第十七話(前編) 邪竜、目覚める
わたしは飛ぶ。
魔力すべてを注ぎ込んで、空を飛んでいく。
世界は赤い荒野から、白の山岳へと変わっていく。
雪化粧した針葉樹が連なって、白銀の風景が果てしなく続いていた。冬の日差しが、きらきらとした光を乱反射させている。
ああ、ここが大山脈温泉地帯か。
ゲーム中じゃ……いや、予知では来れなかった場所だ。
黒曜石の産地って設定資料集の地図には載ってたけど、行けなかったエリアなんだ。そこに今やってきている!
心臓がない胸が、高鳴ってきた。
高鳴りに背中を押されて、わたしは【飛翔】の速度を上げる。
「……11時方向に修正してくれ」
「ういうい!」
わたしが翼、先生が羅針盤。
無敵になった気分だった。
「うーん」
最初はめっちゃ綺麗だと思っていた風景だけど、雪の輝きが眩しすぎる。眼球の奥まで突き刺さってくる感じ。痛みさえ覚える輝きだ。
もう少し高度を上げよう。
山脈の斜面と雪面のせいで、空間識失調してしまうかもしれない。
わたしは【飛翔】を制御して上昇した。
上がりすぎると風の加護が薄くなって、速度が落ちる。ほどよい高さを保った。
「緻密で素直な構成だ。無駄がない。しかも安定してるな」
「この前、先生が抱っこして、飛んでくれたじゃないですか。魔術は一度見ればわかりますよ」
「一度見れば、か。それが出来る魔術師など、私の知る限り数えるほどしかいないが」
先生はわたしの頭を抱きしめてくれた。
おっ、これはひょっとして褒められているのかな。嬉しいぞ。ふへへ。
手の中の日長石をぎゅっと握る。
そういえば先生はどこから持ってきたんだ。この日長石。
ディアモンさんは真珠の一粒どころか、貝殻さえ使わなかった。徹底的に呪符の素材は遠ざけられていたのに。
「先生。日長石なんて、よく手に入りましたね」
「奥歯に宝石を仕込んでいたからな。いざという時の備えとしてな」
淡々と答えてくれたけど、用心深いってレベルじゃねぇぞ。
賢者に捕まる前から、奥歯に仕込んでたってことだ。
このひと精神が戦場に常駐してんのかよ。
針葉樹が開けてきた。
「先生、地面に空があります!」
針葉樹が開けている地面に、ぽっかりと丸い青空がある。
異空間の穴が開いているみたいだ。
「あれは湖だ」
「湖? めっちゃ真っ青ですよ!」
「温度が高すぎて微生物が棲めずに澄み、空の色をそのまま映している。ここは温泉地帯だ。湖も高温になっている」
途端、真っ青な湖から、勢いよく雲が吹きあがった。
雲じゃない。
噴水みたいに、水が噴き上がっているんだ。
でも空みたいな湖から吹きあがっているから、雲の生まれる場所みたい。
「間欠泉だ。大山脈の下5000メートルには溶岩が鼓動している。ここには大小合わせて二百近い間欠泉が吹きあがって、間抜けは不意打ちを喰らう」
「オニクス先生は喰らったことあります?」
「己が飛べない区域を、初心者に運んでもらおうとは思わんな」
皮肉な笑みを浮かべたけど、その顔色は芳しくない。土気色だ。
わたしが貫いた太ももは、先生がいつの間か応急処置している。手錠されているのに、ほんとにいつの間にかだ。さすが戦場育ち。右足にはクラバット、左足にはサッシュを巻いている。最上級のシルクだけど、真っ赤に染まっていた。
空中庭園からずいぶん距離を稼いだ。
そろそろ治癒するか。
「一度、降りましょうか」
「ああ。【飛翔】で最も難関なのは着地だ。それから必ず乾いた場所に着地してくれ。ここは泥水も熱湯になっている」
「了解しました」
わたしは忠告を胸に抱き、針葉樹の銀世界に降りた。
無垢な雪を踏めば、ぽすりと気の抜けた音をひとつ上げる。世界が静けさに包まれる。雪がすべての音を吸い込んでいるせいだ。
先生を横たわらせた。応急手当の布をほどこうとしたけど、硬く結ばれている。
「私が解く。まず鎖を砕いてくれ。赤い護符に触れるなよ」
わたしは一角獣に転じて、角で鎖を砕いた。鉛の鎖が千切れて、真っ赤な宝石たちが雪に落ちる。赤い雫のなかに、黒い粒が内包されている。これ、八面黒結晶インクルージョン内包の赤色スピネルか。
レア素材だ。
でもなんの護符だろ?
「その護符は【封魔】だ。それに戒められれば、経絡が滞る」
……【封魔】の、護符
信じられない単語を耳にして、一瞬、理解が遅れた。
「装備すると魔術が使えなくなる護符ってことですか!」
「そうだ」
魔術そのものが使えなくなる護符?
護符は常時発動しているから、魔術師じゃなくても使えるし、制限時間もないってことだ。
非魔術師が、魔術師を完全に無力化できる。
「設定資料集でも見たことねぇぞ!」
「【封魔】の護符の術式は、流布されていないからな。月の魔術師しか知らんはずだ」
「先生はご存じなんですか? 作り方」
「開発者だ」
めっちゃあっさり言われた。
護符の開発ってマジかよ。護符って、呪符よりも制作するのは簡単だけど、開発するのは難しいんだぞ。魔術史に名を刻むレベル。
「私一人の技術ではない。正確に言えば、オプシディエンヌと共同開発した魔術だ」
オプシディエンヌ。
先代国王の寵姫にして、稀代の魔女。オニクス先生を愛人にしていた美女。
おもしろくない名前だ。
先生はわたしの顔を見て、小さく笑った。
「きみは存外、嫉妬深いな」
「何にも言ってません」
わたしが嘯くと、先生は呻きだか笑いだか分からん声を漏らした。
「魔術師を人体実験するなら、魔力を封じて拘束しておくと安心だからな。呆れるほど邪悪な理由で開発した術だ」
「その魔術で魔力を封じられていたとは因果応報ですね」
「処刑台を作ったものが処刑されるのは世の習い。作っているときは何故か気づかんがな」
先生は手首をほぐしてから、応急手当の布の結び目を解く。
出血がひどいのに、わたしより手の力があった。鉄臭い布を取り払うと、傷口が空気に晒される。
わたしが貫いて穿った傷だ。
螺旋状の角で穿たれたせいで、肉が抉られている。
わたしは猫がミルクを飲むように、傷に唇を這わせ、キスをした。血が溢れる。湧いてくる血を舌で舐めとり呑み込む。ちゅぅ、と吸い取れば、生臭い鉄の味が鼻腔にまで広がる。
「……っ」
苦しそうな吐息。
わたしが見上げると、先生は思いっきり顔を顰めていた。
「痛いですか?」
「きみは私が痛覚遮断さえ出来ない能無しだと思っているのかね?」
「でも、苦しそうですよ」
わたしが問うと、先生は眉宇に皺を寄せて俯いた。
「愚問を発する暇があるなら、魔力の供給だけしたまえ……あと血を飲むのは勧められん。血は、催吐性がある」
「もったいなくて」
先生の太ももの内側を撫でる。
ここらへんに魔力の経絡が通っているんだよね。早く良くなりますようにって気持ちを込めてマッサージしながら、傷口に魔力を吹き込んでいく。
先生の自己治癒力を促している。だけど肉が抉られたから、回復に時間がかかりそうだ。
「……ッ」
先生が呻く。
喉をのけぞらせ、吐くように痙攣した。
痛覚遮断しているはずなのに。
シャツを緩ませようとして、手をかける。喉仏の下には漆黒の文様が這い上がってきていた。毒蛇の如く煩悶し、羽虫の如く顫動し、先生を蝕んでいく。
「【制約】? この距離でも発動するんですか?」
かなり距離を稼いだのに。
馬鹿な。こんなに離れても発動するんだったら、わざわざカマユー猊下がリコルヌ領までお出ましになるはずがない。
「するはずが、ない……だが、私を封印している間に、魔術式を書き換えたか?」
漆黒の文様は、首筋から頬へと這い上がる。
喉仏をすっかり覆いつくして、まるで首輪だ。
「どうりで追手が甘かったわけだ……すでに細工済みとはな」
わたしは先生の唇に口づける。
【制約】を解くために。
だけど、先生に肩を握られ、乱暴に引きはがされた。
「……無駄だ。【制約】は、私と賢者の合意によって構成されている。属性としては闇魔術だが、魔術式の構成は獣属性ファミリア系に近い……外部からの干渉は……」
不可能だと、唇は単語のかたちを作っているのに、音は出てこなかった。
掠れるような息だけが吐かれて、隻眼が閉じられてしまった。
どうしよう? オニクス先生を助けるためには、賢者のところに戻らなきゃいけないの?
ああ、あの賢者ども!
婚約させてわたしの機嫌を取ろうとしていたけど、先生の手綱はしっかり握ってやがった。わたしに渡す気なんてさらさらないってわけだ。
【制約】という首輪が、先生に架せられている。
逃げても、無駄。
「先生、わたしは、あなたに自由でいてほしかったの……でも、わたしじゃちっとも役に立たない……」
わたしは泣いていた。
どうして泣くんだろう?
この涙は無意味以下だ。体力が消耗する、体内の水分が減る。
無様だ。
こんなに無様なことってない!
わたしは無力で無知だ。それでも自分に失望したら、すべてが終わってしまう。
前に進むことを、考えろ。
わたしを塞ぐ壁が立っているなら、壊す方法を、潜る方法を、越える方法を、見つけなくては。なんでもいい。止まるな。些細な事でいい。思考を進めろ。
手の中の日長石を強く握る。
先生が隠しもっていた石。
「どうして……先生はこの地にやってきたんです…?」
質問に対して返ってきたのは呻きだけ。
でもわたしは確信できた。この地に、何か目的があるはずだ。奥歯に呪符素材を隠しもっているほど用意周到なひとが、行先をあてずっぽうにするはずがない。
もしかしたらどっかの岩場に、強力な呪符を隠しているかもしれない。素材なり、武器なり。
あるいは……
「ラーヴさま?」
オニクス先生の師匠。
ひょっとしてこの地に、隠遁しているとか……?
青空色の湖から、間欠泉が噴き上がる。
そして地面が揺れた。
奥底から揺れ動き、わたしたちを突き上げる。
地震だ。
ここは火山があるんだから、地震だって起きる。
湖から離れた方がいいのか?
地学に詳しくないから、地震が起こった場合の間欠泉の状態なんて知らないもの。ああ、まったくほんとわたしは無力で無知で、うんざりする。自分に腹が立ってきた。
真っ青の湖が、夕焼け色に染まった。
「……えっ?」
空はまだ青いのに、湖は明るい朱色に染まり、金の輝きを放っている。
いや、これは夕焼けじゃない。
溶岩だ。
煮えたぎる溶岩の中に、黒くて細長いものがちらちらと動いている。その黒いものが泳いで、わたしの方に向かってきた。岸から上がる様子はない。
≪……逃げるでない、娘よ≫
声が谺する。
地響きめいた声は、若いのか年寄りなのか、男なのか女なのか分からない。どれにでも当てはまるみたいで、どれにも似ていない。
呼びかけに一拍遅れて、魔力が伝わってくる。
その刹那、わたしの膝が地べたに付く。立っていられない。
震えが止まらない。
嫌な汗が滲んでくる。
いやだ。この場から去りたい。
だって、この魔力、わたしより強大だ。
この山脈全土に魔力が広がっていて、範囲も深度も把握できない。
いや、思考を放棄するな。
少しでもいい、手探りで相手の居場所を探すんだ。逃げの一手しか打てないけど、相手がどこにいるか分からないと話にならない。
わたしは魔力の根源を探す。
そして夕焼け色に揺れる湖へと、振り向いた。
「それ、目なの……?」
溶岩じゃない。あれは虹彩だ。
黒くて細いもの。あれは瞳孔だ。
この広大な湖が、眼球ひとつ?
≪然り≫
茜色の湖面が盛り上がる。黒い瞳孔がぬらぬら蠢き、わたしに焦点を結ぶ。
≪ワシは時間をねぐらに、空間を飛ぶもの。因果を呼吸し、星気を喰らうもの。生命と創世の記憶を宿すもの。もっとも古き竜……そなたら魔術師が『邪竜』と呼ぶもの≫
『邪竜』が目覚めた。
何故?
いや、疑問より『邪竜』をなんとかしなくちゃ。
こんな巨大な魔力を宿す存在に【睡眠】をかけるなんて、途方もない。無理だとは言えないけど、月まで徒歩で往くような無謀さだぞ。
先生はこれを眠らせた。
人類に出来ないわけじゃないけど、呪符があればこそだ。
でも邪竜が起き上がったら、全人類が亡ぶ。死に絶えてしまう。やるしかない。魔術でなければ、魔法で。
わたしの腕のなかで、先生が身じろぎする。
「ん……」
微かな呻きと共に隻眼が開き、夕焼け色を映す。
即座にわたしの腕を振りほどき、先生は『邪竜』の瞳へと駆けた。
まさか呪符無しで再封印するの?
無茶だ。
オニクス先生は湖畔で膝をつき、手をつき、深く頭を下げた。
へ?
先生が、土下座してる?
「御身の尊き眠りを妨げた不始末、まことに釈明しようがございません。すべて私の不徳の致すところでございます」
声を震わせながら、額を雪に沈める。
「ですが、どうかこの娘はご寛恕を。我が師ラーヴよ」
………………は?




