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序の表側 王妃と貴婦人の懇談



 新しい王妃を迎えるために、エクラン王国の宮廷から女官長が派遣された。

 四十路の貴婦人だ。

 彼女を年増と言う人間はいても、醜女という人間はいない。整った目鼻立ちをしており、濃い色の髪に白髪はなく、化粧はうっすらとしか施していないが生娘のように生き生きしている。

 プラティーヌに言わせれば、エチケット夫人である。


 表の作法だけではない。

 裏の不文律も精通しているゆえに、プラティーヌはそう呼んでいた。


 エチケット夫人はエクラン王国の侯爵令嬢として生まれた。

 女子修道院付属の花嫁寄宿舎に入学し、古典文学も歴史も語学も成績上位を保ち、礼儀作法も手芸も音楽もダンスも巧みにこなした。もちろん将来のために家柄や財力に抜きんでた友人を作った。

 18歳で首席で卒業して、社交界に出た翌年に、自分の家柄より古くて財産のある侯爵を射止めた。

 家庭に入ってからは、跡取り息子とその代用品をふたり産んだ。

 跡取り息子が成人してからは、女官として参内。デビュタント舞踏会の総責任者を務め、宮廷サロンが発行している貴婦人用の新聞にはエチケットに関する随筆を連載し、宮中では名高い芸術家を愛人として囲っていた。

 娘時代、母になった時代、そして現在の女時代。それぞれの年頃に、他人の羨む生き方をしている。

 そしてついには王妃筆頭女官である。

 賞賛される貴婦人であること、それが彼女の生き甲斐だった。


 国境付近の大平原地帯。

 ここが王妃一行との待ち合わせ場所だった。

 だが何も無い。

 エチケット夫人の馬車以外、大草原には近づく影もない。

 いや、青い空に光が反射する。

 

 魔導航空艇が群れ成して飛んでいた。

 

 オリハルコン外殻に【浮遊】の魔術をかけ、【爆炎】を組み込んだ魔術機関を推進力にして、【飛翔】で方向を制御している。それらがどのようなバランスで繋がっているかは、大帝国の軍事機密だった。

 魔導航空艇を擁する大帝国だけが、世界の制空権を握っている。 

 エチケット夫人も貴族として帝国との国力差は知識としてあったが、何隻もの魔導航空艇によって肌で実感した。


 航空艇が大草原に降り立つ。

 帝国紋章が入った側面から、無骨な階段が姿を現した。


 ひとりの娘が、軽快に階段を駆け下りてきた。

 白木綿モスリンに白刺繍という清楚なドレスに、乗馬用コートを羽織っていた。

 美人ではない。

 鼻は高すぎるし下唇も分厚い。だが碧眼の輝きに意識が吸い込まれてしまって、鼻や唇など気にならなくなってしまう。それから彼女の肌ときたら、百合と薔薇を蕩かしたような色合いで、そばかすひとつありはない。

 ストロベリーブロンドを巻き髪にして背中に垂らし、リボンで結ってある。無造作な結び方だが、溌溂とした彼女に似合っていた。

 

 エチケット夫人はこの少女が、王妃の侍女であろうと値踏みした。


「エクラン王国宮廷から遣わされた女官長です。我が国の王妃になられる御方へのお目通りを……」


「まあ、だったらもうお目通り済みだわ。はじめまして、あたしがエメロッドです」


 エメロッド。

 それが帝国皇女の名前だと、エチケット夫人は知っていた。

 帝国から送られてきた皇女の肖像画にも拝謁したことがある。

 だけどまさか絹ではないドレスを着ているとは思わなかったのだ。それに肖像画よりずっと髪の色が赤っぽい。これはやや赤い金髪ではなくて、金帯びた淡い赤毛だ。

 エチケット夫人は言葉を失っていた。

 卒倒しなかったのは、もはや奇蹟と言っていい。それほどエチケット夫人の四肢は震えて、心臓は早鐘を打っていたのだ。

 貴族の女として完璧に生きてきた己が、王妃と侍女を間違えるなんて。

 横っ面を引っ叩かれたようなショックだった。眼窩が熱くなり、泣きそうになる。悲しみではない、屈辱だった。こんな辱めを受けたのは生まれて初めてだったのだ。

 

「大変失礼を致しました」


 頭を下げねばならなかった。

 間違ってしまったのは確かに己だが、頭を下げねばならないのは理不尽だった。 

 エチケットとは他人を不快にさせないための作法であるが、彼女にとっては誇りだった。言ってしまえば自己顕示欲であった。煩雑かつ困難なエチケットを正しく振舞える。そういう己を愛しているし、完璧な自分を見せびらかしたいのだ。

 それなのにこんな公衆の面前で、間違えさせられた!


「やだ、謝らないで。こんな格好だから、誰でも間違うわよ」

 

 未来の王妃は無邪気に笑っている。

 受けた理不尽さがぬぐわれるわけではない。

 それどころか悪びれない笑い声に、恥辱が増すばかりだった。

 エチケット夫人が連れてきた侍女たちは口が堅い者で取り揃えているが、それでもこの破滅的な失敗を内心どう思っているだろう。

 使用人を恙なく動かすためには威厳や配慮が必要なのだ。この間違いは屈辱である以上に、エチケット夫人の威厳を大きく切り崩した。


「王都から長旅ごくろうさま、馬車って疲れるものね。さ、カフェ・オ・レを入れてあげる」

 エメロッドはスカートを翻し、階段を駆け上がって航空艇に戻る。

 いまだ皇女である未来の王妃は、芳紀を迎えぬ16歳。贅肉ひとつついてない。身も心も乙女のうちにある皇女は、軽やかだった。野原を駆け回っている羊飼い娘のようにてきぱきと動く。

 四十路になった貴族夫人にとって、この段差は急勾配というより無慈悲だった。その上、幅が足りなくて大仰なスカートが引っかかりそうだったが、小間使いたちの手を借りて平然とした姿を保つ。これ以上、無様な姿を見せるわけにはいかない。

 航空艇も内部も狭かったが、帝国的な重厚さが満ちていた。壁は紫檀の板張りで、床には真紅の絨毯が敷かれている。光魔術のシャンデリアが、青白い光と揺らがない影を描き出していた。

 無駄な装飾は一切しておらず、木目の美しさや質感を際立たせている。威厳漂う質実剛健さだ。

 もしエクラン王国だったら、木目が窒息するほど金鍍金のブロンズで飾り立て、繻子の飾り布で埋め尽くし、絹の房飾りを垂らすだろう。まったく美の価値観が違う。



 航空艇に乗り込んだのは、夫人と随行する侍女、雑用係の小間使いと小姓。護衛の騎士ふたり。騎士たちは控え間に通され、夫人と侍女は応接間に通される。

 手狭であったし、簡素だが、やはり気品があった。

 丸い硝子窓がいくつも並んでいる。

「さ、適当に座って」

 皇女に勧められて、どこか上座であろうかと目で探る。エチケット夫人は航空艇の空間の上座下座を考えた。扉近くのソファが下座だろうと推測する。典雅な挙措で、腰を沈めた。 

 皇女は乗馬コートを脱ぎ、手ずから珈琲を淹れた。

 珈琲。

 奇妙なくらい黒々とした飲み物だった。

 南方の国でしか採れない珍しい豆から作った飲み物だ。エクラン王国の宮廷ではショコラとワインが主流だが、新たな王妃の影響で珈琲が流行るだろう。

 代々、外国から嫁いできた王妃の好みで、宮廷のドレスやお菓子が変わっていくのが習いだ。そしてさらにしきたりは複雑化していく。

「ミルクは多め? 少なめ?」

「多めでお願い致します」 

 珈琲が一般的ではないエクラン王国では、毒性があるという噂もあった。

 ミルクは神聖な飲み物だから、珈琲の毒性を中和するのではないかと、迷信に迷信を重ねた結果、エチケット夫人はミルクたっぷりを所望した。

 カフェ・オ・レが供される。

 暖かい香りによって、張り詰めていた空気が僅かとはいえ和んだ。  

 緩んだ瞬間、銅鑼の音が響いた。

「飛び立つ音よ」

 銅鑼が鳴りやめば、空へと向かって浮き上がっていく航空艇。みるみる離れていく大地。

 厳しく躾けられている侍女は窓枠に駆け寄ることはなかったが、視線は露骨に外へ向けられていた。侍女の浮き立つ気持ちを慮ると同時に、帝国へ賞賛を口にする。

「皇女殿下、素晴らしい帝国の粋ですわ。侍女にも風景を見せてあげてよろしいかしら」

「もちろんよ。我慢しなくてもいいのに」

 侍女は優美に一礼して、窓へと歩み寄る。礼儀を逸しないようにしていたが、窓の光景に感嘆が漏れた。

 航空艇なら王都まであっという間だ。

 冬の寒さや、雪の冷たさや、道の凍結など一切煩わされない。

 皇女エメロッドは、カフェ・オ・レを味わう。 

「あたしもエクラン王国のお話は昔から聞いているわ。春を迎えれば仮面舞踏会、夏には噴水ショーに花火を上げて、宮廷は夜ごとに華やかな宴を催しているのだと」

「ええ、素晴らしいものですわよ。まだ肌寒いうちは、宮廷劇場でオペラや弦楽会……」

「無駄です」

 きっぱりとした発言が、エチケット夫人の言葉を折った。

 声は幼いが、芯の強さがあった。

「王家とは国民のためにいるのです。遊ぶためではありません。国家の福祉や医療が最優先でしょう。王宮でのあいさつが終わったら、さかのぼれるだけの宮廷費帳簿を用意してくださいね」

「宮廷費は遊興庁の管轄です」

 エクラン王国はしきたりを歯車に、名誉を潤滑油にして動いている。

 伝統を侵せば、たちどころに宮廷は軋んでしまう。

 エチケット夫人は内心の戸惑いをおくびにも出さず、気品ある微笑みを目元と口許に装った。どんな化粧より、彼女に魅力を備えさせる笑みだ。

「帝国の皇女殿下。色々と思うことはおありでしょうが、まず皆さまと親しく交わってから考えませんこと? 新たな王妃となられる御方のため、目もくらむ催しを考えておりますのよ」

「あたしは遊ぶためじゃなくて、王妃になりにきたの。帝国皇室の娘として、エクランを帝国のように素晴らしい国にしてみせます!」

 エメラルドグリーンの瞳を輝かせ、帝国の皇女は言い切った。

  

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