鬼ノ岩
これは山口県角島の民話「鬼の岩」を下敷きにしています。
フィクションですので実在の人物・団体・地名等とは関係ありません。
時と所はいつの日か。
空は晴天、海は紺碧、風も優しく凪いでいる。
海沿いに続く道の先、見上げて小さな漁村あり。
後ろにはそびえる高い山。海の向こうには渡り島。
鳥ものどかに一声鳴いて、山あい空の間を飛んでいく。
そこへ一人の男の姿。
背には漆の黒い箱、着物は雅漂う都の一品。
汐の香そよぐ一本道を、その身に受けつつゆっくり進む。
通りかかった緑の山裾には、どこから、誰がどうやって運んだのか、ごろごろと大きな岩ばかりが積み上げられている。
浜辺は白く美しく、漁師たちは忙しく網の手入れに精を出す。
「もし、お尋ねしたい」
男が声をかける。漁師は網の手入れをしていた手を止め、その男を見上げた。
「そこの村には、一晩泊めてくれる宿はあるだろうか?」
そう尋ねる男を不審そうに眺め、顔を見た途端に頬を染める。
旅の者にしては風変わりな出で立ちで、華のように鮮やかな着物に漆塗りの箱を背負っている。顔にはまじないなのか、朱い化粧が施されていた。それでも整った顔だとわかる。
漁師は、ぼうっとしたまま首を振り、呂律のまわらなくなった舌で答えた。
「や、宿なら村長にい、言うてみい?」
「なるほど。村長には是非にもご挨拶せねばならぬところ。では、村長の家を教えていただけるだろうか?」
男は、漁師に聞いた道をたどり、村の一番奥の家へと向かった。
■ ■ ■
とっぷり暮れた村の中。
村の明かりがない中、ひときわ大きな藁ぶき屋根の家だけが煌々と灯を漏らしていた。
「いやはや、家に泊めていただけるだけでなくこのもてなし。有り難い限りです」
男は、豊かに並ぶ海の幸をひとしきりみてから喜びの息をもらす。
「わしらの村は、これだけが自慢ですから。こちらこそ、あなたのような方に会えたこと嬉しく存じますぞ」
村長は言葉とは裏腹に、物珍しいものを見るような目で男を眺めた。
実際、訪ねてきた男が旅をしているときいた時、村長は驚きに目を剥いた。
とても、険しい山間を越えて、海側に孤立した漁村へ来たようには見えないほど、出で立ちが綺麗であったからだ。
「……ところで、どうして舞人殿が旅なぞを?」
「出雲大社の阿国殿ではないですが、舞を広めてみようかと思い立ちまして」
「はて……オクニ、とは?」
村長が笑顔で訊き返す。
「……」
男も笑顔を返す。
お互い笑顔のまま会話が止まり、沈黙が流れる。
「……時を間違えた」
「は?」
「どうか、世迷言だと思って気になさらないでください」
「はあ……」
旅の舞人は、一献勧められ、軽く口をつける。
そして、視線だけを夜の帳へと向けた。
「時に、村長さん。山のふもとに積み上げられた岩、あれは一体なんです?」
舞人は、不自然に転がる岩の光景を思い出しながら尋ねる。
「ああ、あれはですな――」
村長は、数日前の出来事を話しだした。
■ ■ ■
村からさほど歩かないところの長羽山。
そこには、たいそう力持ちな青年が住んでいるという。
身の丈七尺二寸の大男で、髪は伸び放題、着る物もみすぼらしく、村人たちからは『のろまの関介』と呼ばれていた。
この関介が、里に下りてはものを壊したり漁師の邪魔をしたりしているというのだ。
しかし、村人は困りはしても関介を追い払うことはしなかった。
いや、できなかったというべきだろう。
光明山はふもと、安寿寧寺のお夏という娘が、関介の行動に悪意はないと言って村から追い出すことを反対していたからだ。
お夏は、弁財天様の御加護を受けていて、お告げによって何度も村を救ってくれた。
その娘が言うのだから、村人も不満ながら信じるしかなかった。
そして、お夏の言うとおり、関介の行動をよくよくみると、悪意どころか一生懸命なところがみえてくる。
口下手な関介は、おどおどしつつも毎日村へ来て、なかなか慣れぬ手つきで漁をする。
だが、不器用なうえ、村人が全員集まっても敵わないほどの怪力の持ち主。
結果的に漁を邪魔しているのだ。
船を漕がせば、その怪力で海が激しく波立ち、村人たちの船が沈んでしまう。
網の手入れをさせれば必ずぼろぼろに破れてしまう。
関介は、持て余した力を制御できずにいるのだ。
そして、図体は大人をはるかに上回るというのに、その思考は幼子のようであった。
村の衆が気を利かせて、「休んでおりいや」と言えば、まだ手伝えると言って漁の道具を持って走り回る。
手伝ってくれるというのはありがたいが、毎度毎度ものを壊されては、やはりうっとうしいと思うのが正直なところであった。
「そんなときでした。どこからか、あやつの怪力を噂に聞いて、都の人が村へやって来て――」
村長は深いため息をついた。
その男は数人の武人を連れ、狐のような目と刺々しい都言葉で関介のことを根掘り葉掘り聞いて回っていた。
村長からも話を聞くと、
「なんと、それはさぞ難儀していることよの。まろにいい考えがあるぞ」
と、いきなり村長に宴の席を用意するように提案し、関介を呼ぶよう言伝ると、村長の返事を待たずに出て行った。
翌の夜、宴に誘われた彼は嬉しそうにやってきた。
生まれて初めての宴である。
関介は都人に酒をすすめられ、上機嫌でそれを飲み干した。
「ところでそなた、力に自信があるそうじゃな」
頃合いを見計らって、都人が訊ねる。
しかし、関介はぐびぐび酒を飲むばかりで聞いてもいない。
どんなに声を大きくしても酒に夢中だったので、都人は酒を取り上げて再度尋ねた。
「そなた、欲しいものはないか? まろとの賭けに勝てば、そなたの望むもの、何でも授けようぞ。ほれ、言うてみい」
その言葉に、村長は目を丸くして驚き、関介は初めて都人を見た。
「ほ、ほしー……もの……なん、でも……?」
小さな丸い瞳で都人を凝視する。
願いが叶うことに喜び、きらきらとした星のように輝く、子供の目だ。
そして、顔を赤らめて口をもごもごさせ、
「お、おら……お夏、嫁さ欲しい……」
とだけ、言った。
都人はにやりと頷き、扇ではたはたと顔にそよ風を送る。
「よかろう。ただし、賭けに負ければそなたはまろの僕となりて一緒に都へ来てもらう。よいな」
関介はさほど間を置かず、こっくりと頷いた。
じっと聞いていた舞人は興味深く目を開く。
「ほう、賭け事……それはどのような?」
「それは――」
村長がと口を開こうとしたとき。
「陸繋ぎじゃ!」
襖が突然に開かれ、風流な男が大声を出して入ってきた。
村長の言葉はその男によって遮られた。
「夏至の日の夜に、島戸から角島までを一晩のうちに岩で埋め尽くし、海士ヶ瀬の海を繋ぎたもうたら、あやつの望みを叶えると約束した」
ぺらぺらとよく舌の回る男が、先程村長が話したまんまそっくりを最初から最後まで一通りしゃべり通した。
「そういうことで、まろは約束の日まで村長の床の間を借りておる」
「では、あなたが都から来たという?」
「いかにも」
舞人が尋ねると、男は鼻を高くして名乗る。
「藤原北家は冬嗣が末子、咸嗣と申す。此度は屋敷の護衛にちょうどよき男がおると聞いて参上つかまつりたもうた」
「藤原北家……藤原四家の方でしたか」
「んむ。おぬしよく知っておるの。して、そなたは誰じゃ?」
舞人は姿勢をただし、丁寧に、深々と頭を下げる。
「申し遅れました、私は世に舞を広める旅をしている名も無き舞人でござります」
「ふむ、舞い手とな」
咸嗣は、じーっと舞人を眺め回す。
「しかしなんとも異様な……」
舞人は夜の帳のような袴に暁のような上着を羽織り、首には奇妙な首飾りを下げている。
そして顔には、見たことも聞いたこともない朱の化粧を施している。
村長は知らなかったが、舞人にしては風変わりな様であった。
「まあよいわ。では早速、今宵の宴に一差し舞っていただこうか」
「宴、でございますか」
「そうじゃ。あやつの怪力は、まろの別荘の建造に最適じゃ。いかにあの男が怪力の持ち主であっても、一晩で陸と陸を繋ぐなど到底不可能なこと。ゆえに、こうして夏至となるまで宴をしてまろの勝ち宴を催しておる。そなたもまろの宴に参られよ」
咸嗣は、滑らかな舌でのたまう。
舞人は、姿勢正しくお辞儀を返した。
「藤原様のお望みであれば」
「よし。では村長、早々に舞の用意をいたせ」
しがない漁村の長は、しばらくおたおたした後、渋々了承した。
■ ■ ■
夜更けも過ぎ、やがて空がしらみはじめる。
咸嗣は、舞人に次から次へと舞を注文したが、彼はすべて快く引き受け、夜を通しているというのに疲れることなく舞を舞った。
そのどれもが優雅で、時に風が撫で吹くが如くふわふわと、時に水の流れのようにさらさらと、見る者を夢心地にさせた。
陽が昇ろうかという明るさになった頃、ようやく宴も終いとなり、舞が終わると、咸嗣は膝を打ってたいそう喜んだ。
その声に、うつらうつらと夢を見ていた村長も目を覚ます。
「すばらしい! これほどの舞い手、見たことないぞ! そうじゃ、おぬし、まろのもとに来ぬか? 望みのものはなんでもやるぞ」
それに対して、舞人は深く頭を下げた。
「恐れながら、私はこの舞を世に広げるという役目がありますゆえ――」
「そのようなこと、まろが都でいくらでも広めたもうぞ。まろのもとにくるがよい」
舞人は頭を下げたまま、半歩ほど退く。
「まことにありがたきことながら、この役目、私自身でせねばならぬことゆえに、藤原様のご意向に沿えず申し訳なきことと存じます」
「ううむ、さようか……」
惜しいのう、と呟く彼に、舞人はふと問いかける。
「藤原様、半里ほどもある海を全て埋めるとは、人の――ましてや、たった一人の力で叶うものなのですか?」
「んむ? 陸繋ぎの事かえ?」
咸嗣は盃を一気に飲み干す。
「ふん、いくらやつでも不可能よ。石を大量に投げ込んだところで、波にさらわれるのが落ちよ」
そういう咸嗣の表情は意地悪そうであった。
「……さようですか」
「それはさておき……のう、やはりまろのもとへ――」
舞人はにっこりと首を横にした。
「……惜しいのう、惜しいのう」
咸嗣は、眠りこけるまで、惜しい惜しいと呟き続けた。
その一方。
ズシン、ズシンと重たい音が山に響く。
深々と生い茂る木々の海を、黒い影が顔を覗かせながら動く。
やがて、山の麓にたどり着いて、陽の光に現れた影は、岩を背負う青年になった。
のっそりのっそりと歩いては、背負う岩を持ち直す。
岩は青年の背中に隠れる程度だが、青年自身、木をも凌ぐ身の丈であり、岩は常人では動かすこともままならぬほど巨大であった。
青年は、麓の岩山に岩を下ろすと、再びのっそりと歩いて山の中へ消えていった。
あくる日もあくる日も。
今日で何日目となるか。
咸嗣は、飽きずに宴を催した。
そのたびに村長はご馳走を用意させられ、村娘たちも呼びだされたが、それでも、あの関介の問題を解決してくれるならと我慢した。
咸嗣は村娘の中でも、器量良しの美しいお夏を気に入り、舞人のときと同様、自分の屋敷に呼ぼうと、娘の欲しがりそうなきれいな反物や珊瑚を用意しようと言葉を並べ立てていた。
「いかに藤原様が申されようと、私は弁財天様のもとを離れるわけにはいきません」
お夏は頑なに断り続ける。
「都とて、弁財天を奉る寺がある。そばを離れることにはならぬえ?」
「この村でないとならないのです」
「藤原様、どうか勘弁してくだされ」
咸嗣の強引な誘いに、さすがの村長も口を挟んでしまう。
しかし、それが余計に咸嗣の興味をひいてしまった。
「この娘は村にとって弁財天様のお言葉を聞ける唯一の娘じゃて。お夏がいなくなってしもうたら、わしらの支えがのうなってしまいます」
「ほう、神の声を聞く娘! これは珍しきものを見つけた。まろは必ずやそなたを都へ連れ行くぞ!」
「私はこの村を出ては行きません」
語気を強めるお夏。咸嗣は、それはもう飽きたといわんばかりに目を細める。
「ふん、強情よの。では、あの男のように賭けてみるかえ」
咸嗣は、村の外に見える海を指す。
「関介とか申したか。あの男、傲慢にもおぬしを嫁にしたいと言って賭けに乗ってきたわ」
「関介が?」
「夏至の夜、あやつが島戸から角島までを陸繋ぎできたもうたら、おぬしはあの男の嫁じゃ。さすれば、さすがのまろもおぬしのことを諦めようぞ」
「そ、そんな無茶を!」
弾かれたようにお夏は顔を上げる。
都人と関介の賭けなど、初めて聞いたと村長を見るが、当の本人は顔を背けていた。
お夏には何も知らせていなかったようだ。
「無茶ではなかろ。村外れの海辺の岩山を見なんだら?」
お夏ははっとする。
「……だから、ずっと岩を運び続けていたのね……」
最近、村にも寺にも来ないので、遣いがてら様子を伺ってみれば、彼は何のつもりか岩を運んでいた。
しかも、一つや二つでなく、とにかく大きな岩を片っ端から集めていたのだ。
どうしてそんなことをしているかはわからなかったが、あまりに一生懸命だったので、お夏は邪魔にならぬように帰ったのだ。
こんなことになるのなら、いっそ、青年に声をかければよかったとお夏は悔いた。
「あの男が負けなんだら、まろと都へ来るのじゃぞ。これはもう決めたことじゃ」
「わかりました……」
お夏は、感情を押し殺して承諾した。
「よし! では村長よ、約束を交わす盃を持て」
既に勝った気でいるものだから、咸嗣は声高に叫ぶ。
「……本当にこれでよかったんじゃろうか……?」
すれ違い様、盃を用意しにいった村長の呟きを聞いて、舞人はいったん立ち止まり、やがて厠へ向かった。
そして、とうとうやってきた夏至の日。
それは、咸嗣と関介の、賭けをする約束の日であることを告げていた。
海から荒い風が吹き込み、海士ヶ瀬はざざざざと絶え間無く波音を発ててくる。
独特の濃い潮の匂いを体中に浴びながら太陽が傾いていく、ちょうどその時。
関介は約束どおり現れ、見物に来た皆の前で、山の麓、海辺に用意した巨大な岩どもを雨あられの如く放り込んでいった。
その姿を目の当たりにした村人たちは、彼の怪力に改めて驚く。
心配そうに見ていたお夏でさえ、口をぽかんとあけていた。
その勢いたるや、海士ヶ瀬の海が実は水溜りだったのではないかと疑うくらい、みるみる岩で埋め尽くされていく。
月が昇り、夜が深くなっても、関介は休むことなく岩を投げ続けた。
「これは……すごい」
村長がもらした言葉のとおり、半里ほどあった海士ヶ瀬の大きな海はほとんど岩で埋め尽くされていた。
夜明けが近付く頃には、海辺にあった岩どもも残り少なくなり、海士ヶ瀬はだんだん陸続きとなる。
「村長、この賭け、約束では鶏が鳴くまでに陸繋ぎをしなければいけないのでしたね?」
舞人は、関介を凝視しながら聞く。
答える村長も、狐につままれたような顔でいる。
「そうじゃ……そんとおりじゃ……これは本当に陸を繋いでしまうやもしれん」
それを聞いた咸嗣は気が気でないのだろう、右往左往しながら様子を見ていた。
「ええい、このままでは夜の明ける前に終わってしまうぞ。朝はまだかえ!?」
金切り声をあげるも、関介の姿に釘付けとなった村人たちの耳には届かなかった。
その時。
刻が止まったかの如く、皆が動かなくなった。
何が起きたのか。
それは海の向こうまで尾を引いて響き渡った。
山裾から、朝を告げる鶏が景気よく一声上げたのだ。
朝を告げるに相応しい声が止んでからしばらく。
誰もが動かぬ中、声を張り上げたのは咸嗣だった。
「あ、朝だえ! 朝になったえ! 陸繋ぎは失敗じゃー!」
咸嗣の声に、村人たちは一斉に関介を見る。
その本人は、呆然と向こう岸を見、そして、手元を見た。
岩が一つ。
あと一つ、手にした岩を置けば繋がったはずだった。
「お、おら、できんかった……?」
関介は、ぼーっと波打ち際を振り返る。
その様子を見ていたお夏は、がっくりと膝をついた。
■ ■ ■
翌日、咸嗣は俯くお夏と関介を引き連れて、意気揚々と村を出て行った。
お夏は、道中も馬に揺られながらずっと俯いて黙り込み、関介はそばを歩きながらおろおろとする。
「ええい、いつまでそうやっているつもりじゃ!」
いつまでも下を向いている彼女に業を煮やした咸嗣が喚く。
しかしそれでどうにかなるはずもなく、お夏は涙を抑え切れずぽろぽろと流しだす。
そこへ、そよそよと心地のよい柔らかな風が流れてきた。
「まあまあ藤原殿、そう怒鳴らず」
言ったのは舞人だ。扇で咸嗣に風を送っている。
「彼女とて生まれ育った地を去るのを惜しんでいるのですよ」
「ふん、そんなものかえ」
咸嗣は、心地よいといった表情をしながら、つっけんどんに言う。
「それはそうとおぬし、同じ道中ならば、いっそのことまろの屋敷へ――」
「途中、道が分かれます故、ご同行出来ぬのが惜しゅうございます」
「……」
有無を言わさぬ圧力を言葉にされ、咸嗣は返す言葉を失う。
その道が分かれる手前、お夏が急に具合を悪くし、舞人の機転により一行は休憩をとることにした。
木陰に座り、お夏は手をすり合わせて拝む。
「弁財天様、弁財天様……私はどうすればよいのでしょう?」
訊ねたところで返事はない。
村を離れた時点で、お夏は弁財天様の存在を遠く霞の向こうに見失ってしまったのである。
懸命に手を合わせていると、どこから迷ってきたのか、黒い揚羽蝶がひらひらとお夏の前に現れた。
彼女の前を行ったり来たり、まるで話しかけているようだった。
お夏が手を差し出すと、蝶は甘い蜜の花を見つけたかのようにとまる。
優雅に羽を動かす姿は、お夏を慰めているようだった。
「もしや、弁財天様が蝶の姿に変えておられるのかや?」
蝶はゆっくりと羽を広げては閉じた。
「……私ったら、自分の事ばっかで、弁財天様にこんな心配かけてしもうて、なんて罰当たりな。私だけが辛いわけじゃねえ。泣いていても仕方のないことじゃ」
お夏はすっくと立ち上がり、関介を捜し始めた。
蝶もそれに合わせて舞い上がりる。
「どこへ行きなさる?」
思わず蝶を追いかけていくと、茂みの向こうから声が聞こえてきた。
「まったく、肝を冷やしたえ。しかし、おぬしらよくぞ気を利かせたのう」
咸嗣の声だった。
お夏は、足を止め、耳を澄ます。
誰と話をしているのだろう。
気を利かせたとは、一体何のことを言っているのだろう。
このままじっとして、その先を聞けばわかる。しかしお夏の心はそれを聞いてはいけないとも言っていた。
「どうしよう……」
お夏がそうこう考えるうち、咸嗣がまたもや喋り出す。
「おぬしらの鳴き真似、なかなか似ておったえ。さすがのまろも鶏と間違えなんだ」
お夏は身を震わせた。
恐怖や驚愕ではない、怒りが彼女の身を包む。
次の瞬間には、咸嗣の前に飛び出していた。
「卑怯者! よくも騙したわね!」
お夏は咸嗣に食いかかった。
突然の事に、咸嗣はおどおどしていたが、すぐに表情を変える。
次にお夏が見た光景は、暗い緑の木々の葉と鉛色の空だった。
自分が倒れていることに気付いたのは、背中に草の心地を感じてからだった。
それにしても、熱い。
蝉の季節はまだだというのに、お夏の背は異常なまでに熱を帯びていた。
と、同時に寒さで体が震えそうになる。しかし、震えたくても体が全く動かない。
今度は眠気だ。すごく眠い。
目を開けていたいのに、瞼が重い。
お夏は抗えずにゆっくりと目を閉じた。
「……死んでしもうたかえ?」
咸嗣がそろそろと覗き込む。
護衛の一人が、刀を収めながらお夏を一瞥する。
「まだ息はありますが、じきに――」
咸嗣は、ごくりと唾を飲み込み、顔を引き攣らせて笑う。
「ほっ……はははは。ま、まろに盾突くからだえ! おぬしなど都に連れ行っても、なんの価値もないわ!」
お夏の体を蹴ろうとし、目測を誤って空振りした。
そしてそのまま逃げるように転がって護衛の陰に隠れる。
近くの茂みが動いて驚いたからである。
よほど怯えていたのだろう、その膝はかくかくと震えていた。
しかし、茂みから出て来たのが関介だと知ると、「驚かすでない」と金切り声をあげた。
関介はというと、咸嗣の言葉なぞ聞きもせず、横たわるお夏を見つけて叫んだ。
「お夏う!」
彼女に駆け寄り、悲しげに事切れた彼女を抱き上げる。
「うう、お夏……お夏う……」
「まろを無視するでない!」
咸嗣は関介を蹴る。
しかし、都の靴でも彼の丈夫さに敵わず、咸嗣はじんじん痛む足を抱えて跳びはねる。
「お、お夏ころ、したの、おまえらか……」
関介の目がぎらりと咸嗣を捉えた。
その恐ろしさに、咸嗣は首が飛ぶほど左右に振った。
「ま、まままろではない! きき斬ったのはこやつじゃ!」
しかし、咸嗣の必死の声は関介に届かなかった。
彼は咸嗣だけを見据え、のっそりと立ち上がる。
「お、おぬしら! こういうときのための護衛じゃろ! 早うこやつを斬り捨ていっ」
怪力男とあいまみえ、己の力量を計るために、宝刀を盗んでまで雇ってもらった咸嗣の護衛二人。
巷では敵知らずといわれ、力を持て余していたところに咸嗣と出会ったのだ。
しかし、二人がかりで関介に斬りかかっても、彼の体は鉄にでもなったか、傷一つつかない。
それどころか、刀がぽっきり折れてしまったのである。
「だ、代々続く家宝が……」
嘆いているところを関介に頭を掴まれ、方々へ投げ飛ばされてしまった。
力の限り強く、空より遠く飛ばされた護衛たち。
「ひいい……」
咸嗣は腰が抜け、立ち上がれないまま後退する。
そこへ、退路を塞ぐ何かに当たったものだから、さらに驚いてひっくり返る。
そこにいたのは舞人だった。
「様子が気になり、ここまで来てみたが……やはりこうなったか」
舞人は関介を見上げる。
その手には黒い揚羽蝶が羽を休めていた。
「因果応報、ともいうべきか。はてさて」
「旅の舞人……よかった、まろを――」
助けよ、と言いたかった言葉は、出なかった。
代わりに、ひゅうひゅうと喉笛が鳴る。
関介の伸ばした手が咸嗣の首を掴みあげたからだ。
大きく開いた彼の口が咸嗣に迫る。
――ぎゃあ!
腰の抜けた咸嗣は、出ない声で叫んで舞人へ助けを求めた。
「やめよ! 藤原殿を喰らう気であろうが、それは人の道から外れる事ぞ!」
舞人が叫ぶ。しかし、彼は咸嗣を掴む手に力を込める。
「こ、こいつ、お夏、殺した。許せない……許せない……!」
関介が再び口を開く。
咸嗣が目の前に迫る死におののく。
舞人が咄嗟に手を伸ばした。
間に合わない、と思う間もなく。
関介は都人の頭を大きな口でがぶりと食べた。
頭を失った咸嗣は、首から血を噴き上げながら、どさりと地に落ちる。
血を浴びながら顔をあげる関介。
その額、眉間を央とした少し上に、鋭く尖った角が一本、さらに牙も大きく口から生えていた。
「鬼……」
舞人が見上げる先に、血と怒り、そして悲しみで朱くなった鬼がいた。
巨大な鬼は雄叫びを上げる。
もはや、人であった関介の面影はどこにもない。
鬼は舞人を見つけると、その大きな掌を振り下ろした。
幸いな事に、動きは舞人よりも鈍かった。
舞人はひらり、と後ろへかわす。
「道を外れたことで、彼の人の部分を不安定にしたか。人は、やはり鬼とも菩薩とも縁のある生き物なのか……」
舞人は鬼との距離を取り、背中の木箱を下ろした。
「緇揚羽よ、お出でませい」
コツンと上部の蓋を叩くと、応えるかのように蓋はひとりでに開き、中から二尺ほどの大きな扇がひらりと出てくる。
舞人が黒地の扇を広げると、艶やかな蝶の模様が現れた。
そして驚くべきは蝶の模様。不可思議なことに、羽を動かしているではないか。
光の反射か、羽が動くたびに色が変化している。
ふわりと風を撫でるが如き扇をひとあおぎし、舞人は力強く言葉を放った。
「きりのうやめし、一ノ舞!」
同時に、鬼はなにもない頭上に手を伸ばす。
まるで空気を掴むような仕種をすると、そこから巨大な岩を掴んでいた。
「!」
轟音ともとれる声をあげながら、舞人に向かってそれを投げた。
舞人は扇で風を起こしてその場から逃げる。
鬼となった関介の背後に移り、もうひとあおぎする。
鬼も、舞人に向き直っては岩を投げ、そのたびに舞人は蝶のようにひらりひらりとかわして鬼の周りをくるくると舞う。
次第に、鬼の動きが遅くなってくる。
体中を走る痺れに、ついに膝をついた。
舞人は舞うのを止め、扇をぱちんと閉じる。
「緇揚羽は震える如き動きを奪う。さすがの鬼も動くこと能わず」
そして、扇を振り下ろすように広げる。
さきほどと比べものにならないくらい、舞人の身の丈程も大きくなった。
扇の中を飛んでいた蝶は五芒星の模様に変わり、舞人は大きく振りかざす。
「鬼道に堕ちし人よ、清き風にて今一度人道へ還れ!」
強い風に煽られ、鬼は堪らず転げる。
ころころ転がり、最後に仰向けに倒れたときには、もとの関介の姿に戻っていた。
彼はしばらくして意識を取り戻しむっくり起き上がる。
ぼーっと舞人を見、その傍らで事切れたお夏を見て大泣きした。
■ ■ ■
「村に、帰るのか?」
舞人が尋ねると、関介は真っ赤な目でにっこりわらった。
あれから彼は一晩中泣き続けていたのだ。
「オラ、お夏、送る……」
舞人は、「そうか」とだけいうと、村へ帰る関介の背を見送った。
やがて自分も反対の道を歩きだす。
黒い蝶が横切ると、舞人はふと振り返る。
関介とお夏の声が、蝶の羽に乗って聞こえた気がしたのだ。
二人の声に、舞人はほんの少しだけ、口の端を引いた。
■ ■ ■
その後のことは、蝶が気まぐれに運ぶ便りで曖昧に語られた。
弁財天様の加護を受けた娘がいなくなった村では、神を祀るためのお社が建てられ、また、とある怪力の青年が作った岩の瀬は、今まで荒れ狂った海を和らげ、漁の助けとなったとか。
中でも、角島の浜辺では手形に似た跡のついた岩が発見され、それは『鬼の岩』と呼ばれるようになったそうだ。