富豪令嬢vs.考古魔術師
スフェール学院の敷地の隅っこに、瀟洒なお屋敷が建っている。
迎賓棟だ。
特別講義する学者や魔術師が、数泊するためのゲストハウス。
書き物机付の寝室は広くないけど、必要な調度は整っているし、森に面しているから眺めが良い。しかもバルコニー付き。
タイル飾りの暖炉には、炎と薪ではなく、春の花たちが花瓶から溢れるほど飾られていた。白鸚鵡の爪紅染が花を啄んでいる。
花を背にして、モリオン氏はソファでふんぞり返った。長い脚をこれ見よがしに組み替える。
モリオン氏の容貌は、背後に咲き乱れる花たちに負けていない。なんだか舞台の一幕めいていた。
「エラ。ボクはこれから講演会だし、今夜のきみのお兄さんの晩餐会にも呼ばれているんだよ。明日には北極発掘に戻る。これ以上、疲れる話は控えたいって分かってもらえたら嬉しいんだけどねぇ?」
「分かっているわ。講演も社交も、リオにとっては居眠りしながらでも出来るってことくらい。その発言、エランに恩着せがましくする以外の意味あるの?」
「無いよ」
「じゃあつべこべ言わずに、相談に乗りなさいよ」
ややこしい話を持ち込んできたエランさんが、偉そうにふんぞり返った。
ふたりとも偉そうに座っていたけど、根負けしたのはモリオン氏だった。溜息と一緒に肩が落ちる。
「そもそもどうして侯爵未亡人が、私立の通学校を買い取るなんて言い出したんだ?」
「エランが仕向けたのよ。カイユーくんの内申書がほしいけど、今の状態だと芳しい評価を出してもらえそうにないのよね。ちょうど競売に出るからエランが頭金を出して事務手続きして、親しい方に買い取ってもらおうと思って」
その流れに、モリオン氏は頭痛を堪えるように眉間に皺を寄せる。
「そこにいる元凶の生活態度を改めさせるのが先じゃないかな」
ぼくを一顧だにせず、早口で言い切る。
元凶扱いされてしまったけど、そもそも退屈な授業をする教頭が悪い気がする。
「馬鹿ね。教授が気に入る天才児の社会性を矯正するのと、学校法人を買い取る手続き、どっちが楽よ」
「そうだね、ボクが馬鹿だね。学校を買い取るね」
「でしょ」
頷き合うふたり。
ぼくが手のかかる子だと思われているのかな?
ちょっと心外。
「だから侯爵未亡人にもお声かけしたの」
「お金で解決したら、お金で解決できない事態が転がり込んできたわけか」
「ええ、とんでもない事実を打ち明けられちゃったのは誤算ね。とっくに三年追悼ミサも終わっているんだから、恋も好きになさればいいのに」
「トゥルマリンヌさまは浮名を流すタイプじゃないからねぇ。生真面目な方だ」
「で、おおやけにならず、後々困らない感じにしてほしいの」
「経緯と言い分は理解したけど、そこでどうしてボクに持ってくるんだ……? 完全に無関係だよね」
それは正論だった。
エランさんは受け取った正論を捏ねるように、首を傾げる。
「ゼロなのよ」
「何が?」
「自然数ってゼロは含まないって教えてくれたの、リオだったわよね。すごく昔」
斜め方向に跳んだ話に、ぼくだけでなくモリオン氏まで首を傾げた。
話を持ってきたのは、モリオン氏は貴族の不文律に詳しいからじゃないの?
「覚えてるよ。ゼロから物を数え始める人間はいない、ゼロから数えたら不自然だ。だからゼロは自然数じゃないって説明したっけ」
「エランにとってリオって、ゼロ人目なのよ」
「なにそれ」
「別に褒めていないわ、貶してもいないし。ただエランの主観を話しただけよ」
ゼロ人目か。特別でありつつ、どうでもいいみたいな印象を受ける。
どういう意味で単語をチョイスしたのかよく分からないけど、モリオン氏も分かってないみたいだ。放たれた言葉を噛み締めるように、視線を下げて考えていた。
ゼロ人目という主観を噛み砕けたのか、そもそも呑み込む気はないのか、ぼくからは読めない。モリオン氏の黒水晶みたいな瞳は、いつだって澄んでいるのに底がないから。
「実はゼロも自然数に含めてもいいんだ」
「そうなの?」
「年齢はゼロから数えるし、学問分野による」
「ゼロが自然数かそうじゃないかで、学者の殴り合いが……?」
「考古学会じゃあるいまし、殴り合ってはいないなぁ」
そう呟いたモリオン氏は、レムリア考古魔術師だ。
モリオン氏は他の考古魔術師と殴り合いしているのかな。だから腕っぷしも強いのかな。
「面倒だけど、まず血縁のサフィール元帥に申し上げるのが筋か。元帥も今夜、晩餐会にご出席なさる」
「ありがとう」
感謝されたのに、モリオン氏は嫌そうに顔を顰めた。
「言っておくけど、エラの負担を軽くしたいわけじゃないからね。生まれる前から親の都合に振り回されるなんて、たまったものじゃないよ」
突っぱねる口調だけど、同情も含んでいた。
その同情を向けた先は、エランさんでもなく、侯爵未亡人でもなく、これから生まれてくるであろう赤ちゃんだ。
普段あんな冗談を吐いているとは思えないほど、優しい空気を纏っていた。
「友達のお願いじゃなくて、見ず知らずの赤ちゃんを助けるの。ほんとうにお人好しだわ」
にこにこ笑顔のエランさんに、モリオン氏は嫌そうに顔を背けた。
仲が良い空気だ。
モリオン氏も性根が悪いわけじゃないのか。
………そういえばエランさん、モリオン氏の「隠し子」って発言を、嘘とも冗句とも言わなかった気がする。
いつも「教授のお姉さんの一人息子」みたいな言い回しだった。
モリオン氏の発言に補足はしたけど、否定はしていない。
もしかして誰かの隠し子なのは、事実なんだろうか………
でもよりにもよって教授の隠し子って吹聴するのは、タチが悪いんじゃないか。似てるから信憑性が出来ちゃうし。エランさんがいなかったら、ぼくは信じていた。
………あれ?
待てよ。
「『教授のお姉さんの息子』=『教授の息子』は成り立つ………」
「……は?」
モリオン氏から呟きが漏れた。
その呟きは大きくも、まして威圧的でもなかったし、ただの吐息に近いものだった。
なのに。
死ぬ。
何の根拠も理屈も無しに、ぼくの魂がそう叫んだ。悲鳴だ。魂から警鐘されている。
ああ、死ぬんだな。理解できるのは、ただそれだけ。
モリオン氏が立ち上がり、一歩だけぼくに近づいた。
「カイユーくんはお暇するといいわ!」
甲高い声が響く。
エランさんだ。
たちまち緊張の糸が切れ、思考が巡りだす。そうか、逃げればいいんだ。この場から退散するんだ。全速力で。刹那のうちに。
エランさんの勧めに従う。
ぼくは一礼して挨拶もそこそこに、迎賓棟を抜け出して肉体へ向かう。
心臓が無いのに、鼓動を感じる。ぼくは生きている。
生きている感触はあるのに、自分が生きているなんて信じられない。
さっきまで死の領域に沈んでいたみたいだ。
蜘蛛の巣にかかった羽虫が逃げられたら、こんな気分になるんだろうか。
さらに翌々日の放課後。
侯爵未亡人トゥルマリンヌさまと侍女のタンザニットさん、それからエランさんが供だって来校した。
呪符の反応を感じながら進めば、応接室の前に辿り着く。
ぼくが来たのを察したのか、ドアが開いて、エランさんが顔を覗かせた。
「カイユーくん、ごきげんよう」
「どうなりました?」
「大した競合相手もいなかったし、トゥルマリンヌ侯爵未亡人が落札されたわ。理事の指示で、あなたの内申書は表現を和らげてくれる予定よ」
懸念がひとつなくなった。
教頭の授業がつまらないのが原因なのに、ぼくの汚点にされたくない。
「侯爵未亡人が理事になれば、通学校とはいえ格も上がるし、カイユーくんもスフェール学院で過ごしやすくなるわよ」
「そうなんですか」
「で、カイユーくんは思ったことを言う前に、ひと呼吸おく癖をつけて」
微笑みながらも、口調は硬い。
エランさんからの指摘はこの上なく正しいので、背筋を伸ばして拝聴する。
思い起こせば不用意な発言だった。
「モリオン氏ってまだ怒ってます?」
「ご機嫌斜めってところね。ただあれ以来、リオが馬鹿げた発言をやめたのよね。過程は褒められないけど、結果は悪くなかったわ。よっぽどショックだったのね」
ショックだったのか。
ぼくが軽率だったのは確かだけど、モリオン氏も誤解されるのが嫌なのに、冗談を言うのってどういう神経しているんだろう。
「………リオが生まれる前に亡くなっているのよ」
エランさんの声は、一瞬、聞き逃してしまうほど唐突で静かだった。
「え? モリオン氏のお父さんが?」
「色々あってリオはこの世に生まれたけど、複雑な事情あって。エランも全部知ってるわけじゃないし、全部言えるわけじゃないけど、とんでもなく厄介なのよ。だから、あそこの家族関係に口を挟むのは、全力で避けて」
「分かりました」
そうか。モリオン氏はお父さんを産まれる前から亡くしているんだ。
寂しいから、冗談を言ってるのかな。
「教授にお父さんになってほしくて、あんな冗談を言ってるんでしょうか………」
「それをリオには言わないでね、絶対に」
かなり強めに釘を打たれ、ぼくは頷くしなかった。




