五限目 不安を摘むなら開花前
オペラがのべつ幕無しに上演されている。
観客いなくても開幕されているのかと思ったけど、教授の向かい側の席には観客がひとり。
小さなおじいさんだ。
髪も髭も、泡立てた生クリームみたいにふわふわ真っ白。そこにちょこんと三角帽子を乗せていた。星飾りの揺れる三角帽子と、白いおひげ、童話から飛び出した魔法使いそのもの。
星智学の授業をしていた先生だ。
大きな素焼きのミルク茶碗を両手に抱え、ホットミルクをちまちまと飲んでいる。
「じゃがな、魔王くん、留置所は行かん方がいいよ」
「留意しておこう」
すっと席に座る魔王教授。
食堂の女中が、沈黙をくぐって何か運んでくる。
おやつの時間だけど、やってきたのは骨付き羊肉の玉ねぎ煮込みだった。小ぶりな蕪も添えられている。紅葡萄酒もあるから、遅すぎる昼食って感じだ。あるいは早すぎる夕食か。
「魔王くんの甥御くんだって、授業代行するのは大変じゃろうに。ああ、甥御くんからもらった湿布、関節痛によく利んじゃよ。ありがとね」
「あれか。効能は高いが、痒くなるのが難点だな」
「それ、きっと魔王くんが軟膏をよく擦りこんでないんじゃよ。揉むように擦りこめって言われたから、わしちゃん、按摩しながら軟膏ぬってるんじゃ」
「………軟膏?」
「かゆみ止め軟膏。湿布を貼る前に塗るようにもらったやつじゃよ」
「………知らん」
「じゃあわしちゃんが可愛いからくれたんじゃな」
「そうかもしれんな」
教授は心の底からどうでもいいと言わんばかりの態度で、紅葡萄酒を呷る。
視線が合ってしまった。
「こんにちは」
その瞬間、教授は噎せかけて、全身の力で押さえる。びっくりさせてしまったみたいだ。
星智学の先生もぼくに視線を合わせてきた。
つぶらな瞳には、映らないはずの星幽体が写っている。
「魔王くんの生徒?」
「推薦している受験生だ」
「わしちゃんは星智学のメテオールじゃ。キミ、星智学は好き?」
星智学の教師からの問いに、力強く頷く。
「はい。スフェール学院は星智学が強いから、是非、ここに進学したいんです」
「星智学好きなら、大目に見るか。星幽体でうろつくのは、わしちゃん感心しないのじゃが。魂が寒そうじゃ」
「すみません、教授にご相談しようと考えていたら、反射的に肉体から飛び出してしまって………」
「きみはすぐ面倒事に巻き込まれる」
面倒事を察した教授は、溜息で紅葡萄酒を波紋させる。
反対にメテオール先生は、ふっくらとした頬を振るわせて笑った。
「魔王くんを困らせるとは、素質のある子じゃな。そんな寒々しい恰好しとらんで、来るときは肉体を着こんでくるんじゃぞ」
星幽体だけって寒そうなのかな。
メテオール先生はミルクを飲み干して、お尻の下からクッションを引っ張り出す。赤っぽい光沢のクッションは、空中にぷかぷか浮いていた。そこにひょいと飛び乗った。
「わしちゃんは仕事に戻るけど、甥御くんによろしく。ばいばい」
クッションに乗って、ふわふわと行ってしまった。
「呪文を唱えていませんでしたね」
てっきり【浮遊】で浮かしていると思ったけど、詠唱していなかった。
「あれはオリハルコンシルクと、使い魔の毛を織って作った移動用クッションだ。術式は古代魔術の流れを汲んでいる。使い魔との以心性を制御の要にしているため、本人以外は使えん」
さすがスフェール学院の教師陣ともなると、珍しいのを日常使いしているんだな。
「で、相談とは?」
教授に促されて、写真の件を説明した。
昨日、兄と姉の写真を撮ったら、靄が出来たこと。
兄の友人のエジル氏に会ったこと。
そして今日、水晶越しに見たら、写真の靄がエジル氏だったこと。
教授は骨付き肉を咀嚼しつつ、ぼくの話に耳を傾けてくれた。
「カイユーくん。まず基本的な質問をさせてもらおう。覗いた鉱石は水晶で間違いないな。長石や硝子などと取り違えは生じていないか?」
心臓がぎゅっと潰れそうになった。
教授のような多忙な方のお手を煩わせるなら、事前調査しておくべきだった。
でもアルは長く鉱石採取して、ぼくよりずっと経験と知識がある。信じるしかない。
「石ころ趣味の友人から、貰ったものなんです。でも友人は鉱石に詳しいし、産地も水晶鉱山でした。それにきれいな六方結晶になっていて、単斜結晶じゃないから、ぼくも水晶で間違いないと思います」
丸みは帯びているけど、結ばれ方は六方結晶だ。長石の単斜じゃない。
地理的にも理科的にも水晶だ。
「特徴として蛍石がインクルージョンされています」
「光属性か」
蛍石は光属性が高い鉱石だ。
魔力を込めなくても、【光】の護符に反応してうっすら光り、顕微鏡やカメラのレンズにすれば光を安定させる。
「今まできみが撮影した写真に、こういった奇異が生じた前例は?」
「いえ、そもそも今までカメラを触らせてもらえませんでした。銀板を磨いたことはあっても、撮影は初めてなんです。昨日は誕生日だったから特別に……」
「初めての撮影か」
ぼくの言葉を吟味するように、教授は紅葡萄酒を飲む。
「一つ目の可能性としては、写っていた第三者が幽体離脱してその場にいた。条件が揃えば、星幽体は写真に写り込む」
「写るんですか、幽体離脱しても」
「低確率だがな。カメラの魔術応用は象牙の塔でも研究されているが、研究者はごく僅かだ。どういう条件下で星幽体が写真に写るのか、再現性が乏しい。もし写っている第三者が幽体離脱していたなら、結論は簡単だが始末が悪いな。何故、きみの写真館に幽体離脱してやってきたのか」
兄の恋人だから、兄を覗きにきただけかもしれない。
家族の恋愛事情を話すのは、照れくさいというか気まずいというか……
「このエジルという男、兄の友人以外の情報はあるか? 素性や職種は?」
「兄と親しいことくらいしか……」
エジル氏の身元も調べておけばよかった。せめて仕事で魔術を使っているかどうかくらい聞けたはずだ。
心臓だけじゃなくて、星幽体そのものがぎゅっと潰れてきそうだ。
「きみの懸念は、教団絡みか否かだな」
真夜中色と夕暮れ色の眼差しは、ぼくの胸の底にある不安に焦点を合わせていた。
「考えすぎでしょうか」
「きみの二か月を考えれば、不安は尤もで、危惧は理解できる」
考え過ぎとは軽んじられなかった。
それだけでも気が楽になる。
「他の可能性もあるが……」
「どういった仮説でしょう」
「いや、仮説に仮説を組み立てても泥船ができるだけだ。思考の海で難破はしたくない。ともあれ私が面通しすれば、教団の残党か否かは判断できる。一度、その水晶と写真を見せたまえ。明日は時間が取れるか?」
「明日は15時に学校が終わります!」
つい大声を出してしまう。
教授に会えるのは何であれ嬉しい。
「そうか。16時頃なら時間が取れる。都合が良ければスフェール学院の博物館まで来たまえ」
ぼくは重ねて礼を述べた。
問題の銀鏡写真を、見せに行くことになった。
先に速達しておくって手段はあったけど、こんな不可解なものを郵便屋に任せる勇気はない。
それにしても本当に水晶かどうか確認取られた時は、心臓が縮みあがったな。
お時間を取って頂けるなら、質問は足場固めしてからしないと失礼だ。
ぼくがあと調べられることは……
エジル氏が幽体離脱できるか、確かめておけばいいんじゃないかな。
でも住まいは分からない。
肉体に戻って、悩みつつ宿題を片付けていく。
階下から香ばしさが漂ってきた。晩ごはんはお肉かな。
「今日は仔羊のナラヴァンよ」
春野菜と仔羊を煮込んで、蕪が添えられている。うちはオリーブオイルで炒めて、がっつりにんにくを利かせて、バギエ公国風の味付けにしていた。
教授の食事とお揃いだ。なんとなく嬉しい。
いや、仔羊肉に浮かれている場合じゃない。
エジル氏に魔力があるか聞かなくちゃ。
食事が終わって、姉さんは帳簿に取り掛かり、兄さんとぼくが食器を片付ける。
いつも通り、流水と陶器の音が響く。
ふたりきりのチャンスだ。
「ルイ兄さん。あのエジル氏って、むかしから知り合いなの? 職業訓練学校の魔術科で一緒だったとか……」
問いかけても、兄さんは無表情だ。
突然の質問に面食らったのか、なんとも思っていないのか、あるいはもっと色々考えているのか、何も伝わってこみない。でも数秒の沈黙の後で口を開いてくれた。
「違う」
「そっか。同じ学校だったら、姉さんも顔くらい知ってそうだし………」
姉さんは商業科で簿記を学んでいたけど、他人の顔と名前を覚えるのが得意だ。兄さんと親しい同級生くらい覚えているだろう。
「魔術が使えるなら、どんな魔術を持ってるか興味があったんだ」
「あいつは魔力が皆無だよ。でも器用だ」
ルイ兄さんは無表情だけど、普段より柔らかい口調だった。
かなり親しい相手が、魔力を持っていないと断言している。
本当に魔力が無いのか。
あるいは隠し通しているか、ふたつにひとつだ。




