二章の終わりと三章の始まり
あるいは闇の魔術師の逃亡と、夢魔の少女の追跡
雪が踏まれる硬い音が、わたしに覚醒を促した。
重たい瞼を開けば、淡い紺色の空、朝焼け、そして水晶めいた照り返し。
わたしのすぐ隣には、クワルツさんがいつの間にか立っている。腕組みをして、嘆息した。
「あの教師、独りで発ったのか」
「………はい」
微かに声を出す。
瞼を開くことが、唇を開くことが、これほど重いことだっただろうか。指ひとつ動かすのも億劫だった。
「ミヌレくん。吾輩が追跡しようか? それとも傍にいた方がいいか?」
任せるか。諦めるか。
なんだ、その選択肢。そんな惰弱な選択肢など、わたしの方から願い下げだ!
「いいえ、わたしが追います!」
「了解」
クワルツさんは言うが否や、漆黒の狼へと転じて駆けていった。
わたしも立ち上がらなくちゃいけない。
愛は金銭じゃない。己が差し出したものに結果が釣り合わないからと、嘆いたりしているわけにはいかない。
追いかけて、追いついて、先生に何を言えばいいんだろ。
言うべき言葉どころか、伝えたい感情さえ定まらない。
だけど追いかけなければ、先生を見失ってしまう。それは駄目だ。
雪で冷えた手で、涙をぬぐう。やけに熱い涙だった。
【飛翔】の呪符は手元にない。
わたしを追わせないために、先生が持っていってしまったんだろう。でも心臓の鼓動までは奪えない。
わたしは折れた角もつ一角獣へと姿を変え、駆ける。
一角獣は地上最速だ。
追いつけないわけがない!
ひたすら四つ足を走らせて、雪に残った足跡を追う。
足跡と杖の跡。
だけど、跡は途切れていた。
ぷっつりと。
先生は何の呪符も持っていないし、周囲は開けている。飛び移れそうな岩場も灌木もない。
「……止め足だ。やられたな」
クワルツさんは牙の隙間から、苦渋を吐く。
「止め足?」
「野生動物が自分の足跡を踏んで下がり、足跡のつかない岩場や茂みに着地することだ。向こうも吾輩の嗅覚と、ミヌレくんの俊足を知ってる。普通に逃げるはずもない」
途切れた足跡の先には、血染めのクラバットが石に挟まれて棚引いている。
これがクワルツさんの嗅覚を誤魔化したのか。
わたしたちは辿ってきた足跡を逆戻りする。
どこでジャンプした?
「ミヌレくん、あの針葉樹だけ雪が少ない。しがみついて中継地にしたかもしれん。追跡時間差を考えれば、罠を張っている余裕はないはずだ。進むぞ」
クワルツさんに従って走れば、針葉樹には地面に雪が落ちていた。
「あの男の匂いが残っている」
針葉樹の林を抜ける。
開けた大地に、朝日が満ちていた。
白亜の世界だ。雪じゃない白さ。これは石灰だ。石灰が階段状になっている。
突然、間欠泉が噴き上がる。
温泉特有の匂いが満ち、湯と一緒に吹き出す石灰によって地面が白く固められている。間欠泉が吹くたびに石灰の雫が飛び、ゆるやかに姿を変える石灰の階段。
こんな場所じゃ、匂いも足跡も残らない。
地理を知り尽くしている先生は、痕跡を残さず消えてしまった。
オプシディエンヌと一緒に死にたい、それが先生の願い。
なら、わたしは見送ればいい。
完全な自由を捧げるという目的を達した。先生がわたしの期待から外れた生き方を望んでも、わたしの想像力の無さを悔むだけで、先生を恨むのは筋違いだろう。
自由を捧げたなら、その次に成すべきは手放すことだ。
でも! わたしは! 生きていてほしかった!
持てる魔力のすべてで世界を鎮護するから、先生はそこで自由に生きてほしかった。どこかで生きていてほしい、それさえ叶わないのか。叶わないどころか、望むことさえエゴか。
――いっそ今生の記憶を灌ぎ――
――愛してくれる女の胎より産まれいでしことほかに――
――救いありしや?――
ラーヴさまのお声が、鼓膜の底でリフレインする。
苦しむくらいなら、ラーヴさまのおっしゃる通り、わたしの胎に眠らせておけばよかったのか。
ああ、先生の自由を望んでおいて、期待外れの道を進まれたら悲しむのか。
涙があふれてくる。
とめどなく零れて流れて、止まらない。
「……ぅ、うう」
「ミヌレくん……」
「クソがァアアアアッ!」
わたしの罵声が、黎明に響いた。
届くはずないのに、喉を裂いて叫ぶ。
そもそも誰を罵倒したいのか。
オニクス先生なのか。
魔女オプシディエンヌなのか。
それともこの結末を知っていながら、胸の鼓動を捧げた未来のわたしなのか。
「ふざけるな! 何が「彼女を殺して私も死ぬ」だ! わたしを甘やかせる甲斐性はあるんじゃなかったのかよ!」
どれだけ叫んでも、石灰を欠けさせるほども響かない。
虚しい、虚しい、なんて虚しい!
虚しさにまた怒りが湧く。
「なら! わたしが見届けてやる! わたしの目の前で死ね!」
そんなに死にたいなら、惨たらしく死ねばいい。
だがわたしはオニクス先生を追うぞ。何が何でも追いついてやる。
先生の死を、見届けるために。
次回更新は8月31日(月曜日)です




