序の裏側 公爵と老伯爵の密談
宮廷に寝起きするのは、王だけではない。
ディアスポール公爵は公爵領に城を持っていたが、王族として王宮にも部屋を持っていた。寝室と居間、応接間と執務室、それと専属の小姓や従僕たちのための小部屋だ。
絢爛な絵画に取り囲まれた執務室では、ディアスポール公爵は会議の草稿を綴っていた。
月が差し込む時間になって、ようやくペンを置く。
息継ぎをするように壁を見上げた。視線の先にあるものは、美しい肖像画。白銀の髪を結い上げた美女が、当代随一の画家によって描かれている。
描かれているのは、公爵の一人娘プラティーヌではなく、亡き妻ティターヌであった。
「公爵殿下、カルケール伯爵閣下がいらっしゃいました」
まるで休憩を見計らったように、小姓の声が響いた。
幼い小姓だ。蜂蜜色の膚が、蝋燭の明かりに照らされて艶めいている。
公爵はインクで汚れた指先を、花の香水で拭いた。ことさら低い声で、カルケール伯爵を通すよう命じる。
カルケール伯爵。
首席国務卿およびリコルヌ領主カルケール伯爵は、灰色の髭の豊かなことから、灰髭伯とあだ名されていた。
議会にいる貴族の誰よりも年老いていたが、誰より鋭いまなざしを持っている。剃刀色の目だ。柔らかそうに蓄えられた髭が好々爺めいているせいで、鋭利な目つきは緩和されている。
招いた公爵はまずソファを勧め、次にワインなり蒸留酒なりを勧めたが、伯爵は礼儀に反せぬ物言いで酒を断った。
公爵は小姓が退出するよう、目配せだけで命じる。
一礼して下がる蜂蜜色の膚の小姓。
「初めて見た小姓ですな。どちらの家からの推挙ですかな?」
老伯爵は淡々と問う。
小姓とは基本的に、宮廷に礼儀作法を学びにきた貴族の子弟だ。伝言や案内をしていくうちに、暗黙の了解や不文律を覚えていく。文字にできない宮廷作法を身に着けるのが、小姓が学ぶべきことである。
ゆえに小姓は将来、参内する貴族階級の少年だ。異郷の肌の色は珍しい。
「モリオンですか。彼はどこそこの家の妾腹だと……あまり詳しくは」
「ああ、名を出せないなら構いません」
老伯爵は手で制したが、公爵は微かに首を傾げる。
あの蜂蜜色の膚の小姓は、いったい誰から推挙されて使っているのだろう。
だが疑問が湧いたのは、一瞬。すぐに話さなければいけない相談事が、喉まで競り上がって、疑問を霧散させた。
「伯爵。お招きしたのは身内ごとの相談ですが、国家にも関わることです」
ディアスポールは王族であり公爵であるが、身分が下である老伯爵に対して最大の礼儀を払っていた。
昔から国難の際にはカルケール伯爵が、なんとかしてくれたのだ。
戦争の財政難も、帝国との外交問題も、カルケール伯爵が収束させた。
「プラティーヌ殿下の婚姻のことですかな?」
率直に呟く。
あまりの率直さに、公爵は一瞬だけ虚を突かれた。だがすぐに威厳を取り戻し、姿勢を正す。
「ご慧眼ですな。国王の従妹姫としては、不足ない申し込みばかりです。議会から化粧料も確保されている。いつでも選べるでしょう」
王位継承権を持つ娘は、慣例的に国外に嫁ぐか修道院の二択だ。
結婚というかたちで、友好国の王室にも自国の王位継承権を持たせ、戦争を回避しているのだ。エクラン国王ピエール19世も、バギエ公国継承権30位であり、コーフロ連邦王国継承権56位、ヴィネグレット侯国継承権119位であった。
西大陸の王室は、緻密に張り巡らされた継承権を綱引きしている状態だ。
この複雑な事情に絡めとられていないのは、北方沿岸諸国のカルトン共和国くらいだ。
「問題があるのはあの子です。問題と言っては語弊がありますが……」
公爵の言葉の終わりは、ため息が入り交ざって掻き消える。
さして短くない沈黙があった。
「先日、プラティーヌの執筆した論文を、身分を伏せて宮廷魔術師長ジプスどのに読んで頂きました。すぐに宮廷魔術師として引き抜くよう勧められましたよ。国外に嫁ぐかもれしないと伝えたら、断固として反対されました。これほどの才媛を国外流出させるのは、反逆罪に値すると。説得の手紙が、今日で五通目になります」
「宮廷魔術師長という地位が、それほど暇とはついぞ存じ上げませんでしたな」
豊かな髭を撫でながら嘯く。
カルケール伯爵は年寄りの経験から、すでにこの話題の着地点を見切っていた。
公爵は才能ある一人娘を、国外に嫁がせたくはないのだ。
一粒種を遠くへと嫁がせたくないという感情に、才媛であるという理論武装をしてしまった。
「王族の娘は嫁げなければ修道院へ。公爵、ここには儂ではなく修道院長を招くべきだった」
「いえ、これは伯爵にご相談すべき件です」
ディアスポール公爵は、娘のプラティーヌの嫁ぎ先に国内の貴族を望んでいる。
王族の娘が降嫁するに相応しい身分と家柄。政略結婚の相手を粗略にすることなき誠実さが期待でき、身持ちが硬く、かつ将来性のある男。
老伯爵の知る限り、自分の孫のサフィールが該当した。
「プラティーヌに降嫁の件をそれとなく話したところ、サフィール次期伯爵を挙げました。変わり者の……いいえ、失礼、令嬢としては少しばかり個性的なエグマリヌ伯爵令嬢があれほど慕っているのだから、自分が姫君らしくなく魔術を研究しても受け入れてくれるだろうと」
「お断りさせて頂く。降嫁にも反対致します」
「伯爵、あの子の才能は本物だ」
熱のこもった主張に対して、老伯爵は冷え切っている。
礼儀という薄皮に包まれた冷淡さだった。
「同盟国にくれてやりなさい。プラティーヌ殿下を国内に留める決断は、早計を通り越して危険すぎる。かの女帝の不興を買うのがお分かりでしょうに」
大帝国アルムワール。
西大陸の三分一を支配する大国であり、最先端の魔導国家である。
帝国の正統な継承者は皇帝だが、実質的には皇后がすべてを握っていた。ゆえに事情を知るものたちは畏怖と敬意、そして僅かばかりの揶揄を込めて、皇后を女帝と呼んでいる。
女帝は多忙極まる政務の中、二十人の子を産み、娘はすべて他国の王家に嫁がせている。彼女は遠からず、西大陸すべての王家の祖母になるだろう。
末の皇女がエクラン王国に嫁ぐのに、他に王位継承者を産める女がいるのは、女帝も面白くない。
偉大な女帝に忖度せねばいけない。それは公爵も重々理解しているはずなのに。
なぜ、プラティーヌを手元に置きたがる?
「お輿入れの婚礼道具として、どれほどの品が届けられたか、公爵殿下もご存じでしょう」
婚礼道具。
ここで会話を交わしているのが貴族夫人や令嬢ならば、花嫁のドレスやリネンや調度のことを指している。
銀糸だけで織りなされた正式な宮廷ドレスから、花柄の散策用ドレス、夏のための白木綿のモスリンドレス。それらは袖を通す間もないほど用意されている。リネン類もひと財産あり、百組のスリッパ、何百枚というバティストハンカチーフや亜麻製ハンカチーフ、何千枚ものレース付きシュミーズとネグリジェ。ひたすら帝国の威光を示すため、質量ともに圧巻の品が届けられた。
だが老伯爵が述べたのは、それらの事ではない。
婚礼警備という名目での軍事支援だ。
「皇女に重大な瑕疵があるなら女帝も黙りましょうが、評判を耳にする限り、非の打ち所がないでしょうな。弱腰と思われようが、あの女帝の不興を買うことだけは控えたい」
老伯爵はきっぱり告げる。
それでこの話は終わりになる、はずだった。




