幕間 サフィール
伯爵家子息サフィールは子供の頃、祖父の小姓として参内していた。
父が戦死したため、跡取りである彼が年若く参内しなければならなかった。宮廷に出入りすることは栄誉だが、人の期待に応えようとする性分のサフィールにとっては緊張のし通しだった。
祖父のちょっとした言いつけをこなし、宮廷礼拝堂で授業を受け、騎士団で剣術を学ぶ。
多忙だったが、持ち前の責任感と有能さで、サフィールは宮廷暮らしをこなしていった。
当時のピエール18世の宮中では、公妾オプシディエンヌと軍人オニクスの醜聞が膾炙されていた。国王の寵愛を受けている成り上がりふたりを、宮廷にいる大臣から奉公人まですべて嫌っていた。
おおむね妬みであり、嫌悪ではなかったが、とにかく上っ面は礼儀正しく振舞いながらも嫌っていたのだ。
宮廷人たちは父を亡くしたばかりのサフィールに対して思いやりがあったのか、あるいは祖父であるカルケール伯爵の勘気を恐れたのか、幼かった彼の耳を猥雑な噂で穢すことはなかった。
オニクスは大厩舎で時折見かけるたたき上げの軍人。
オプシディエンヌは舞踏会や観劇会でよく見かける公妾。
無垢な少年にとっては、ふたりはそれだけの存在だった。
サフィールがふたりのことを知ってしまったのは、薔薇園に迷い込んだとき。
根が生真面目なサフィールは他の小姓たちと違って、いたずらは好まなかった。宮廷の屋根に登ったりワインを隠したりといった稚気に付き合える性格ではない。
祖父の会議などで時間を持て余すと、静かなところに避難するのが習いだった。
彼は書見と植物が好きだった。
静寂と緑を求めて散策しているうち、王宮庭園の奥深く、ご禁制の薔薇園に入り込んでしまった。
繚乱に狂い咲く薔薇たち。
噎せ返るほどの香気の底、公妾と軍人が戯れていた。
乱れた黒髪、絡み合う四肢、露わになった乳房と太もも、蜜めいた嬌声、場所も立場も弁えぬ淫奔さ。同じ空気を吸うことさえ吐き気がした。
オプシディエンヌと目があった。
黒と白の瞳。
彼女は恥じ入るだろうと、サフィールは思った。公妾として身をわきまえない態度か、あるいは女性としての単純な羞恥か。だが予想に反して、オプシディエンヌは無邪気に微笑む。
子供であるサフィールに対して、女の顔を見せた。
「あなたも混ざる?」
嫌な記憶だ。
思い出すたびに、生理的な嫌悪が喉に競り上がってくる。
冬は薔薇を見かけることはあまり無い。この時期に思い出すことは少なかったが、つい最近、元凶のひとりと顔を合わせるどころか会話してしまったので、古い記憶が刺激されてしまった。
『隻眼のオニクス』
有能であること疑いようもないが、その名を口にするたびに唾液すべてを吐きたくなるほど嫌悪が走る。
サフィールは呼吸を整え、精神を統一して、不快な記憶を意識から押し出す。
過去に煩わされるのは、騎士として不甲斐ない。
剣を友として生きると決めたならば、つねに心を強く持ち、現在を見つめなくては。
サフィールは気を紛らわせようと、愛馬がいる王宮大厩舎へ向かう。
ちょうど小姓が駆けてくる。自分が参内したのと同じくらいの年頃の少年だった。異国的で整った顔立ちをしている。流浪の民の血を引いているのだろう。
ただ膚は、蜂蜜色というより、赤蜂蜜色だった。
こんなに赤みが濃い蜂蜜色は珍しい。
「騎士サフィールさま、騎士団長閣下がお呼びです」
「そうか。ありがとう。きみは初めて見る顔だね」
騎士団や王宮大厩舎でも見たことがない。
サフィールは人の顔は覚えられる方であったし、異郷の膚の少年なら間違いなく記憶できる。
「今年から参内のお許しを頂き、ディアスポール公爵殿下にお仕えしております。モリオンとお呼び下さい」
きびきびと答える小姓。
礼儀正しさを保ち、媚びることは無い。好感が持てる。
「ディアスポール公爵閣下からの手紙を、騎士団長にお渡し致しました。小姓が出払っておりましたので、サフィールさまを呼ぶように仰せつかりました」
公爵の用件に、己が必要ということだろう。
国王結婚式の警備に関してか、大厩舎の予算の話か、はたまた怪盗クワルツ・ド・ロッシュの盗品が回収された件か。ひょっとすると妹エグマリヌの縁談話という可能性も無きにしも非ずである。
とりとめもなく予想しながら、サフィールは騎士団長執務室へと足を運んだ。
サフィールの予想はすべて外れた。
彼は週末の国王昼餐に招かれたのだ。
国王昼餐の儀。
国王とともに昼餉の席についたものは、仇やおろそかには出来ないと、貴族たちに知らしめるための儀式であった。
ゆえに招かれるのは、新しく着任した外交官や司教。
火災を未然に防いだ消防官や、国王の肖像画を描き終えた画家など、功績があったもの。
あるいは国策として力を入れている分野の人間。戦争中なら騎士や戦争史の研究家を招き、文化を興したければ宮廷音楽家や詩人。魔術の権威を高めたければ宮廷魔術師を呼ぶ。
国王自身が個人的な興味で、学者や俳優を招くこともある。
招かれるのは、もちろんそれぞれの分野の権威だ。
騎士として国王の陪食を許されるには、サフィールはあまりにも若かった。
昼餐の間はどこまでも広く、テーブルは小さい。
部屋とテーブルの大きさに落差があるのは、王族の昼の食事は、貴族たちに見物されるのが何百年もの習わしだからだ。
本日、テーブルについているのは国王陛下と、その叔父ディアスポール公爵。そしてそのご息女プラティーヌ姫。
そして陪食の誉れにあずかる貴族たちがいた。
末席側についているのは、若い貴族ばかりだった。騎士であるサフィール、その他には新進気鋭の声楽家、国王蒐集室の文官、遊興庁の書記官、宮廷噴水顧問の助手。サフィールが知らない顔は、最近、入廷したばかりなのだろう。
役職はさまざまだが、おおむね二十歳前後。そして何より見目麗しい。
サフィールは席に着く人選に、違和を感じていた。
今、招かれている貴族の共通点が分からない。
共通点があるとするなら、華やかな容貌の若者というだけだ。ただ若い貴族を盛り立てたかっただけにしては、もっと他に活躍している同世代がいる上に、容姿が限定的過ぎる。
サフィールは食事しながら、彼らを招いた国王の真意を量っていた。
国王はひとりひとりの名を呼び、仕事ぶりを嘉している。
晩餐もメインが終わり、デザートに差し掛かる頃、侍従がやってくる。
銀色の盆に封筒が乗っていた。
「帝国皇女エメロッド殿下より、国王陛下へ書簡が届いております」
エメロッド。それは春に嫁いでくる未来の王妃の名だ。
「では女官長」
陛下の命令で、女官長である侯爵夫人が典雅な所作で前に出る。
そして手紙を読み上げた。
王族に私信はない。
夫婦の親密な手紙も、親子の親愛な手紙も、貴族たちの前で読み上げられ、つまびらかにされるもの。王は貴族の見世物だ。
「親愛なるピエールさまへ。もうすぐお会いできると伺って、あたしは幸せな気持ちでいっぱいです。肖像画とお手紙で会ってるので、初めてなのに初めてお会いする気がしません。
兄皇子たちは意地悪く、あたしの肖像画は美化され過ぎたと言ってます。可愛く描けているのはほんとだけど、機嫌のいい日のあたしはあんな感じです。あなたに恋をしてもらえるかしら?」
赤裸々な書簡に、貴族たちは眉を潜める。
恋。
跡取りを得ていない貴族や王族は、それを望んではならない。
恋とは跡取りを得てから許されるものだ。うら若い身で恋を望むのは、ふしだら過ぎる。新たに迎え入れる王妃が労働階級の娘のように恋に焦がれている文章に、貴族らは帝国の倫理観を疑っていた。
エクラン王国の貴族が持つ倫理観と、帝国の倫理観は違う。
跡取りさえできればあとは恋も仕事も自由に振舞える王国と、一度結婚してしまえば家庭に縛られる帝国。あるいは夫婦や家庭の愛が希薄な王国と、両親が子供に愛を注ぐことがなにより重んじられる帝国。
どちらもメリットとデメリットがある。
自分にとって都合のいい風習を、倫理という単語を使っているだけ。
それだけの話だ。
「恋が欲しいなんていい迷惑よね」
口を開いたのはプラティーヌ姫だった。
宮廷史でもっとも美しく優雅な姫君。
「陛下に恋が出来るなら、他の若者とも出来るわ」
愛くるしい仕草で、従兄である国王へと視線を動かす。
「陛下。恋を望む皇女殿下が愛人を作らないように、春から綺麗な若者たちを宮廷から遠ざけておくんでしょう。冷遇しているわけじゃない。ってはっきりおっしゃればいいのに」
率直すぎる発言だった。
無邪気という皮を被って、愛嬌という脂粉をはたいているが、不躾さが隠しきれていなかった。
陪食の人選の意図を察していた貴族も、察してなかった貴族も、プラティーヌ姫の発言に動揺する。
サフィールは察していなかった。
これは彼が愚鈍というわけでも無垢というわけでもない。ただ彼の思考のなかで、淫蕩と賭博だけは排除されているからだ。彼にとって、恋は淫蕩だ。淫らがましいものだ。
サフィールとて伯爵家の跡取りとして結婚は意識にあるが、恋がひとかけらもなく、愛だけが満ちている結婚を望んでいた。
「しばらく宮廷行事から遠ざけられるのに、はっきり告げないのはお可哀想よ。皇女殿下のせいでいい迷惑よね」
「プラティーヌ」
ディアスポール公爵が窘める。
あくまでも静かに、威厳と慈悲を持って。
「だって姫はちっとも分からないわ。公妾がいる王なら嫁がせないと、皇后陛下から通達されたんでしょう。かと思えば、跡取りを産む前なのに恋をしたがる。矛盾してるわ。ふしぎよ。潔癖なのか浮ついているのか、どっち?」
稚い口調で、首を傾げる。
国王ピエール19世は、慣例たる公妾を持っていなかった。
愛人を持たぬこと、それが大帝国から突き付けられた皇女との婚姻条件だったからだ。
伝統と格式を誇るエクラン王国が慣習をやめねばならぬほど、帝国との国力差があるのだ。
公妾がいない宮廷は華やぎに欠くとぼやく古参もいるが、サフィールとしては居なければいない方が気楽だった。
「ひょっとして皇女殿下ったら、国王陛下のことを伴侶じゃなくて愛人だと思ってるのかしら。だったら愛人を持つなとか、恋がしたいとか、意味不明な発言にも筋が通るわ」
「やめなさい、プラティーヌ」
今度の窘め方には、多少の感情が籠っていた。
「はぁい」
子供っぽく返事をするプラティーヌ。
だがこのプラティーヌの意見こそ、貴族たちの不満を言語化していた。
エクラン王国の貴族の感覚からすれば、「愛人を持つな」「恋がしたい」という要求は、国王を愛人扱いしてるも同然だった。国力差にあぐらをかいた無礼な要求としか感じられない。
サフィールはプラティーヌの発言内容より、表情の方が気がかりだった。
悪びれもせず微笑んでいるその横顔は、公妾オプシディエンヌを連想させるのだ。見目かたちも口調もまったく似てないのに、その無邪気を装った悪徳の表情は、酷似していた。
王族に対して不敬な印象だと、サフィールは連想を振り払う。
慇懃に運ばれてきたデザートは、奇しくも薔薇のミルフィーユ。
オプシディエンヌが殊の外、愛していた花だ。
手をつける気分ではない。
ティーカップだけを口につけ、目の前から薔薇の香りを下げさせた。
「姫はね、最近は午後からオランジェリーで散歩するのよ。邪推で追いやられる可哀想な方たちに、オランジェリーを案内して差し上げていいかしら?」
提案の形を取っているが、これは命令だ。
王族が発した言葉は、絶対なのだ。法律がどうであれ、宮廷では王権が尊ばれていた。
プラティーヌ姫は食後の散策に、見目麗しい貴族たちを引き連れて歩く。もちろん侍女官の子爵夫人と男爵未亡人も控えめながら付き従っていた。
王宮のオランジェリーは面積も植物の質量も、国内随一だった。
植物狂だったジョワイオー3世が、南方からありとあらゆる稀有な植物を集めさせて完成させたオランジェリーだ。柑橘の間、イチジクの間、蘭の間などが並ぶ。
見慣れない植物の鮮やかさは、極楽めいている。
だが、ひどく暑苦しい。
平均的なオランジェリーよりも気温が高く、冬の礼服を纏っている貴族たちは平然としているのが難しかった。王族の前で礼を逸してはならないという貴族的な矜持だけで、背筋を正して歩調を乱さない。
プラティーヌ姫も冬のドレスだが、涼しい顔で歩いていた。
レースの扇を半開きで持っているだけで、扇ぐどころか汗の一粒も掻いていない。
「こちらが蘭の間よ。姫はね、蘭なら特に胡蝶蘭が好きよ」
胡蝶蘭の合間を、踊るように歩くプラティーヌ姫。白銀の髪を持つ彼女こそ、胡蝶蘭のようだった。
高温多湿で育つ蘭にとってこの空間は心地よいが、冷涼乾燥なエクラン王国の貴族にとっては、地獄だった。
椰子の間に辿り着く。
ナツメ椰子や棕櫚が並び立ち、羊歯が植えられ、緑が豊かに茂る空間だ。滝を模した大噴水が聳えている。そのおかげで室温こそ変わらないが、涼しい風も吹いていた。水飛沫が届く場所には、籐椅子がいくつも置かれている。
愛らしい小間使いたちが氷菓を用意していた。差し込む日光と滝の輝きを浴び、花色にきらきら輝くソルベ。グラスの上に咲く大輪だ。
「どうぞお座りになって、召し上がって」
プラティーヌ姫の許しに、若い貴族たちはソルベを喉に入れる。
ジャスミンと薔薇、ふたつのソルベの香りは高くほのかに甘酸っぱく、クラバットで締め付けられた若者の喉を癒した。だが癒しきるには、ささやかな量である。一度、冷たい水気を味わってしまえば、自制が外れるのは已む無いことだ。
若い貴族たちはグラスに口を付けて、音を立て、ほとんど水になったソルベを啜った。
行儀の悪い行為だった。
サフィールだけはスプーンだけで、ソルベを食べ終わる。最初から最後まで、宮廷式の優雅さを崩さなかった。
彼はオランジェリーの暑さに慣れており、騎士として鍛錬を欠かしていないため、肉体的な自制は強い。
だが自制できた人間がひとりいた故に、出来なかった貴族はひどく恥をかいてしまった。
「サフィールさま。学院で妹さんと言葉を交わしたけど、素晴らしいご令嬢ね」
真っ先に声をかけられた。
他に身分や年齢の高い貴族がいるにも関わらず、サフィールにお声がかかった。驚きがなかったわけではないが、場に相応しくない感情を表に出すほど不慣れでは無かった。
「妹を嘉して頂き光栄に存じます」
「風変わりなご趣味だけど、斜に構えていないわ。とても素直で可愛らしい。愛されて育ってきたんでしょうね」
「本人の資質でしょう。あれは生まれて間もなく二親を無くしましたが、嫉むことなく育ってくれました」
「サフィールさまが親代わりに腐心したと伺っておりますわ。ご立派だわ」
「母が信頼できる使用人を残してくれたお陰です」
謙遜ではなく本音だった。
祖父である伯爵は公務に忙殺されて、孫たちに目が行き届かない。
そんな家庭で、忠義と愛情を併せ持つ使用人たちに恵まれたのは、どんな遺産よりありがたかった。
「でも肉親からの情は格別でしょう。女官たちもあなたは良い父親になりそうだと噂しているわ」
「妹と我が子ではまた勝手が違うと存じます」
「そうかしら?」
レースの扇で口許を隠して、鈴を転がすように笑う。
「小間使いも女官たちも、サフィールさまの好みの女性を知りたがっているの。姫に教えて頂けないかしら?」
サフィールは微笑みながらも弱っていた。
友人の好みだの師匠の好みだのは問われないのに、何故、異性は好みという言い方をするのだろう。そこは疑問だった。妹のエグマリヌは色恋沙汰を理解できないが、サフィールも同じかそれ以上に理解できないのだ。
結婚相手として考えるなら、妹のエグマリヌを大事にしてくれる女性が望ましい。
妹は男装を好む変わり者だ。そこを理解し尊重してくれる相手でなければ、絶対に結婚したくない。そして妹も尊敬できる相手だ。サフィールとしては正直なところ、妹に結婚相手を選んでほしいくらいだった。
だがそれを口にするのは、弱みを曝け出すのと同じだ。
誰が敵になるか分からない宮中で、弱点を吐き出すことはできなかった。
特にこのプラティーヌ殿下の前では。
何故か本能的に、この姫君には身構えてしまう。
「心身ともに健康なら、あとはえり好み致しません」
宮廷に伺候する騎士として、ウィットに富んだ受け答えを望まれているのは承知しているが、理解できないものを上っ面で受け答えできるほど面の皮は厚くなかった。
「心が健康な人間なんて、存在するのかしらね」
プラティーヌ姫は滝を眺めて呟いた。
一拍ほどの会話の空白。
空白には、大噴水の轟きが満ちる。
涼やかな音だったが、サフィールにとって心地よくは無かった。
それからプラティーヌ姫は他の貴族にも声をかけたが、儀礼的な内容を一言二言だけだった。




