序の内側 姫君と監督生の商談
王立魔術学院スフェールが、茜に染まる。
渡り廊下にも深く残照が差し込んで、誰もが足を止める美しい夕暮れになっていた。
だがレトン監督生の足取りは速い。
監督生は多忙だった。
早朝から教師たちの雑用を引き受け、通常の授業を終えた後、学年長たちからの日報を受け、監督生の定時会議。問題行動を起こしている生徒があれば事情を聴き、悩みがあれば相談し、出来る限り配慮して解決しなければならない。
夕食のあとは、消灯後の見回りをしてから、教師たちの雑用を手伝い、闇魔術の講義に出席する。
寝るまでの僅かな隙間で、各授業の課題を片付けていく。
自由時間など皆無。
その中で成績の上位を保ち続けなければならない。
だがこの重責をこなし続けることで、生徒からの畏怖と教師からの敬意が齎される。監督生ともなれば学院長からも、一目置かれる存在である。
「おい、監督生」
だからこんな風に、ぞんざいに呼ぶ教師や生徒もいない。
悪名高いオニクス教員は生徒番号で呼んでいたが、それ以外は礼節に則っていた。
呼びつけたのは御者補兼馬丁のフォシルだった。
口調が乱暴である。
いや、そもそも使用人が学院生徒を呼びつけることは、エクラン王国の社会制度から大きく外れていた。
フォシルとて上級使用人候補だ。階級を理解していないわけではないが、ミヌレという存在が感覚を大きく狂わせた。ミヌレの身分に頓着しない振る舞いに影響され、フォシルに生徒に対する階級差を薄れさせてしまったのだ。
処罰される機会は何度かあった。
御者補であるフォシルが、伯爵の城に窓から無断で入った時点で、サフィール次期伯爵が学院に通達していなければならなかった。だがミヌレの予知発狂で、サフィールもレトン監督生もそれどころではなかった。
落ち着けばオニクスが手を回したが、落ち着く間もなく賢者連盟に監禁された。
二度目はニケルとラリマーの地震脱走事件だ。その時にミヌレに対して、手首をつかんだ。
学院女生徒への振る舞いとして、不適切だった。
だがレトン監督生はまたも報告しなかった。
ニケルとラリマーが脱走した処理と、ミヌレが一角獣化したという印象が強すぎて、フォシルの不適切な態度を失念していたのである。
フォシルは身分社会であるまじき振る舞いが咎められず、ゆっくりとゆっくりと歪んでいき、無自覚に尊大になっていった。
育っていく増長は、御者仲間には伝わらない。フォシルは学院厩舎長の甥で、多少、大きな顔をしたところで周りが指摘することはない。
そして話しかける生徒も、レトン監督生くらいだった。
「なんの用事かな?」
レトン監督生も甘いところがある。
監督生の足を留めさせるという無礼は、同学年でもしない。使用人からの呼びかけなど無視するのが普通だ。
「ミヌレがどうなったのか、まだ分かんねーのかよ」
フォシルは一角獣化したミヌレに吹き飛ばされ、レトン監督生の【庇護】で事なきを得たのだ。そのせいかフォシルはいまひとつ、一角獣の凶悪さが骨身に染みていない。
「また療養中だよ」
「また? どいうことだよ!」
「淑女のプライバシーを喋るわけにはいかない。復学まで待ったらどうだい」
「気取ったこと言ってんじゃねぇ!」
まるで同僚に対する口の利き方だ。
レトン監督生の片眉が上がる。
「フォシル御者補。あまり声を荒げない方がいいよ。僕は気にしないけど、おせっかいな生徒や教師が見たらきみの伯父に注意がいく」
混じりっけなしの忠告だった。
だがフォシルは忠告と受け取らなかった。常識ある使用人なら身をわきまえて控えるが、増長に蝕まれているフォシルには伝わらない。
脅迫と受け取った。
「腹黒野郎」
フォシルは吐き捨てるように言って、立ち去る。
レトン監督生は言い返すほど子供ではなかったが、不当な悪態を受け止めるほど聖人ではなかった。
腹の奥が吐きだせない苛立ちのせいで重い。
「レトン監督生」
唐突に呼びかけられた。
「なんですか?」
強めの語調とともに振り向いた瞬間、レトン監督生から冷や汗が噴出した。
「……プラティーヌ殿下」
白銀の美貌に、幾重ものレースのドレスを纏っている。
茜に染まる廊下で、彼女だけが白い。
同じ学院の生徒でなければ、言葉を交わすことなどありえないくらい上位の身分だ。王の従妹たるプラティーヌからすれば、成金の三代目であるレトン監督生と、厩舎長の甥であるフォシルの身分差など無きに等しい。
レトン監督生は膝をついて面を下げた。
「さきほどの使用人、横柄な態度ね。ああいう弁えない子、おしおきが必要じゃない?」
「次はもう少し強く注意します」
「あなたは軽くみられているのでしょ? 学院長に言うべきよ」
プラティーヌは鈴を転がすように笑っていた。
特にレトン監督生を案じているわけでもなく、別にフォシルを不快に感じたわけでもない。天気の雑談と同程度だ。
「面を上げて」
許しを得てようやくレトン監督生は、顔を上げ、立つことを許される。
「姫とあなたは同じ監督生よ。そう畏まらないで」
そんな言葉を真に受ける程、レトン監督生は幼くなかった。
プラティーヌは視線を西空へと投げる。夕焼けにはいつの間にか、黒い雲が沸き上がっていた。眼窩を焦がすほどに目映い西日と、立体感を喪った暗雲。美しいのに不吉だ。
「あの夕焼けが欲しいの」
幼女のように稚い口調と、暗雲より昏い瞳が、レトン監督生に向けられた。
一歩、プラティーヌが近づく。
レトン監督生は下がりたい衝動を押し殺して、背筋を伸ばした。
「ひみつのお願いがあるの」
「なんなりと」
プラティーヌからの秘密の願い。
あまりいい予感はないが、それでも頷くしかない。
「ご実家は護符を取り扱っているのしょう。姫にひとつ、宝石を届けさせてほしいの。みんなに内緒で」
「内密に? 構いませんが、なぜ?」
「実験をしたいのだけど、姫がいくら天才でも失敗するかもしれないでしょう。万が一失敗してたら知られたくないの。だからお願い」
無邪気に微笑むプラティーヌ。
プラティーヌはほとんど授業に出席していない。
実技の授業にお手本として出席する程度で、淑女寮にいるのは図書館を使うためだ。
プラティーヌをよく知らぬものは、魔術学院の箔付のため王族を在籍させているだけだと勘違いしていた。だがプラティーヌを多少なりと知っているものは、彼女のレベルが高すぎて通常の授業では意味がないと理解している。
レトン監督生も理解している側だった。
「どのような宝石ですか?」
「八面黒結晶インクルージョンの赤色スピネル」
レトン監督生は息を飲んだ。
インクルージョンを宿す宝石は、最上級レベルの魔術に使う。
たとえば水属性魔術【海嘯】は、ベール状液体インクルージョンのサファイア。
風属性魔術【風籠】は透閃石インクルージョンのエメラルド。
光属性魔術【聖盾】は、柘榴石インクルージョンのカナリアダイヤモンドでしか生み出せない。
博覧強記のレトン監督生だが『八面黒結晶インクルージョンの赤色スピネル』を素材とする魔術は知らない。
実験ということは、新しい魔術を創造するのだ。
レトン監督生は素直に信じた。むしろ疑う要素はどこにもない。
「姫のお願いだもの。必ず最高の透明度と大きさを選び抜いてくれるでしょう。でも色はこれがいいの。この夕日、あなたと姫が今ここにいて眺めている夕焼けの色のスピネルをちょうだい」
「畏まりました、殿下。内々にお届け致します」
「感謝するわ。支払いは心配しないでちょうだいね。母の遺産なら動かせるから、世俗の問題に関してはそちらにお任せするわ」
金の糸目はつけないと断言した。
昏い夕焼けの中、プラティーヌは優雅に立ち去る。
微かに漂うのは、菫の残り香。
実家に連絡をしなければいけない。
レトン監督生の脳裏に、書簡室の鉱石電話がよぎった。電話局が閉まる時間は20時だ。まだ実家の秘書室に通じる。
だが王族に内緒で、と命じられたのだ。
電話は機密が守れない。
レトン監督生の実家は有り余る財力で、共同回線でなく専用回線を引いているが、それでも取次ぎする電話交換手には聞こえてしまう。
厩舎長に早馬を頼めば、速達が届けられる。だが使用人の間で、どんな急ぎの連絡があったのだろうかと噂になる。
夜明けとともに【飛翔】して、実家に顔を出すのが確実だ。
監督生特権として、外出許可は必要ない。マイユショー監督生に一言伝えておけば、不意の事態でも備えられるはずだ。
王都まで【飛翔】、そこから早朝の馬車屋で実家に行く。速度と機密を護るには、この手段が最適か。
睡眠時間がまた減る。
レトン監督生はため息をひとつ落とし、自室へと足を運んだ。




