甘露の雨は降らずとも
閑話です。
行ったことはない場所ですが、実際にあるお寺をイメージして書かせていただいています。
少しでも穏やかに読めるものとなっていると嬉しいです。
橙の空が群青に移り変わり始め、周りのすべての輪郭が朧気になってくる頃合い。一礼をして山門をくぐり、広い水田に沿って歩いて行くと、どこからともなく風流な太鼓、笛、琴の音が流れてくる。雅やかに飾り付けられている境内は多すぎない程度の人や妖で控えめに賑わっている。頭上には儚すぎず主張しすぎない色とりどりの提灯の灯りが浮かび、地面にも行燈の灯りが広がり、そこには少し夢心地にもなれる光景が広がっていた。その奥には存在感のある大きな銀杏の木が灯りに照らされながら聳え立っている。
清春、天音、真光、宝良、あやめ、更紗の6名は、清乃と弥生の案内のもと、天叢雲本部より戌亥の方角に少し歩いたところにある慶詠寺に来ていた。
4月8日。清春と天音の生まれた日。地方によって違いはあるようだが、今日は各地の一部の仏寺で灌仏会が開かれている。
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「今日の夜、お時間はありますか?」
朝の鍛錬が終わり、すぐに次の仕事へと向かった菊之介を見送った後、清春、真光、宝良は清乃に声をかけられた。
「皆さんと天音さん、そしてあやめさんと更紗さんにも声をかけてみようと思うのですが、もしよければ少し近くのお寺に行きませんか?」
「俺たちは大丈夫です。天音も多分。残りの2人は……天音に訊いてみます」
「ありがとうございます。自分で声をかけようと思っていましたが、私もこの後すぐに動かなくてはいけないので、お願いしてもいいですか? お手数おかけしてごめんなさい。
今日、近くの慶詠寺で灌仏会という行事が行われます。ご存知ですか? お釈迦様のお誕生日を祝う行事なのですが……」
「はい、あまり詳しくはないのですが、継父に連れて行ってもらったことがあります。幼い頃に1度だけ」
「毎年ではありませんが何度か行っています」
「名前は聞いたことあるけど……ってか、清春お前お釈迦様と誕生日一緒なのか! すげぇな!! だからそんなに心が広いのか!」
朝起きるなり、おめでとう、と言って部屋に飛び込んできた真光が、目を輝かせながらさらにもう一度生まれた日を寿ぐ言葉を伝えてくれる。それからも「おめでとう」と「すげぇ」を自分のことのように嬉しそうな表情で繰り返している真光を見ていると、心の中に陽だまりができたような気持ちになった。
昨年の誕生日に大切なものを失い、この日を心から喜べる日はもう来ないのではないかと思っていたが、真光の大袈裟なようでまったく飾っていない素直な言葉と気持ちが少し恥ずかしく、くすぐったく、嬉しかった。
「清春くんのお誕生日も今日なのですね。おめでとうございます」
「知らなかった。俺からも、おめでとう」
知った傍から、自然な流れで清乃と宝良も一緒に祝ってくれた。心の中の温かさがじんわりと増していく。両親と姉の命日に自分が祝われることは罪のように感じ、今年からはそれを避けて過ごそうとしていた。しかし、そこまでする必要はないのかもしれないと思えた。
「ありがとう、ございます」
「天音さんにも後でお祝いを伝えなくてはいけませんね」
「喜ぶと思います」
どんなに優しい言葉をかけてもらっても、後ろめたさが完全に消えるわけではない。しかし、祝われてはいけないなんてことはない。まったく同じではなくとも自分と似た気持ちで今日を迎えたであろう天音が、自分と同じように少しでも救われたら良いという願いを込め、清春はそう返した。
「私にこの行事を教えてくださったのは清鷹さんと誉さんでした。入隊して最初の年には誉さんと幸志郎隊長が連れて行ってくれました。ここ数年は弥生と行っています。
詳しくなくても、綺麗な装飾が施されている中で美味しいお茶とお料理が振る舞われるので、いい息抜きになることと思います。弥生と一緒に段取りをしておきますので、もし気が向けば、ぜひ。私たちが行きたいついでになので、無理にではないですよ」
決して押し付けない、清乃らしい気遣いが込められた息抜きの提案を断る理由もなく、3人は揃ってその場で行くことを決めていた。
「清春くんは昨日の話の続きも気にかかっていることと思いますが、今日は少しでも気持ちを楽に、楽しんでいただけると嬉しいです」
清春は清乃の言葉に笑顔で頷き返し、そのまま天音にも声をかけに向かった。
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午後の見廻りが終わったのは昼7つを少し過ぎた頃だった。
約束の暮れ6つまでには少しゆとりがある。清春は一旦1人で天叢雲の本部を後にし、とある小さな寺へと向かった。一礼を忘れず山門をくぐり境内に入ると、目的の場所に向かう前に、顔馴染みの住職に挨拶をする。物腰柔らかい高齢の住職はいつもの穏やかな笑顔で返してくれる。
清春1人でここに来るのは初めてだった。昨年までは家族みんなで、この1年の間には、丁度1年前とお盆、そして年明けに天音と樹と3人で来ていた。
「父さん、継父さん、母さん、姉さん……、それから、じいちゃん、ばあちゃん始めご先祖さまたち、姉さんのお母さん」
並ぶ石に向かい呟いて両手を合わせる。謝って、お礼を伝えた。それ以外は明確な言葉にならなかった。目を閉じている清春の瞼の裏に穏やかだった日々の想い出が浮かび上がり、頭の奥でもらった言葉たちがこだまする。この1年の間にも、何度も思い出され、支えとなってくれてきた。残されたものは痛みだけではないことは分かりきっていた。それらを守るため、無駄にしないため、強く優しく気丈でなければならないと思っていた。悲しみも寂しさも手放せないまま、振る舞いだけは前向きであろうとしていた。
どのくらい手を合わせ続けていただろうか。閉じたままの目から、温かい雫が頬を伝い、地面へと滴り落ちた。その感覚に自分でも戸惑い、目を開けると、これまで押し止めていたものが消えてなくなったかのようにそれは次から次へと溢れ出してきた。不揃いな形の墓石も、その周りに咲く草花も、青と薄橙と雲の白が混ざった空も、すべてが滲んでいく。
あの日は生き延びることに必死で、残された天音と樹を守り抜くことに必死で、泣くことさえも忘れていた。そのまま、1人の時でさえも泣けないまま時間が過ぎていた。
1年越しの涙は止めどなく流れ続け、清春にとってかけがえのない家族の眠る地は静かにそれを受け止め続けていた。
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1人の墓参りの後、入相の空の下、清春は少し早足で本部まで戻り、真光たちと合流した。そこへ清乃と弥生が天音たちを連れて合流し、ゆったりと寺まで歩き、今に至る。天音に声をかけてもらった2名の他、樹も連れて来られていたことには驚いたが、庵の家の近くの見廻りの担当だった天音はそのついでに樹を誘い、清春より少し早くに清春と同じように墓参りに向かい、そのまま見廻りを続けながら本部へと戻り、その流れで一緒に行くこととなったらしかった。樹の同行は天音が頼むと快く歓迎してくれたとのことであった。樹は相変わらず人見知りを発揮してはいるが、会ったばかりの人に見せるいつもの姿よりはまだ表情が柔らかく、その場の全員に心を許しているようにも見える。
本堂に入ると中央にはその場に似合う主張しすぎない華やかさの花御堂が置かれ、花とお香のかおりが漂っていた。牡丹、芍薬、杜若――――――。上品に咲き誇る花々が幼い頃の記憶を呼び起こす。清春と天音が幼い頃に灌仏会に行ったのは道場の近くの祥景寺という寺だった。時刻は昼下がりであり、花御堂は本堂の外に用意され、稚児行列が行われていた。当時はその意味をすべては理解できないまま、誉に教えてもらいながら飾られた花々の中に立つ小さな仏像に不思議なお茶をかけた、という記憶が薄らとある程度だが、昼と夜の違いからか、今まで灌仏会に対して持っていたものと印象が大きく異なる。そのどちらもがそれぞれ風情のある光景だと感じた。仄温かい記憶が薄れゆきながらも残っているように、今日の記憶も遠い日に思い出し懐かしむことのできる想い出として残っていくといいと思えた。
手のひらに乗せてしまえる程の大きさのお釈迦様の像にかける甘茶は随分と甘く驚いた記憶があるが、今日はそれが紫陽花の一種から作られていること、お釈迦様の誕生に関する言い伝えに出てくる甘露の雨を表しているということ、この地方ではお釈迦様を祝い健康を祈るための特別なお茶とされていることなどを教えてもらいながら流れに従い動くことで、その趣を一層楽しむことができていた。
説明する清乃と弥生の他は更紗を除きその場の誰も花に詳しくはなかったが、教えれもらえる話はどれも興味深いものだった。実際の花のように見えているそれぞれの萼の中心に1つずつ花を咲かせる一般的な紫陽花と異なり、甘茶の原料である山紫陽花は控えめな数で円を象るように並ぶ萼に囲まれた中心に小さく繊細な花が集まって咲くのだと弥生に教えてもらった。見て楽しむことに慣れ、食用としてなど考えたこともなかった紫陽花から飲み物が生まれていると考えるとなんとも不思議だった。
慈雨や恵みの雨とも表す甘露の雨は、お釈迦様の誕生の際に現れた九頭龍がそれを降らせたと伝承されており、それに準えて柄杓で甘茶をかけるという風習が生まれたとのことであった。なんとなく、継父からもその話は聞いたような気もしたが、3歳か4歳だった頃の記憶は定かではない。天音もはっきりとは覚えていないようだった。甘露の雨が地を潤すように、すべての者の傷を癒し心に潤いを与えてくれるような優しい雨が遍く降ったなら、このような状況は終わるのだろうか。そんな平和な争いの終焉を考えてみるが、実際にそのようなことが起こるはずもない。しかし、誰も傷付かない世の中とは程遠くとも、ひとときの安寧を与えてくれる存在が今も傍にいてくれることを思うと、清春は感謝の念を抱かずにはいられない。
再び本堂の外に出ると、夜空の群青はさらに深さを増していた。色彩豊かで柔らかな灯りに包まれながら、思い思いに露店の料理や景色を楽しむ。人も妖も関係なく、そこに居るすべての者に平等に、ゆったりとした時間は流れる。現実を完全に忘れてしまうことは難しくとも、立場も思想も気にする必要のない、何にも縛られずに心のままに過ごすことを許される時間だった。その時だけは同じ空間の誰もが穏やかな気持ちになれていると信じていたかった。露店は十数軒のみで決して規模は大きくはないが、ささやかな時間を満たすには充分な空間だった。
大銀杏に見守られるように開かれるささやかな祭事はやがて静かに幕を下ろす。奏でられていた旋律が次第にゆっくりとなり、最後の音が長く響き、演奏が終わった。露店の店仕舞いの始まった境内には、帰る者たちを見送るように灯りだけが残り、静かな余韻に満ちていた。
「今日は来てくれてありがとう」
良い息抜きの時間をもらったのは自分たちの方だと思っていた清春たちは、清乃に礼を言われて恐縮してしまう。しかし、この数日忙しかったであろう心を少しでも軽くしてほしいと考えていた清乃と弥生は、自分たちにできるせめてもの計らいで楽しんでくれた清春たちの姿を見て安心すると同時に感謝していた。語られない2人の心の詳細を清春たちは知る由もないが、貰ったものへの恩返しのために生きたいと願っている清乃と弥生にとって、些細でも誰かの役に立てたと思えることは心から嬉しいことだった。
「こちらこそありがとうございました」
同じように心からの礼を伝え返す天音に続き、全員が口々に感謝を述べる。その最後には樹もしっかりとした口調でありがとうございました、と伝えぺこりと頭を下げていた。
「すっかり遅くなってしまいましたね。途中まで送ります」
「ありがとうございます。俺は方角が違うので大丈夫です」
丑寅の方角を指しながら言う宝良に、清乃と弥生が頷いて返す。
「分かりました」
「じゃあ門まで一緒に」
「あの、私たちも大丈夫です。清春も真光も樹も一緒なのでそんなにお気遣いなさらないでください」
「私たちもそんなに遠くないので、更紗と2人で帰れます」
「ご心配ありがとうございます。お気持ちだけで嬉しいです」
天音、あやめ、更紗も申し訳なさそうな表情を浮かべ口々に伝える。
「皆さんは帰り道が途中まで同じだから遠慮しないで。清乃も私ももう少し話したいと思ってるから、ご一緒させてくれない?」
微笑む弥生の返す言葉に天音たちは甘えさせてもらうことにしたようだった。清春たちもそれに便乗させてもらうことにする。
まだ少し冷たい夜の風を受けながら、田んぼに沿って歩き出す。来る時に間隔を空けて並べられていた“ 慶詠寺 灌仏会 ”と書かれた幟はすでに片付けられていた。最後尾を歩く清乃が全員に向けて声をかける。
「ここは秋の銀杏と水田の水鏡に映るその姿も美しいので、また一緒に見に来てもらえると嬉しいです」
「秋にも清乃と毎年来るんだけど、本当に綺麗じゃ済まないくらい綺麗だから、ぜひ」
清乃の言葉に続けて弥生も勧めてくれた。今日は作られた灯りに浮かび上がる姿を荘厳で神秘的に感じた大銀杏が秋の訪れとともに黄色く染まり、その下にも逆さの銀杏が限られた時間の美しさを謳歌している景色を想像する。
「はい、ぜひ」
「その時にはよろしくお願いします」
「お兄ちゃんとお姉ちゃんが行くなら僕も……」
「黄葉した銀杏も見たいです。綺麗なんだろうな」
「以前知人からも聞き、俺もここの銀杏は秋に一度見に来たいと思っていました」
「またみんな揃って来れるといいな」
「私もまたご一緒してよろしければ、今日のような日を過ごしたいです」
口々に返す言葉が当たり前のように叶えばいいと願いながら、その願いの心許無さには気付かないふりをして、保証されない明日へと続く夜を歩いて行った。




