ミニャルディーズは幸せに 2
薔薇の香りに満ちた静けさの底で、セラは殊更にゆっくりとテラスへ視線を移す。窓の外はいつの間にか雲に覆われていた。花曇りを映して、青磁の瞳も燻る。
「僕の齢でもう父と出会っちゃったんだよ。怖いね、こんな齢でさ」
セラはお砂糖代わりのすみれの砂糖漬けを入れ、薔薇茶を花畑みたいにしてから、小さな息をひとつ零した。
お茶が波紋して湯気が揺れ、薔薇の馨しさが増す。
なんだかセラの溜息が花の香りになってしまったみたいだ。
「ふたりとも僕の祖名って知ってたっけ?」
「知らねぇ」
アルの即答に、ぼくも頷く。
友達だからって祖名を知ってるわけじゃない。おじいちゃんや両親の祖名だって知らない。
あんなの洗礼式と結婚式と葬式以外には使わないし。
「セラドン・グレだよ」
「グ=レ?」
「僕には祖名が半分しかない」
セラがぽつりと呟いた。
祖名は祖父の名前をふたつ繋げたものだ。ぼくならおじいちゃんの名前と、父方の祖父の名前を合わせて、フュザン=ビスタ。
それが半分しかないってことは、父親か祖父が分からないんだ。
「どこの誰か、名前や身分も伏せられている。ただ亡くなった。聞かされているのは、それだけ」
静かになる室内。
父親がいないのはぼくも同じだけど、うちは早くに亡くなっただけだから事情が違う。
両親の写真は何枚も残っているし、おじいちゃんが描いた家族の肖像画だってある。兄さんと姉さんから、どんな人なりだったのかも聞ける。遺品の文具品や手帳もある。
父親がまったく分からないってどういう気分なんだろう。
踏み込みづらいから黙る。
「ま、どんな人間かどうでもいいけど、感謝はしているんだ。このアパルトマンと、母が自分のお店を持つだけの資金を相続できたからね。優雅に暮らしていられるのは、母さまがお店を繁盛させているからだけど、そもそもの資金は父の遺産かららしいし」
セラはパウンドケーキにフォークを入れる。
ぼくが黙っていると、アルが呻いた。泥じみて濁った低音が、花畑めいたお茶会に響く。
「遺産を貰えてるなら、誰か調べられるじゃねーか」
「そうかもしれないけど、どうでもいいよ」
「本気でどうでもいいのか?」
「……………どうなんだろうねぇ」
他人事めいた呟き。
たぶん、セラ自身、自分の気持ちを計りかねているんだ。
「お前いつも猪みたいに突っ走ってんのに、何を遠慮してんだよ。どうでもいいんだったら、逆に誰でもいいんだろ。父親の名前だけでも調べりゃいいじゃねーか」
無遠慮な発言に、セラはちょっとだけ眉を顰めた。
「そりゃ僕だって少しは気になったよ。でも母さまに聞いても教えてくれなかったんだよねぇ。登記の書類とかを盗み見たけど、事務弁護士の名前だけで、父親の名前は見つけられなかった」
「その事務弁護士が父親ってオチじゃ……」
「事務弁護士の名前は、アヴェンチュリンヌ」
どう考えても女性名だった。
「僕は母さまだけで十分だよ」
セラは銀のフォークを優美に操って、芳醇な一切れを口に運ぶ。
舶来果実のカトル・カールは甘いけど、悩みを薄められるほどの効果はなかった。
おやつを食べてからしばらくお喋りしていれば、セラの音楽教師が来る時間になってしまった。
重苦しい曇天の下、アルと並んで家路につく。
「珍しいね、アルが家庭の事情に踏み込むの」
アルは良い奴だ。
でも、たまにちょっと冷たいかなって思うくらい、壁を作る。もしかしたら壁じゃなくて、間合いを取って離れるから体温が感じなくなって、ぼくが勝手に冷たく感じるのかもしれない。
「気にしてる感じなのに、動かないのが鬱陶しかったんだよ。本気で父親を気にしてないなら、俺らに言うわけないじゃん。進路がらみで両親のこと聞かれたりするとなると、悩むこともあるだろ」
それも一理ある。
いろいろ悩んだ末に、ぼくらに吐露したんだろう。
「それよりさ、カイ。お前、チケット代は平気なのかよ」
直球が投げつけられてしまった。
「あんまり平気じゃない。でも面接の会話の種になりそうだし、貯めてたお小遣いで何とかするよ」
「そんならいいけど」
足りない分は、姉さんに借りてなんとかしよう。
面接の会話のひとつになるかもしれないのは建前。
スフェール学院に進学できたら、たぶんセラやアルと一緒に遊びに行く機会が減ってしまう。だから好機を逃がしたくなかったんだ。
「アルはすんなり出せるの?」
「博物館とか図鑑だったら、じいちゃんが小遣いこっそりくれる」
羨ましい。
お小遣いそのものじゃなくて、自分の趣味にお小遣いをくれるおじいちゃんがいてくれるのが、すごく羨ましかった。
「……アル、ぼくはこっちから行くよ。借りてた本を返しに行かなくちゃいけないんだ」
「おう、またな」
手を振って別れて、ぼくは普段と別の路地に入った。
家まで遠回りになるけど、ラリマー新聞社へ足を延ばす。
いつ見ても立派な赤煉瓦の新聞社だ。
ぼくが来客ベルを鳴らす前に、三階の窓が開く。
ニケル氏だ。
耳朶に飾られたピアスたちが、風に揺れて、曇り空でも目映く乱反射していた。
ぼくが挨拶しかけると、ニケル氏は窓枠から身を乗り出す。するっと軽やかに抜け出し、壁の赤煉瓦を蹴って、道に着地した。
反土魔術【浮遊】だ。
すっかり本調子だな。
「ラリマーなら今日は戻ってこないよ。書籍出版ギルドの会合の後で、付き合いの晩餐会があるから」
「お留守ですか。お借りしていた本を返しに上がったんです」
「ありがと。おれが礼を伝えておくよ」
直接、お礼が言えないのは申し訳ないな。
「せっかくだし上がっていく? ちょうど珈琲が入ったから」
お言葉に甘えさせてもらう。
本を返しに上がるだけのつもりだったけど、玄関のポスターに見入ってしまった。シンプルな額縁の中に、大アトランティス展の色刷りポスターが飾られている。
ラリマー新聞社も協賛に入っているんだ。
新聞に広告を打ったり、週刊誌に特集を組んだりしていた。開幕前で詳しい記事だと思ったら、協賛していたんだ。
眺めているぼくに、ニケル氏もポスターへ視線を移した。
「大アトランティス展。カイユーくんも興味ある? だったら内覧会チケット一枚あげようか」
「内覧会!」
関係者とか新聞社しか入れない日だ。
もらえたら嬉しい。大アトランティス展ってチケット代が高いし。
「でもぼく以外に友達、二人いるんですよ」
「あと二枚か」
断ろうとしたら頷かれてしまった。
「いや! ねだったわけじゃないんです」
焦って否定するけど、ニケル氏は気楽そうに笑った。
「いいって。協賛しているから、内覧会チケット余るんだよ。ラリマーの実家からは絵画や石像が出展される」
いかにも貴族だ。
「だから確保してくるよ」
「ありがたいですけど、そこまで融通して頂くのは申し訳ないというか……」
「先輩が後輩をこき使うのは、三倍にして返してあげるためだ。だから遠慮なく受け取るといい」
一次が通っただけで、スフェール学院に入れるって決まったわけじゃない。
でもニケル氏は入れると思ってくれている。
重い期待だ。
「内覧会チケットを貰ってくるから待ってて」
応接間のソファに腰を掛けると、ニケル氏と入れ替わりに執事さんがやってくる。
こちらが気恥ずかしくなるくらい恭しく、珈琲を供してくれる。
苦さを味わっていると、ニケル氏が戻ってきた。
「内覧会チケットと、あとこれ、おれのお勧めアトランティス怪奇譚!」
キャンバス張りの小説本だった。
「挿絵に惨殺死体が豊富で、家に置いとけないくらい猟奇なんだ」
そんな本を青少年にお勧めしてくる大人っているんだな。
「プロンちゃんが間違って読まないように、猟奇小説はこっちに置いてあるんだよ」
親としての理性はあるんだ。
お勧め猟奇小説は丁重にお断りして、ぼくは内覧会チケットだけをありがたく頂戴した。




