲に所属する医師の御堂影千代という」


 父たちから聞いたのか姉から聞いたのか庵から聞いたのかは不明だが、影千代は既に清春の名を知っていた。落ち着いた声で名乗ると続けて隣りの女性と後ろの狐の紹介をする。


「こちらは同じく天叢雲で雑務全般を行ってくれている月見里(やまなし)弥生さんだ。我々は君たちと同じ特殊な力は持たない人間だ。それから......九尾の狐を見るのは初めてかな。妖の中でも希少な種族だが、存在は知っているだろう。彼女は灯音(あかね)という。主は別の隊員だが、頭が良く任務に同行しない時には私の助手をしてくれている」


「よろしくお願いします」


 紹介された弥生が一言添え、言葉に続いて頭を下げる。絹糸のような薄い白茶色の長髪を後ろで1つに束ねた知的な雰囲気を放つ影千代と、ふんわりとした深い茶色の髪を両耳の下で緩く束ね、眼鏡の奥の色素の薄い瞳が柔らかい雰囲気の弥生。立ち姿から礼のひとつに至るまで、ひとつひとつの動きが丁寧な彼らの所作からは品の良さが伝わってくる。だが、近寄り難さを感じさせることはなく、柔かな羽衣で周りを包み込むかのような雰囲気を纏っていた。


「時枝、清春です。よろしくお願いします」


 清春も頭を下げ、後ろに立っていた天音とその天音に隠れるようにして顔だけを見せていた樹も軽く会釈した。


「そちらは天音さんと樹くんだね。

 樹くんは片翼なのか。色の瞳は誉さんと、髪の質と高い鼻は小都子さんとそっくりだ」


 優しく微笑まれ、緊張していた樹は紅くなった顔も天音の背中に隠してしまう。制御しきれず現れてしまっていた右肩の翼だけが、天音の羽織りの後ろからのぞいたままになっている。


「すみません、人見知りが激しくて」


 天音は初対面の相手に対する普段と変わらない反応を示す樹の代わりにいつもの台詞で謝る。


「兄がお世話になります。よろしくお願いします」


「天音さんは灯音と名前の響きだけでなく、なんとなくだが雰囲気も似ているようだ。彼女が人間だったら君にとっては歳の近い姉くらいの年齢だろう。今後も関わることがあれば仲良くしてやってほしい。

彼女は我々の言葉をよく理解している。同じ言葉で話せなくとも、意思の疎通はとてもやりやすい」


 挨拶が落ち着くと、庵は2人へ中へ上がるように促した。2人は履物を揃え順番に式台へと上がる。灯音もそれに従うように続く。


「ご足労いただきありがとうございます。奥の部屋へ案内します」


 庵に続き、一同は座敷と真光の部屋を越えたところにある清春の借りている部屋へと移動する。

 清春を座らせると、影千代と弥生は荷物を下ろし治療の準備を始めた。灯音は優雅な動作で部屋の隅に腰を下ろし、準備の様子を眺めている。そこに居るだけで質素な部屋が神聖な場所に変わるような、絵になる美しい姿だった。


「樹は真光のところに行っておけ。天音、桶にぬるま湯を用意してもらえるか?」


 庵が樹と天音に指示を出すと、2人はすぐに短く返事を返し、それぞれ部屋を後にした。

 


 

 

 

「辛い思いをしたな。ご両親とお姉さんの件、お悔やみを申し上げる」


 準備を整えた影千代が清春の傍に来てそう告げる。初対面の相手だが、その声色から心から言ってくれていることが伝わってきた。


「月見里さん、薬を」


 はい、と答えると同時に、弥生は手にしていた麻酔薬を渡す。


「少々痛むだろうが我慢してほしい」


 そう言って影千代は清春の耳に注射器を近付けた。ここでまた視界に靄がかかり始める。針の刺された小さな痛みを微かに感じながら、清春はそれに合わせるように目を閉じそっと深く呼吸をする。ゆっくり目を開けると視界がまた晴れ始め、その先に影千代と弥生が片付けを始めている姿があった。この時の治療は四半刻にも満たなかったと記憶している。


「もう終わったんですか? 」


 わざわざ医者を呼び麻酔を撃って行う程の治療だ。もっと大掛かりなものだと思っていた清春は呆気なく終わった治療に少々呆然としていた。痛みもほとんど感じなかった。治療の途中で戻ってきていた天音も意外そうな顔をしている。


「今できることは行った。傷は直に塞がるだろうが、跡が残るかもしれない。また、聴力は完全には失われてはいないが、ほとんどの音を拾うことができない状態のまま、回復の見込みは薄いだろう」


 影千代は清春の気持ちを慮りながらも、事実はそのままを告げる。不必要に優しい嘘を吐こうとしない影千代の対応に、清春はその事実をすんなりと受け止めることができた。

 

「あと、これは杞憂に終わるかもしれないから、たいして気にしなくてもいいんだが......。近々、左耳に変化があるかもしれない。異常があったら教えてもらいたい」


 そう聞かされたが、清春は影千代の言い回しより注意深く気にする必要はなさそうだと判断し、変化とは何か、異常とは何か多少は引っ掛かるものの、心の片隅に留めておくだけにした。自分の怪我のことなど些細なことで、他に心を占める考え事は山積みである。周りの者はもっとずっと傷付いたのだと考え、聴力のことでさえも、これだけで済んだことが申し訳なく思えてしまったくらいだった。

清春は影千代に向かって姿勢を正し、深々と頭を下げる。

 

「......分かりました。態々来ていただき、本当にお世話になりました。ありがとうございました」


「樹くんを守ろうとして負った傷だそうだな。名誉の負傷だ。誇るといい」


 そう告げて影千代は淡く微笑んだ。




****************




「また何かあったら頼ってね」


 帰り際、そう告げると弥生は先ほどの塗り薬を清春へ渡し、使用頻度と量について説明する。清春は礼を言って受け取り、それを一瞥するとまたすぐに顔を上げる。

 到着から半刻も経たないうちに一仕事を終えると、正に今吹いている春風のように穏やかな空気を残し、2人と1匹は庵の家を後にした。帰る前、庵と影千代は何か小声で話していた様子だったが、他者に聞かれては困る仕事の話か何かだろうと思い、気には留めないようにした。


「影千代先生の腕は確かだ。耳の聞こえについては、生活に支障がある面では補助する。闇雲(やみぐもり)は村の一部を殲滅するつもりだったようだ。俺にかけられる言葉ではないのかもしれんが、命があったことだけでもありがたく思った方がいい」


 酷な言葉かもしれないと思いながらも庵は告げる。だが、奏が命懸けで生かした命を、姉を見捨てた自分を信じてくれた清春とその兄妹を、見守り続けると決めた。生き残ったことを後悔させるわけにはいかない。まだ話すことのできていない過去もあり、それを知ると自分の元を離れていってしまうかもしれないが、その時が来るならそれでいい。今は彼女に託された思いを優先する。

 その庵の思いをすべては知らない清春は、姉を犠牲に生き残ってしまった後ろめたさ、生き残ることのできた運の良さ、手を差し伸べてくれる者のいるありがたさを今一度深く感じながら、遠ざかる2人と1匹の背中へともう一度頭を下げた。


 見送りが終わると、近くの部屋から真光と樹が顔を出す。


「お兄ちゃん、耳、聞こえないの......? 」


 一部を聞いていたのだろう、樹が心配そうに声をかける。継父と同じ色を宿した瞳で母とそっくりな表情を浮かべまた泣き出しそうになっている弟は、本当に優しい心の持ち主だ。


「大丈夫だ。左耳がちょっと聞こえ難くなったようだけど、右耳はこれまで通り聞こえるから、樹の声はちゃんと聞こえてる。まったく問題ないよ」


 樹が責任を感じて自分を責めないよう、清春はできる限りの穏やかな笑顔を向けて答える。


「ごめんなさ......ううん、助けてくれてありがとう」


 樹は謝りかけ、兄はそれを望んでいないだろうと思い、お礼の言葉に変える。樹が気持ちを汲んでくれたことに清春は樹の成長を感じながら少し救われたような気分になり、更に目を細め、樹の頭を優しく撫でた。


「少し外の空気でも吸いに行くか」

 

 庵に提案されるまま外に出ると、ゆったりと吹き続ける穏やかな風が5人と1羽を包む。時間の流れが少し緩やかになったように感じる。

 庭を出ると、家の近くには小さな川が流れていた。一見その川に沿っているようで無造作に、その周辺には桜の木が並んでいる。

 川は散り行く花びらで覆い尽くされ、その合間から覗く水面は春の日の太陽の光を反射し程よく煌めいていた。

 桜の花が刹那の命を全うし散りゆくように、小川の水が絶えず流れゆくように、富も栄誉もいつまでも続くものではない。美しいものもいつかはその輝きを失う。時代と共に、正しささえも変わりゆく。

 人も妖も、限られた命を、迷い、間違い、時にはぶつかり合いながら、悲しみも憎しみも、すべて抱えて生きてゆく。

 美しい景色に心を奪われていると、昔義父、母、姉、天音、樹の家族全員で花見に行った時のことを思い出した。ここ数年、花見の時期には門下生たちも一緒に近くの山へ出かけていたため、家族だけでの花見はもう何年かしていない。その時に教えてもらった、言葉をまだ理解していない自分たちに向けて父が話していたという言葉がどこからともなく聞こえた気がした。


『生きとし生けるもの、その見た目も生い立ちも性格も、考え方も様々だ。違って当然、分からなくて当然だ。だが、己の決める道を生きるもの同士、認め合う努力、理解する努力を止めてはいけない。

 己の意志を持ちながら、他者の心に耳を傾けられる者でありなさい。

 だが、己の信念を曲げてまで相手に合わせる必要もない。迷いが生じた時は、思いやりと慈しみの心を持って判断し、己が正しいと信じたことに誠実でありなさい。

 見えないものにも目を向け、本当に大切なものに気付けるような者でありなさい』


 顔も覚えていない父の言葉が、その重みを増して響く。悲しみも虚無感もすぐに消し去れるものではないが、すべてを失ったわけではない。清春と天音の中に生きる父の信念は彼らの心の拠り所となり、彼らそれぞれの信念を支えながら道を示してくれているかのようだった。



 


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