第十九話(後編) 夢魔の女王は斯く語りき
わたしは意識を失った一角獣を見下ろす。
あれはミヌレと呼ばれていた頃のわたし。
夢みる胚胎だった頃のわたし。
まだ未来と現在と過去があった頃のわたしだ。
永久回廊に座しているわたしには、現在しか存在しない。現在という定義さえ曖昧で、現象に近い生き物だ。
わたしはここで、小さなミヌレをどれほど待っていたのだろう。わたしが『夢魔の女王』になったと同時に相対したのか、それとも何千億年の経過した果てなのかも曖昧だ。
わたしはもはや永遠だ。
永遠とは長い時間ではない。
時間の連続性を問わないこと。時間に干渉されないこと。時間の限界がないこと。あるいは時間が存在しないことこそ、永遠なのだ。
この子はまだそれを知らない。
嗚呼、なんと小さな生き物だったのだろうか。そしてなんと情熱的な子供だったのだろう。
ただひとりの男のために、こんな時間と空間の彼方までやってくるなんて。
感傷めいた思考は一瞬だった。一瞬にさえ満たない須臾が過ぎ去った後、わたしはクワルツくんへと焦点を合わせる。
彼はミヌレの意識を奪った。
『夢魔の女王』たるわたしから勝利をもぎ取りたかったら、ミヌレを排除するしかない。ミヌレが見知ったことは、すべてわたしも見知っているのだから。
すぐに戦闘に入るかと思いきや、クワルツくんは小首を傾げていた。
人間の姿に戻って、仮面を付けなおしている。
「さて、どうしたものか。ふたりともミヌレくんなら、どちらに肩入れするのが正しいのかな?」
鷹揚な口ぶりで、わたしへ視線を投げかける。
「いっそ、ミヌレくんをこのまま地球に戻して、あの教師を諦めるよう説得する方がいいだろうか?」
独りごとのように問う。
本当に独り言だったのかもしれない。
彼の態度も口調も鷹揚だけど、この状態で他者と会話する余裕があるわけない。
何しろ彼が永久回廊にやってきた動機は、オニクスを助けるためではないのだ。あくまでもミヌレの意思を助けようとして、こんな果てまでやってきた。
その助けるべきミヌレが、ふたりになって戦っているのだ。
最悪の二律背反。
動きも考えも鈍くならないはずがない。
「あるいは、きみを説得すべきか。こんな孤独の果てに封印されているより、古代竜の大地に帰らないか?」
地球に還る?
わたしが何より愛した惑星。
魔法と魔術が行き渡り、竜が蒼穹を舞い、一角獣が雪原を駆け、古代竜ラーヴさまが夢見る蒼い惑星。
闇巣食う図書迷宮、暁の空中庭園、雪の温泉、宵闇のオペラ座、湖底の奴隷市、砂漠の戦争、幾多の思い出が詰まった世界。
ひとの手が造る建築も、ひとの手が奏でる音楽も、ひとの指が縫うドレスも、すべてすべてこの上なく懐かしい。
あの地球こそ、わたしの宝石。
でもそれは許されない。
絶対に許されないことなのだ。
わたしは銀の錫杖を握る。強く強く握る。
「クワルツくん。因果律の中で生きるなら、あなたにとってミヌレはその子だけ。未来のミヌレでもなく、幻想のミヌレでも、仮定のミヌレでもなく、そこにいるその子を助けてあげて」
「きみと戦う必要はあるのか?」
「どうかしらね? どちらかと言えば、これはただ意地みたいなものよ。この『夢魔の女王』の心臓を手に入れたいなら、それなりに代償を払うべきじゃない?」
「さもありなん!」
呵々と笑う。
「真っ向勝負で、わたしの心臓を勝ち取って。手加減はしないでね。わたしは永遠。死ぬこともなければ生まれることもないんだから」
「承知」
クワルツくんは背筋を伸ばす。
ただそれだけの自然体なのに、狼が獲物を襲う寸前のような緊迫感が満ちる。
「怪盗クワルツ・ド・ロッシュ! いざ、参る!」
駆けだす瞬間、クワルツくんは大きく腕を振り被った。
飛び道具?
黒い輝きを避ける。
黒曜石か。
温泉地帯にあった黒曜石の破片だ。いくつか隠し持ってきたのか。
おそらく牽制。
わたしはイルカの尾を振って、黒曜石をそのままクワルツくんへと弾き返す。
クワルツくんはすでに、わたしから距離を取っていた。黒曜石を腕で弾きながら息を吸う。
「我は風の恩恵に感謝するがゆえに!」
クワルツくんが詠唱する。
は? こいつ獣属性以外に、魔術なんか使えたったけ?
っていうか呪符、どこに装備してんの?
構築されていく魔術は、四属の風。
「空気の波紋、弦の唸り、すべてを静め鎮めて沈み賜え」
反風属性【静寂】か。
音をすべて消滅させる魔術だ。
これが発動すれば呪文が唱えられず、敵味方すべて魔術が使用できなくなる。魔術を切り札にしてるミヌレは好まないけど、格闘主体のクワルツくんには打って付けの魔術だ。
純粋な肉弾戦を狙ってきたか。
望むところだ。
わたしは前脚で駆ける。一角獣の前脚が踏み込めば、間合いなどすべてゼロ距離になる。
クワルツくんは腕を真っすぐ伸ばす。
わたしの着地点を読んでいた。
迷いない動きで、わたしの眼窩に指を入れる。眼球を盗み取った。
さすが怪盗。
鮮やかな盗み方。
だけどわたしは痛みで臆さない。欠損にも怯まない。
眼球を潰されようが、錫杖を繰り出して、クワルツくんを叩き伏せる。彼は受け身を取り損ねて、床にたたきつけられた。
「視界を閉ざしても無意味よ。わたしは『夢魔の女王』。夢は目を閉じて観るものだから」
ゆっくりと近づく。
「クワルツくん。呪符をどこに持ってたのよ?」
「……ハハッ、ピアスだが、ご婦人には言いづらい場所だな」
マジかよ。そんなところに呪符付けてるやつ珍しいな。
クワルツくんの水晶眼の焦点が、わたしの背後にずれた。
「いまだ!」
まさかミヌレが目覚めた?
そんなはずはない。彼女が起きるのはもっと先。
振り向いた先に、ミヌレがいた。気を失って、床に伏せたまま。なにひとつ変わらずに。
クワルツくんの演技か!
そういやこいつ演技派だったな!
わたしの脇腹に、灼熱の痛みが走った。
クワルツくんの腕だけが、狼に変化していた。獰猛な爪が、わたしの脇腹を裂いたのだ。
ひたすら白かった窮極の間に、わたしの血が咲いた。
赤い、とても赤くて、珊瑚みたい。
それにとても暖かい。
なんだかおかしくなってきた。クワルツくんと戦っているなんてね。笑いたいような気持ちと泣きたいような気持ちを持て余し、わたしは錫杖の石突を奮う。
わたしが錫杖を振りかざしても、クワルツくんは避けようとしない。わたしの身体を引き裂こうと、なおも爪を喰い込ませた。
「ぐぅっ……!」
呻きながらも錫杖で突き、クワルツくんを突き放した。
彼と一緒に、わたしの脇腹がこそぎ落とされる。血肉と膵臓が持っていかれた。
切られたり折られたり潰れたりなら、すぐ回復する。
だけど肉体が目減りすると、血肉を生み出さなくちゃいけない。こんなに一気に身体が減ったら、回復のために体力と魔力がごっそり持ってかれる。
脾臓に眼球に血液。
クワルツくん、わたしの肉体を減らすのが目的だったのかな。
いや、怪盗だから減らすっていうより、盗むか。
わたしは無窮神性だけど、受肉している。血肉も構成要素のひとつだから、盗まれたら結構ダメージなんだよね。
「なかなか良い作戦ね」
「きみがどこを削られたら辛いのか、吾輩ほど知ってるものは他にいまい。きみを喰らったことがあるからな」
「そういえば、そうね。わたしを食べてくれた」
一角獣化がバグって、チートで治したことがあったっけ。
クワルツくんはわたしを喰ってくれた。
そりゃわたしの経絡や構造を把握してるわ。
わたしは自動回復しながら、クワルツくんと干戈を交える。
呪文は唱えられない。即時詠唱できる闇魔術じゃクワルツくんには通らないし、大技を詠唱しようとしたら、クワルツくんの【静寂】がくる。
クワルツくんは錫杖を紙一重で躱し、わたしから血肉を盗んでいく。
しかも動きが的確過ぎる。
わたしの肉弾戦の経験値より、クワルツくんの方がずっと上だ。格闘なら彼に分がある。だけどあまりにも読まれ過ぎている。
未来視か。
否、否、クワルツくんがわたしを予知できるわけがない。
わたしは『夢魔の女王』だ。
すべての夢の頂点に立つ。
予知夢でさえわたしの支配下。
なら、どうしてこうも攻撃が避けられる?
「クワルツくん……あなた、未来へ時間軸が歪んでいる?」
彼は浅く笑った。
「ほんの数時間ほど、正しい時間軸からずれた。今の吾輩はきみと戦った記憶を持っている」
カマユーと同じバグが発生したのか。
数十年も時間が齟齬したカマユーは一見して判別できるけど、数時間程度のズレは分からんからな。
「怖くない? 死んでも生まれ変われないのよ」
「恐ろしくないと言えば嘘になるが、怯むなど吾輩の犯罪哲学と怪盗倫理が許さん」
犯罪哲学と怪盗倫理か。
己の信念に殉じるクワルツくんが好きよ。
もし予知からはみ出さずに人生を進んでいたら、わたしはきっとクワルツくんを選んでいたわね。夜に自由を謳歌する怪盗は、とても綺麗だもの。
でもわたしはオニクスと出会ってしまった。
恋をしてしまった。
誰にも覆せない恋だった。
わたし自身にさえ、あの恋を覆すことはできなかった。
「吾輩は行動で、己の哲学と倫理を全うする」
「あなたは素敵ね。脅かしてごめんなさい。それをデバッグするためにわたしはここにいるの」
『夢魔の女王』は、デバッカー。
バグった時間軸と因果律を直すため、輪廻の輪を滞らせないため、この身は永久回廊に封じられている。
カマユー猊下も、クワルツくんも、魂にエラーが出た。死んだらわたしが魂をデバッグする。
「あなたが死んだら、また会いましょうね」
「ああ! 死ぬのが楽しみだな!」
クワルツくんの拳で、わたしのハラワタが爆ぜた。
わたしの視界は霞がかり、靄の向こうに、ミヌレが立っていた。
あどけないわたし。
いとけないわたし。
さあ、ミヌレ。茶番劇は終わるわ。
この胸を抉りなさい。
わたしは喪失を受け入れる。
運命だからじゃない。
因果だからじゃない。
オニクスを助けるためなら、わたしは、胸の鼓動を失っても構わない。
愛しているのだ、永遠に!




