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第一話 (前編) カップル爆発しろとは言ってない


 意識を現実まで引き上げ、眼を開く。

 瞳に入ってきた光は、紗越しに柔らかいだ日光。

 花窓のステンドグラスからは、曇りがちな日差しが色づいて届いている。窓のかたちからして、この寝室はディアモンさんのアトリエかな……

 ディアモンさんのアトリエは、賢者連盟エクラン王国非公式支部だ。

 おそらくこの部屋は、連盟魔術師のための客室なんだろう。半天蓋の寝台と、どっしりした飾り気のない物書き机。調度は揃っているけど小物は置かれていない。書棚付き物書き机には、必要最低限なペンやインクだけ。

 いや、机にアイリス模様の日記帳が置かれていた。

 エグマリヌ嬢との交換日記。

「良かった、起きてくれて!」

 野太い声が響く。

 寝室に入ってきたのは、ディアモンさんだった。エプロンドレス姿だ、珍しい。

「ちょっと前まではエグマリヌちゃんがいたの。おじい様に呼ばれたから、どうしても行かなくちゃいけなかったけど。ミルクを温めるから、待っていてね。着替えとお湯はそこにあるから」

 ディアモンさんは、素早く立ち去る。 

 部屋には真鍮と紫檀の洗面台があった。たっぷりとしたお湯と海綿。

 杉皮製の衣装籠には、ティードレスが用意されていた。エグマリヌ嬢のティードレスだ。わたしのためにリコルヌの城から、いろいろ持ってきてくれたんだ。親友っていいもんだな。

 あと厚手のシュミーズとペチコートとドロワーズ。それから尻につける衛生エプロンと、使い捨て木綿ナプキン。

 おんなのからだにつけるもの。


「いやだ」 

 

 なんだか無性にみっともない。

 生理痛がないタイプだからか気にしなかった。でも今は嫌だった。

 涙を我慢できても、血が堪えきれない。嫌だ。

 わたしの自制できないもので、わたしが構成されている。なんて屈辱だ。許せない。

 胎に子供をこさえてなければ血が流れて、子供をこさえたら乳が垂れる。おんなの服の裏地はいつもどっちかで汚れるんだ。どっちもただの血液のくせに!

 ペンやインクの隣に、ペーパーナイフがあった。

 どっしりとした金鍍金のペーパーナイフ。幾何学文様の持ち手が優美で、刃の方は長くて鋭い。

 あれで子宮を抉ってしまえば、わたしは完璧なわたしになれるだろうか。

 わたしの肉体から、経血と母乳が排除できる。

 そんなことを考えたけど、無意味だと知ってる。わたしの肉体の回復力は、人間からかけ離れている。狼に喰い散らかされても、もとの肉体に回復してしまう。回復してしまうのだ!

 他人の心が思い通りにならないのは分かっている。

 だけどせめて自分の身体くらい、わたしの思い通りになってよ!

「………ぅ、ぐ」

 胎という意のままにならない臓器が憎い。

 ああ、でも、レトン監督生はそんな気持ちで病弱な身体を抱えて生きているんだろうか。彼の心境は分からない。でも月に一度程度の意のままならなさで癇癪を起していたら、レトン監督生に恥ずかしいな。 

 それに今のわたしには出来ないだけで、明日のわたしには出来るようになるかもしれない。

 己の肉体を制御すること。

 クワルツさんが筋肉を変化させるように、自分の肉体を十全に制御できる日がくる。きっとだ。

 わたしは膚を洗って、着替えた。

 誰にも不機嫌さを見つからないうちに、わたしはきちんとしたわたしになる。他人に機嫌をあやしてもらうほど、わたしは赤ちゃんじゃない。

 まるで見計らったようにノックが響き、ディアモンさんがホットミルクを持ってきてくれた。

 絶食で窶れに窶れきったわたしの身体に、シロップ入りのミルクが流し込まれる。

 味覚が刺激され、胃が暖まる。

「ミヌレちゃん、クロワッサン食べる? 白クロワッサンがあるの」

「白?」

「シロップ漬けして焼いたクロワッサンよ」

 きょとんとしていると、パン籠を差し出された。盛られているのは、めっちゃ白いクロワッサンだ。

 ひと齧りした途端、限界マックスの甘味が、脳に幸福感を届けた。

 ただ甘いだけじゃない。丁寧に精製された白砂糖だから、後味はさらっと上品に通り過ぎていく。そして僅かに残る甘さは、バターのコクと小麦の旨味に受け止められてた。なんたる芳醇さ。

 ……美味しい。

 シロップまみれのクロワッサンをみっつ平らげ、ミルクを飲み干した。

 ちくしょう。絶望していても糖分を摂取することで気持ちが落ち着くのは、精神が肉体に敗北したみたいで癪に障る。

 ほんとにこの肉体のなかに、『高位の構成要素』なんて高尚なものがあるの?

 人間って『下位の構成要素』だけで出来てんじゃねーの。

 肉体と、精気と、星幽体だけで、魂なんてありませんって言われても、今なら納得するよ。

 ああ、でも糖分のおかげで落ち着いた。

 クワルツさんにお礼を言わなきゃ。

「ディアモンさん。クワルツさんってどこにいます?」

「応接間よ。疲れてうたた寝してるけどね。アナタの精神に干渉するのって、けっこう大変なのよ」

 クワルツさんにはまた世話になってしまったな。

「正規の訓練を受けてないクワルトスくんに、訪問させるのはホントは良くないのよね。でもミヌレちゃんくらいの高魔力な術師に、親しくない人間が干渉したら門前払いだもの。栄養は補給できたし、また引きこもる?」

 そう言われると引きこもりたくねぇな。

「起きます」

 わたしは結構、天邪鬼だ。

「カマユー猊下がミヌレちゃんから話が聞きたいそうよ。クワルトスくんから大まかな経緯は聞いているけど、アナタと直接、話したいそうなの」

「猊下のご都合がいい時にいつでも」

「なら今でもいいかしら?」

 頷けば、ディアモンさんはわたしの髪を綺麗に梳いてくれる。鼈甲の櫛で梳いて、軽く編んで、リボンで結って、人前に出る格好にしてくれた。

 ディアモンさんはポケットから大粒のダイヤモンドを取り出す。

 呪符だ。

 ダイヤモンドから七色より多彩な光が溢れて、空中に幼い少年の姿が投影される。

 賢者連盟の魔術師にして、星智学の最高峰、カマユー猊下だ。 

 濃淡の瞳がわたしを見下ろす。

 実体ではないのに、星座柄のローブを整えて書き物机に座った。

「時間障壁からの帰還おめでとう。ぼくの到達記録を破ってくれたのは嬉しいよ。自分の記録より、他人の記録の方が破って楽しいからな」

 口端が生き生きと歪む。

「非公式だが時間障壁の突破と帰還、そして【制約】の破棄。快挙だ。どうやったのか見当もつかない」

「時間障壁は邪竜の力を借りて突破しまして、【制約】は『ゼルヴァナ・アカラナ』の心臓を抉って、呪符にしたんです」

 沈黙が落ちた。

 横で、どさっと音が響く。ディアモンさんが卒倒している。なんでや。

 徹夜続きだったのかな?

「久しぶりに自分の理解や予測を上回る発言を耳にした。長生きはするものだな」

 カマユー猊下は無理に作った笑顔を浮かべ、頭を抱え込んでいる。器用やな。

 そういえば今おいくつなんだろう。

 見た目は六歳児だけど。


「で、無窮神性を殺してまで助けたオニクスは、一体どうした?」

「……行先を告げずに、消えました」


 オプシディエンヌのことは言えなかった。

 だってもし闇の教団の総帥が生きてるって告げたら、賢者連盟は討伐を推し進める。きっとわたしが見届ける前に、ふたりを見つけて処刑してしまう。

 あるいはオプシディエンヌだけを殺して、オニクス先生を封印か。

 どっちも嫌だ。

 絶対に嫌だ。

 先生の死に際を見なかったら、わたしは一生、気持ちを引きずりそうな予感がある。

 オニクス先生の死をきちんと見届けなければ。

 恋を終わらせるために。 


「『未来視の狼』もそう言っていた。あんたを眠らせて、行方をくらませたと。あんたに行先の心当たりは?」

「あれば今ここにいませんよ」

「それもそうだが、心当たりでも手がかりでも何でも構わないよ」


 濃淡の眼差しが、わたしを見据える。

 刃の鋭さだ。

 わたしを探っているのか。

 わたしの表情や言葉の端から、なにかヒントを掴もうとしている。

 カマユー猊下にしらばっくれるのは無理かな。無理だろうな。


「先生を探すんですか?」

 わたしは質問という攻勢を打つ。

 防戦では不利だ。

「あんな洒落にならん強さの罪人を放置してられん。魔術騎士団を動かしている。事と次第によっては、現場の判断に委ねることもあると了承してほしい」

「つまり見つけ次第、即刻処刑ですか?」

「余裕があれば、『夢魔の女王』の元に引きずり出すが」

「【制約】が解かれた先生に勝てる相手がいるんですか?」

 わたしに問いかけがこないように、さらに踏み込こんで質問を繰り出す。情報を得たいという姿勢が肝心だ。このまま何も知らない人間として立ち回る。

 カマユー猊下は曖昧に呻く。

「いることはいる。生まれながらの召喚魔法の遣い手だ」

「はひ? 召喚、魔法……」

 カマユー猊下の言い間違いでもなく、わたしの聞き間違えでもない。

 確かに召喚魔法とおっしゃった。

 召喚。

 サイコハラジック特異体質のみが使える特殊系だ。

 どれだけ魔力が高くても、わたしは使えない。

「だが下手な場所では戦わせられないな。あれがオニクスと戦えば、辺り一帯が焦土になる。比喩じゃない」

 カマユー猊下は子供の容姿で、ひどく年老いた所作とため息を零す。

 さすが賢者連盟。

 化け物みたいな人材が、ごろごろいるんだな。

「賢者会議の結果、あんたのスペアとして封印しておけって声が多い。鎮護役を出来る魔術師は、本当に希少だからな」

 封印。

 空中庭園で、六角水晶に封じられていた先生を思い出す。

 賢者たちの都合で、先生のすべてが決められるのか。

 冗談じゃない。

「生きるも死ぬも、先生の自由です」

 わたしから漏れた呟きに、カマユー猊下の瞳が大きく開いた。

「オニクスは死ぬ気なのか?」

「……ッ!」

 【読心】されたかと思ったけど、わたしに知覚されず闇魔術を掛けられるわけがない。

 単純に発言の裏を読まれただけだ。

 なんて迂闊な。わたしは馬鹿か!

 カマユー猊下は顔を顰めた。

「命を賭すべき目的が、あるんだな」

 呟くたびに口許に皺を刻み、唇を歪めている。濃い色の瞳に憎悪に、淡い色の瞳は怒気に染まって揺れていた。

 胆に気合を入れないと、気おされて、怖気づいてしまいそうだ。

「……あの男、自分の死に方を選べるほど上等な人間だと思っているのか」

 ぞっとするほど冷たい声。

 カマユー猊下の生身はここにいない。 

 宇宙の遥かな彼方、木星に座している。

 なのに、吐息や、体温が、生々しいものすべてが伝わってくるほどの怒りと、憎しみ。

「命乞いを、したんだ。あの男は、ぼくに跪いたんだ……」

 カマユー猊下は両手で顔を覆う。

 まるで剥がれようとする仮面を押しとどめるために、両の手のひらで抑え込んでいるみたいだった。

「生きるも死ぬも勝手にさせん! 命乞いした以上、オニクスの命はぼくが使う!」

 カマユー猊下は肩を震わせている。呼吸を整える音がする。

 闇の教団時代に命乞いしたのは知ってるけど、そんなこと知ったこっちゃない。誰に命乞いをしようが、オニクス先生のいのちはオニクス先生だけのものだ。死を望むなら、わたしはそれを見届ける。

 先生のいのちを、賢者連盟の所有物にさせない。

 しばらくの沈黙の後、カマユー猊下は顔から手を離した。

 わたしはカマユー猊下を睨む。

 猊下もだった。

 オニクス先生の件に関して、わたしとカマユー猊下は相容れないだろう。最初から破滅的にボタンを掛け違えているんだから。

 カマユー猊下が口を開く。

「時間障壁の突破方法と時間外領域について、そして【制約】の解除方法。これらの詳細なレポートを頼みたい。ディアモン魔術師が家庭教師代わりになるだろう。読みたい文献があれば、すぐ用意させる」

「締め切りはいつでしょうか?」

「あんたが通った後の時間障壁も観測中だからね。それが落ち着いてからしか腰を据えて読めないし、おいおいで構わないよ」

 適当な締め切りだなあ。

 賢者だから時間感覚が違うのかな。

 あるいは教育カリキュラムが完成するまでの間、わたしにレポート課題を与えておとなしくさせる作戦か?

 カマユー猊下が掻き消え、ダイヤモンドから光が失せた。 

 静かになった寝室で、ディアモンさんが起き上がった。今まで気絶してたんかい。

「カマユー猊下にレポート提出しろって言われました」

「ええ、でもアナタの療養が先よ。テンションあげるためにドレスを持ってくるわね」

 ディアモンさんは虹彩を輝かせて、たくさんのドレスを持ってくる。

 仮縫いのドレスだ。

「ディアモンさん。どれがわたしのドレスです?」

「全部よ!」

「………ふへっ?」

 目に映るこのすべてが、わたしのために仕立てられたドレス。 

 精神状態が安定していたら、天にも昇る気持ちだったんだろうな、このドレス選びたい放題って。

「この渋めの緑が散歩用ドレス。汚れに強い生地から、ピクニックにも最適よ。こっちはオペラ鑑賞用の夜会ドレス。胸を開くと大人っぽすぎるから、肩だけ出したデザインにしてみたの」

「こんなにドレスを仕立てて頂いていいんですか?」

「いいのよ! 予算下りたもの! 連盟の予算でドレスが作れるのよ!」

 ディアモンさんは瞳を輝かせて語る。

 なるほど。

 他人の金で、クラフト三昧は最高だよな。

 わたしだって素材使いたい放題で呪符作りたい。

「これは宮廷の正装ね。世界鎮護の魔術師として、参内するかもしれないでしょう!」

 最上級のタフタやモスリンを使っていながら、魔術の素材になる真珠や水晶はひとつも使われていない。貝殻のボタンさえない。

 ボタンは刺繍されたくるみボタン。この小さい丸の中に季節の花が咲き乱れているのは息を呑む技術なんだけど、わたしの逃亡を用心しているんだって犇々と伝わってくる。

 可愛らしいドレスのなかに、一点、世界観が違うデザインがあった。

 黒く艶やかなベルベットに、白くマットなグログランという、色彩も質感もコントラストが強いドレスだった。肩からわき下まで大きく開いていて、デザインも色遣いも攻めている。シンプル&ゴージャスだ。

 ディアモンさんがデザインしたかっこいい系か。

 スカートのラインは洗練されていて素敵だし、四年生になったわたしには似合うかもしれん。だけど、今は大人び過ぎて逆に子供っぽく見えそうだ。

「どうかしら? クワルトスくんから怪盗用ドレスを提案されたの」

「あいつ勝手に何しとんじゃ……」

「婚約ドレスとはまた違った方向性で、獣化しやすさを追求してみたわ」

 たしかに大きく開いた脇は、一角獣になってもゆったり動けそうだ。機能性と芸術美が調和している。

「クワルツさんの怪盗衣装を仕立てたの、ディアモンさんですよね」

「ええ。ライカンスロープ術者の衣装は得意なの。連盟のライカンスロープ術者の正装は、すべてアタシの仕立てよ」

「婚約ドレスも変身しやすかったです」

 わたしは讃えたつもりだったが、ディアモンさんは何故か口許をひきつらせた。

「あれね………あとでカマユー猊下やテュルクワーズ猊下にお叱りを受けたわね。アタシも失念してたわ」

「あえて逃げやすいドレスを仕立ててくださったのでは?」

「このデザインなら獣型と人間型、どっちも可憐だわって思ったら……あとのことは考えてなくて」

 視線を微かに逸らしながら、唇だけで微笑むディアモンさん。

「でもまたライカンスロープ術向きのドレスを作ったんですか?」

「思いついちゃったもの!」

 魔術師としての任務より、ドレスのデザインが優先か。

 さすがオニクス先生の友人。

 怪盗用ドレスは興味深いが、今はそういう気分じゃない。

 目に留まったのは、春緑色のワンピース。

 いかにも芽吹いたばかりの透明感がある緑に、朱のリボンがあしらわれている。

 袖もスカートもティアードになっていて、縁は真紅や臙脂や朱の刺繍糸で彩られていた。よく見ると、フレーズの漿果とかスリーズの実とか真っ赤な果物の柄だ。柄が細かいからそれほど子供っぽく無くて、可愛い。

「婚礼パレードのドレスは、それでいいかしら?」

 国王婚礼パレード……

「ぅへっ? もうそんな時期なんですか!」


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