第二十話 裏切られた幸福
わたしの重い瞼が上がる。
クワルツさんに背後から気絶させられて、それから、どうなった……?
『夢魔の女王』は眼窩と腹から血とハラワタを流し、よろめき倒れている。
千載一遇の好機だ。
何がどうなったとか、そんな雑念が思考に追いつく前にわたしの身体は動く。
蹄で床を駆けて。
角で彼女を貫く。
「……ぁ、あ」
吐息めいた断末魔だった。
やった!
これで心臓はわたしのものだ。
喜んでしまった刹那、銀の錫杖が軽やかに回り、わたしの額を殴打した。
「がはっ……」
額の角が折られる。
激痛がわたしの意識を引き裂いた。一角獣の角にどれほど神経が集まっていたのだろう。痛覚遮断ができないくらい、視界が動顛する。
痛い、痛い。
激しい痛みがわたしの脳を支配して、膝をついてしまいそうだ。
だめだ。
わたしの脳は、わたしの思考が支配してなきゃだめだ。
激痛から支配権を奪い返せ!
先に倒れたのは、女王だった。
錫杖が音を響かせて転がり、サークレットに戻る。支えを失った白い肢体は床に伏し、血に縁どられていく。僅かに残っていた胡蝶たちは散るように落ちて、血だまりに溺れていった。
引き裂かれた胸の中には、一角獣の角の破片。
わたしは人のかたちに戻る。
額の角が折れた激痛は分散した。これなら耐えられない程度じゃない。
真っ赤な血肉に手を突っ込んで『夢魔の女王の心臓』を取り出すと、血を弾いて真珠光沢に艶めいた。
窮極の間に沈黙が横たわる。
沈黙を破ったのは、クワルツさんの吐息だった。言葉を吐くための吐息。
何を言われるのだろうか?
「……よかったのか?」
「わたしがわたしなら、この角を失っても生きられるように考えます。諦めを受け入れたら、それはわたしじゃありません。諦めたわたしなんて、わたしは要らない!」
叫びが響く。
「彼女は「死ぬことは無い」と言っていた」
「それが真実なら嬉しいですね」
「真実よ」
女王が微かに身じろいで、唇を震わせていた。
生きている。
赤く染まったドレスのせいで、顔色がひどく白く見える。
「わたしはオニクスからもらったものを、手放したくなかっただけ。それだけよ」
本当だろうか?
疑ってしまうほど、彼女の顔色は色褪せている。
死なないなんて、わたしを安心させるための嘘かもしれない。
あるいは、心臓を失って永遠に伏すことになるかもしれない。
疑問ではなく不安が泡となって浮かび上がる。
鮮血に縁どられた女王は、わたしの胸中に答えはしない。ただ白く褪せた唇に、笑みのようなものを浮かべた。笑みではなかったかもしれない。わたしが笑みだと思いたかっただけで。
彼女の鉱石めいた髪が乱れて、かんばせが翳る。
「……ミヌレ。因果律の世界に還りなさい、けして振り向かないように」
わたしたちは真紅に染まった窮極の間を出る。
振り向きはしなかった。
彼女が死のうが生き延びようが、それは未来のはなし。
「ラーヴさま! どうか帰還をお助け下さい!」
わたしの裂帛に、魔法が呼応した。
存在と時空が圧縮されて、ラーヴさまの元へと還り果てる。
まだ夜明け前だ。
世界には夜のとばりが深く垂れていて、雪が音を吸い込む静寂と、針葉樹の香りに満ちている。
戻ってきた。
地球に戻ってこれたんだ。
『夢魔の女王』の心臓を持って帰ってこれたんだ。
深い深い闇の中、溶岩の眼球が揺らいでいた。
クワルツさんが負傷をおして、ラーヴさまから距離を取る。十分に離れてから、ラーヴさまは眼球を動かした。夜明けがまだ遠い紺青の世界に、灼熱じみた輝きが満ちる。
≪娘よ。己のさだめを知りながら、心臓を得てきたか≫
静かな口ぶりには、どこか哀れみが滲んでいた。
輪廻を見据え、因果を翔けるラーヴさま。
わたしが永久回廊の主、『夢魔の女王』になる未来もご存じだったのだろう。
≪それを魔術として使ってしまえば、もはやそれは彼女の心臓でなくなる。よいか≫
「後悔などありません」
≪では我が弟子を癒す方法を教えよう。だが魔術の巻き戻しが終われば、これきりだ。ワシは深き眠りにつく。この身が目覚めているだけで、大陸のあちこちが振動する。抑えきれん≫
「もちろんです」
≪植物の幽霊を持って還ってきておるな。その茎が媒介になる≫
枯れた薔薇に見えるけど、植物の星幽体結晶だ。
持って還ってきてなかったらどうするつもりなのか疑問だったけど、わたしが永久回廊で必要な素材を回収することくらい、時間を視るラーヴさまにとっては予定の範囲なんだよな。
≪娘よ。そなたの手を≫
促されて、両手を差し出す。
わたしの手のひらに暖かな光が灯り、溶岩色の雫が凝った。
暖かい。触れたいような、でも怖いような。なのにほっとするような。焚火を眺めている気分に近い。
≪これはワシの涙よ。そなたの息を吹きかければ、魔術インクになる≫
夢魔の女王の心臓。
古代竜の涙。
植物の幽霊。
≪造る魔術は時魔術【遡行】。少しばかり魔力を消費するが、そなたであれば平気であろう≫
ラーヴさま、脳漿や鼻血をぶちまけていないことを平気だと形容してたからな。
逆に不安になってきちゃったじゃねーか。
夜明け前の岩室。
オニクス先生はアルコーブベッドに横たわっている。
蠢く漆黒の斑紋たちは、もう先生の顔を覆いつくさんばかりだった。まるで蟲に食い荒らされているみたいだ。
今、自由にします。
無事に作り終えた呪符。
次はこれを使いこなせるかだ。
一度も目にしたことが無い魔術を使うのは、少し不安だった。だけどやるしかない。
「汝は不可侵にして不可避なるもの、汝は不可逆にして不可欠なるもの、汝は長さを計りて断ち切りし紡ぎ手」
わたしの詠唱で、呪符化した角が輝く。
溶岩色の輝きを纏った角は、まるで紡ぎ糸の紡錘だ。
魔術の巻き戻しが始まった。
【制約】は漆黒の斑紋となって、先生から剥がれていき、角に絡めとられていく。
「然れども汝の糸車は限りある」
体内で何か千切れる感覚がした。
鼻から血が垂れ、皮膚の下が黒ずんでくる。
魔力経絡の負荷が強すぎて、毛細血管が千切れているのか。
「糸車の音が聞こえぬ天涯で、汝に織られた布は糸となり、汝が紡いだ糸は繭となる」
肉体的だけじゃない、魔力的にヤバい。
海綿のような器官から水が絞り出されている感覚がした。
もしかしてこれは魔力の消耗か。
わたしの魔力は無限に近いけど、無限じゃなかった。人類が観測できない量なだけで、ラーヴさまよりは少ない。
消耗を感じるのは初めて。
ああ、おもしろい。
時間の巻き戻しは、わたしに限界を教えてくれる。
わたしは笑って、詠唱を続ける。
「繭は虫に! 虫は卵に! 卵は胎に還るだろう! 汝、いざ巻き戻れ 【遡行】!」
呪文の末尾が結ばれ、【遡行】が安定する。
オニクス先生の肉体と精神から【制約】だけが剥ぎ取られ、なにひとつあますところなく角の呪符に巻き取られた。
角の呪符は【制約】魔術を纏っている。
まるで闇を灯して影を落とすランプだ。直視していると現実感のない物体に、視界が朧になっていく。
鼻血は止まらないし、眩暈はするし、頭痛はひどいけど、頬が緩む。
これで先生は自由だ。
完全にして絶対な自由!
わたしは先生の望みを叶えられたんだ。
黒い隻眼が開いた。
ぼんやりと見開かれた隻眼は、自分の肉体を見る。
【制約】の紋様が入ってない皮膚。
先生は一瞬意識がはっきりしたのに、また呆然として、己の膚を撫でまわす。
「虚夢か?」
「現実ですよ」
わたしと視線が合った瞬間、隻眼がいつもの力強さを取り戻す。
「どうやった!」
「局地的に時間を巻き戻す符を作って、【制約】だけを巻き戻しました。時魔術【遡行】、偉大な古代竜さまからお教え頂いたんです」
「また無茶なことをしたのだろう……」
「はい!」
笑って返せば、先生はわたしを抱きしめた。
びっくりしたけど、これは触診だ。
耳の後ろから首筋を撫でおろし、腰からわきの下まで撫で上げる。経絡の流れを確認している。
魔力を確認し終えた手のひらは、次に皮膚を撫でまわした。これは怪我の確認。
先生の触診に身をゆだねて、目を伏せる。
不意に手が離れた。
「経絡の負荷が、血管まで侵食してる。しばらく魔術を使うんじゃない」
「ういうい」
「その他は……特に異常はないようだな」
「えへへ」
わたしに大した怪我はない。
だって傷ついたのは、今のわたしではないから。
鼓動を失って、床に伏し、血を流したのは、遥か未来のわたし。
「あの怪盗は?」
「クワルツさんなら水汲みと薪集めです。そろそろ戻ってくる頃だと思いますが……」
「……そうか」
先生に引き寄せられて、胸に頭を埋められた。
ぴゃう?
胸に押し当てられているのは耳だ。わたしの鼓動を聴診している。
診察しているのは分かるけど、こんな状態だと、鼓動が早くなっちゃうよ。
「感謝する」
先生がわたしに感謝してくれた。
嬉しさが血管に流れていく。鼓動するたびに喜びが爪先まで届き、わたしの身体を歓喜でいっぱいにする。
「私は成すべきことがある。きみは賢者に保護されるといい」
「先生のお手伝いはさせて頂けないんですか?」
「私ひとりでやり遂げねばならん」
起き上がって衣服を整えていく。
「いってらっしゃい。先生の帰りを待っていますね。先生の財産はきちんと管理しますから、ご安心を」
「待つんじゃない」
「ふへ?」
首を傾げる。
「何年もかかるんですか? 大丈夫ですよ、研究と冒険してればあっという間です」
先生と何年も会えない。
眼窩の奥がぎゅっと熱くなって、涙が出そうだった。でもそれが先生の意思なら見送らなくっちゃ。
……それにずっと一緒にいるより、わたしのビジュアルが大人になるまで離れていた方が、ナチュラルな恋愛関係に持ち込めるのでは?
『夢魔の女王』はスチルで見た時より、ずっと美人だったし。
「私は、死ぬつもりだ」
「やっぱり偽装死するんですね」
生きてることさえ誰にも言えないなんて、寂しすぎるな……
オニクス先生は微かに身じろいだ。
「私はいつも韜晦する男だ。きみが行間や裏の意味を探るのは当然かもしれんが、この言葉は額面通りに受け取るといい」
「………え」
額面通り?
つまり、先生が、死ぬ?
死。
あまりにも苦くて重い言葉。鉛のかたまりを呑み込むような感覚に、わたしの肉体が拒否を起こした。
呆然と立ち尽くしている間、先生は立ち上がって岩室を出ていく。
「待って、どうして! だって! 先生はわたしを支えてくれるって……運命の相手と巡り会ったとしても、それでも支えるっておっしゃったじゃないですか!」
「事情が変わった」
「どんな!」
口から爆ぜたのは、悲鳴だった。
叫びでも怒声でもない。こんな無様に泣き縋る声が自分のものだって信じられなかったけど、わたしの悲鳴だった。
「けして賢者たちの耳には入れないと誓ってくれるか?」
「……事と次第によっては守れません」
わたしはなるべく低く声を作る。唇を結んで、先生を見上げた。
結んでいなかったら、泣いてしまいそうだった。
先生は数拍ほど沈黙を経て、口を開く。呼吸して、言葉を紡ぐために。
「オプシディエンヌが生きている」
オプシディエンヌ。
先代国王の公妾にして、先生を愛人にしていた闇の魔術師。
「彼女が闇の教団の総帥だったのは、聞かされているか?」
「初耳ですよ」
「そうか。闇の教団は私と彼女が立ち上げたものだ」
じゃあ闇の教団が、ふたりの愛の巣かつ愛の結晶だったのか。
マジかよ、腹立つ。
「私は彼女を殺し、賢者連盟に下った」
淡々とした事実だけを話す。
動機も心情も排除した、箇条書き的な事実。
「だが生きていた。私はオプシディエンヌを今度こそ殺してくる。あの女は空気の代わりに邪悪を吸って吐く毒婦だ。あるいは空気を吸って吐く邪悪だ。才能のある若い男を篭絡し、そして破滅させることを何より好む。もう愚かな男は私で最後にしたい」
「教団の総帥が生きていたなら、どうして賢者連盟に訴えないんです? それこそ討伐レベルでしょう。副総帥だった先生がこき使われてるのに、総帥が野放しなんて道理に反します!」
「私自身でケリを付けたい」
「危険なんでしょう! 死を覚悟しているくらい! メンツにこだわっているんですか?」
「そうかもしれんな」
ふっ、と嗤う。
メンツが大事なんかじゃない。
「嘘つき」
わたしの呟きが、魂のある場所から発せられた。
意識より深いところから声が出る。
「嘘などついてない」
「うそ、だって……だったら、どうして………わたしの名前を呼ばないんですか、ただの一度も!」
隻眼に狼狽が走った。
わたしの名前を呼ばなかったのは、わざとじゃない。無意識だ。
「あの女の名は呼ぶのに! わたしの名前は呼ばない! 殺したいなんて、うそ! オプシディエンヌのところに帰りたいなら、最初からそう言えばいいじゃないですか!」
「嘘ではない!」
わたしの叫びより、さらに大きな声だった。
「私はオプシディエンヌを殺したい!」
「でもあの女が好きなんでしょう! わたしよりも!」
「きみよりもだと? そもそも私が愛しているのは、彼女だけだ! オプシディエンヌただひとりだ! ………だが愛と等しく憎んでいる」
殺意を吐露した瞬間、先生は膝から崩れ落ちた。わたしに跪くような姿勢になる。
「愛しているし、憎んでいる。だから、私は、オプシディエンヌと一緒に死にたい」
これは本心だ。
根拠もなく、伝わった。
立っているという状態を保てなくて、雪の上に座り込んだ。
体温が奪われてしまうけど、冷えた心には釣り合っていく。
「私はひどい男だ。きみに愛される資格はない」
「愛されるのに資格なんか要りません。だから、生きましょう……その毒婦を殺して、ふたりで生きましょう」
オニクス先生はかぶりを振る。
「彼女を殺したと思って今まで生きてきたが、一日だって忘れたことはない。愛しているんだ。私の愛憎は、オプシディエンヌただひとりのものだ。彼女を殺して私も死ぬ。それが望みだ」
先生は顔を上げ、わたしの肩を掴む。
「王都に戻るといい。刺繍遣いが管理している支部は分かるな。まず何より先に彼と連絡を取るといい。彼なら悪いようにはしない。賢者連盟で発言権があって、まともな人格を持っている魔術師は、刺繍遣いと元司祭くらいなものだ。特に元司祭は疑うことなき誠実さを持っている。目先の哀れさに浅慮を起こすこともあるが、私が知る限りもっとも善良で正直な男だ。獣属性の権威でもある。もし師を求めるなら、元司祭を推す」
いつもより早口で語る。
心残りを無理やり処分するように、わたしに身の振り方を教えてきた。
先生のアドバイスは、たぶん正しい。ドライフルーツの甘さ、オリハルコンの賛歌、いつだってわたしを導いてくれた。
だけど、これじゃまるで今生の別れじゃないか。
「嫌です! 教わるなら、先生がいい! わたしはずっとオニクス先生に……」
唇が封じられた。
その口づけには魔力が籠っている。【睡眠】の魔法だ。
他者の魔力によって意識が侵食されていくのに、心がどうしても奮わない。立ち向かえない。戦えない。
わたしの意識が、手のひらから零れ落ちていく。
唇が離れた。
「きみの未来に幸あらんことを」
未来?
わたしに、そんなもの、無い。
永久回廊でただひとり、血の褥に伏していた夢魔の女王。
あれが、わたしの魂の帰結。
夜明け前の闇の中、先生は行ってしまった。
たったひとりで。




