残り香の調べ ~ そしてまた春は巡り ~
ご覧くださりありがとうございます。
ここで第1章が終わります。
過去の話ばかりになり退屈かもしれないと思いつつも、第1章の中にはこの小説の大事な部分を詰め込んだつもりでもあります。
言えない痛み 癒えない痛み
自分が自分であることを
証明してくれる傷痕が
外れることなき枷となり
意志を動かす糧となり
いつまでも どこまでも 共に時を刻みゆく
迷い 苦しみ 躊躇い 足掻き
選んだり 選ばせられたりを繰り返し
巡る季節と命を唄う
****************
誓いと呼ぶには心許なく、夢よりもっと切実な、今に繋がる記憶の中で、かつて自分の紡いだ言葉を、一字一句同じように、しかしまるで初めて話すかのように大切に繰り返した晩春の庭でのひとときを終えると、また時間の変化が始まる。今度は景色を隠すような靄は現れず、清春自身の視界が霞み、徐々に渦を巻き始めた。覗き込んだ鏡面が動き出した時の感覚に似ていた。穏やかな風景が見る見る形を崩してゆく。音が次第に遠くなる。目の前の景色が完全に認識できなくなったところで、清春は一度意識を手放した。
****************
目を開けた時には、清春はまた例の鏡の前にいた。実際には身体はずっと鏡の前に座っていたのだが、意識は過去から戻ってきたように感じられ、深い夢から覚めたようでもあった。流れた時間はほんの短いものに過ぎなかったが、清春にとっては実際よりも遥かに長い時間だった。意識がはっきりするに連れ、淡く浮かんでいた勾玉の光がじんわりと消えていく。空気の温度を感じられるようになり、現実の音が戻ってきた。今、鏡が映し出しているのは、清春と近衛の顔と、その間に見える天井のみだった。
顔を上げると、近衛の顔が思っていたよりも近い距離にあった。清春は少し戸惑うが、その目を合わせ、近衛は軽く微笑んだ。裏のない好々爺然としたものに見えたが、どこまでも不思議で掴みどころのないその意図は正確には推測できない。ただ、時々垣間見せる繕われたものには見えない表情に、少なくとも冷酷無情な人物ではないのだろうと思わせられる。
「もう戻って大丈夫じゃ。――――――人柄まで清鷹にそっくりじゃな」
清春にだけ聞こえるように付け加えられた言葉に清春は僅かに肩を震わせたが、何も言うことができず視線を彷徨わせた後、小さく頭を下げて立ち上がり、やや力の抜けたような足どりで真光の隣へと戻る。
自分自身の動揺を隠せないまま、それでも心配そうな面持ちで清春を見ていた真光は、清春が斜め下を見たまま静かに腰を下ろした瞬間目配せをする。その視線にすぐに気付いた清春は軽く笑って応える。互いに言葉は出さないが、清春の笑いかけに揺れていた大きな瞳を瞬かせた真光は薄らと安堵の息を吐いたように見えた。その様子に清春自身も心の中の緊張と動揺が少しだけ和らいだ気がした。不安な気持ちを完全に消すことはできなくとも、身近な誰かも同じ気持ちかもしれない、身近な誰かと分かり合えている、と感じることは心を強く保つための大きな力となる。
清春は1番最後に辿ってきた記憶とその中の真光を思い起こし、もしかすると真光も今し方、過去の真光の姿で同じ時間にいたのかもしれないと考えた。それを確かめることは今はしなかったが、朧げな確信をもってそう考えることで過去にあったひとときの重さと、同じ重みを共有することのできる存在の尊さが波のように心に広がっていくようだった。
清春の後には、前の3人の様子を真剣に窺っていた天音が続く。短くて長い時間の中で起こっていることを正しく把握できた訳ではないが、清春と真光の間に流れる空気から、心の奥に肉薄するような何かがあったのだろうと読み取ることはできていた。
天音は2人が無言でお互いを安心させ合うような姿を微笑ましく感じ、不安も恐れも確かにあったはずだがどこか落ち着いた状態で近衛の前へと向かうことができた。ゆっくりと腰を下ろして鏡を覗き込む。そして天音もまた、自分の記憶の中へと入っていく。
天音が辿った記憶は清春と近いものだった。しかし、視点は天音だけのものである。
清春にその詳らかな感情は分からなかったが、戻ってきた天音の微笑みは穏やかで、その後に続く残り2人の表情からも幾分不安が和らいだような様子が窺えた。
鏡に映される者にとってはとても長く感じられる、実際にはそれより遥かに短い時間を6名分繰り返し、近衛が全員の過去を覗き終えるまで四半刻もかからなかった。
最後の淡く儚い印象の少女が元の位置まで戻ってくると、全員が定位置で居住まいを正す。自然と少しの間が作られ、各々が各々の想いを胸に、今一度自分の過去と現実と向き合っていた。流れる空気は硬すぎず、しかし適度な緊張感が保たれていた。そんな彼らを一瞥しながら近衛はまた静かに笑い、不思議な力を魅せた鏡を丁重にしまい始める。その笑い方はまるで自分の孫に向けるかのような慈愛と温もりを含んだものであり、そこに僅かな哀しみと憂いも混じっているものだったが、向けられた6名がそれに気付くことはなかった。
用意した大男が近付き片膝を折って鏡を受け取ると両手で大事そうに木箱に戻し、静かに蓋を閉じる。そのまま箱をがっしりとした手で落とさないように抱え、近衛の横に並ぶ。
その場のすべての視線が集まると、近衛はゆっくりと立ち上がる。
「今日はひとまず解散とする。
明日、そなたらに今一度時間を与える。その後正式に皆への紹介と詳しい説明を行うゆえ、一旦朝五つ半、大広間へ集まるように」
言い残して近衛が部屋を出ると、年配の男性2人はそれに続く。一連の動作は音も気配もなく行われたように感じた。あれ程存在感があったのにも関わらず、彼らの方を見ている前で行われたのでなければ、いなくなったことにも気付かなかっただろう。
清春たちはその様子に翻弄されていたが、慣れているのか、周りの試験官たちは平然としている。清春は近衛たちの姿の消えた廊下の先を今しばらく見つめ、1度瞬きをして部屋の中へと視線を戻した。
誰も話したり動いたりしない静けさの満ちる時間が束の間流れた。
清春は近衛の言い残した言葉の意味を測りかねており、それを頭の中で反駁してみた。もう一度時間を与えられるということについて、予想がつくようなつかないような、曖昧な感覚のまま少し考えるが、他にも考えることが次々と頭の中を巡り、この言葉はすぐに頭の隅へと追いやられた。
どこからともなく聞こえてきた鶯の鳴き声が静寂を破り、空気が再び動き出す。軽やかな鳴き声に続けて菊之介が口を開く。
「鳥居の前まで送ろう。帰り支度をすると良い」
清春は頷き、たいして持ってきていない持ち物を確認する。勾玉の増えた袂落としの中身と竹刀。すぐに確認を終えた清春同様、他の5名もそれぞれが同じ行動をとり、一瞬で部屋を出る準備を整えていた。
「庵さんはどうされます」
「同行する。鳥居を出た後、家までは帰れるな」
後の言葉は清春、天音、真光の3人に向けて確認するように告げられた。大丈夫だ、と真光が答え、清春と天音も続けて頷く。
「清乃さんと絢悠は......」
「俺たちはこのまま職務に戻る。ここで見送らせてもらおう」
絢悠と呼ばれた背の高い長髪の男性は、部屋の入り口に道を広く開けるように立つ。その向かいに清乃も立ち、6名を見送る体勢を作った。2人の流れるような黒髪が春の風と光を受けて揺蕩う様は美しく幻想的でありそこに温かい温度を感じられるような現実味を帯びてもいた。
「これからよろしくお願いします」
清乃が1人1人に微笑み声をかける。凛としているが決して冷たくない声が、仲間として自分たちを受け入れようとしてくれていることを確かめさせてくれる。
2人に見送られ部屋を後にし、庭をぬけて入る時には随分緊張して潜った鳥居を特別に構えることなく潜り庵たちと別れると、清春たちは各々の帰路についた。
****************
帰り道、清春は今もう一度体験したばかりの過去を丁寧に思い起こす。
あれから1年が経ったのだと思い知らされ、当たり前のように訪れていた春を改めて感じた。
この1年間は短かったようでも長かったようでもある。天音や真光はどのように感じているのだろうか。時は誰もに平等に流れているが、どう捉えていたとしてもそれは正解で、時の感じ方は自分だけのものだ。だがきっと、色々なことがありすぎた1年間は、自分にとってそうであるように、2人にとってもおそらく濃密な時間となっているだろうと思った。
1年前から、今日に向けて、限られてはいるができることはしてきたつもりだ。大きく成長することはできていなくとも、何かが変わっていてほしいと願う。
満開の桜の下、麗らかな春の風に包まれて、3人はそれぞれの想いを胸に、談笑しながら花びらの絨毯の広がる野道を歩く。
三者三様、今を選んだ背景には自分の信念に基づく譲れない想いが確かにある。それぞれ自分が生き続ける理由と目標が必要だった。向き合い、考え、正しいと思う道を選び続けたかった。だが本当は、この穏やかな日常をもうこれ以上奪い合いたくなかっただけかもしれない。
傷はまだ癒えない。それでいい。忘れないように、すべてを抱えて歩いていく。
恨みを晴らすためでも、見栄を張るためでも、誰かの真似事でもない。
己の心のままに、大切なものを守るために、その刃を振るうと決めた―――――――




