一限目 写り込むのは花盗人か幻影か
幼芽月8日。
ぼくのうちでは、この日から春が始まる。
バギエ公国だったらカリュブデスの水支柱が立てば春だけど、エクラン王国まではカリュブデスの話題は届かない。
だからうちでは、幼芽月8日から春って決まっていた。
だって、この日は。
「誕生日おめでとう、カイユー」
とびきり笑顔の姉さんと相変わらず無表情の兄さんが、ぼくを祝ってくれる。
ぼくは13歳になった。
13歳は特別だ。
法律的には就職もできるし、お酒も飲める。庶民には関係ない話だけど、正式な婚約もできる。
どれも保護者の許可は必須だけど、今日から一歩だけ大人になったんだ。
写真館は早めにお休みする。
ルイ兄さんは作業着から、余所行きに着換えてきた。腰部にダーツを入れて絞っている流行の紳士服。
パティ姉さんはキャラメルミルク色のドレスに、アトランティス風の黄金細工のピンブローチを付けていた。ふたりともおろしたての白い手袋をつけている。
「赤毛って、春っぽい色が似合わないのよね。この生地も淡いから、髪の毛が悪目立ちしてるんじゃないかしら?」
「気にするな。前の沃素色より、写真の写りは良くなる」
「ルイはモノクロ思考なんだから」
兄さんと姉さんは双子。
顔立ちは瓜二つ、背丈も手のサイズも大差無い。
でもルイ兄さんは写真家だ。薬品のせいで、額に白い斑紋があり、指先は黒ずんでいる。逆に姉さんはお客さまの応対するから、日焼けや肌荒れを気にして手入れを怠らない。
ぐにゃっとした動きの兄さんと、てきぱきした姉さん。
無表情な兄さんと、喜怒哀楽がはっきりした姉さん。
声だって性格だって全然違う。
そっくりだけど入れ替われない。
……でも写真家になる前、他の家族が亡くなった時期なら入れ替われる。
最近、ふたりの性別に疑問を抱いてた。
疑い始めると、小さなことまで気になって来る。
この前、兄さんの上半身を見たけど、女性じゃなかった。でも男性っぽい体つきの女性かもしれない。
入れ替わる理由は分からないけど、ぼくがびっくりする事情があるんだろうか。
どんな事情があったって、家族だ。
ぼくは少し大人になったんだから、教えてくれればいいのに。
「カイ。新しい革靴、具合はどうかしら?」
姉さんが不安そうに、ぼくの足元へ視線を送る。
二か月前にセミオーダーで注文した革靴だ。深みのある黒革で、銀バックルが付いている。履き口には絹が縁どられていた。
この革靴のデザイン、ラリマー編集長が宮中に上がった時と似た感じだ。貴族っぽいフォーマルさ。
「硬いけど馴染むよ。きちんと採寸しただけあるね。高かったよね」
「安くはないけど、スフェール学院の生徒だったらこのくらいの靴は不可欠よ」
姉さんときたら、もうぼくが合格したような口ぶりだ。
教授の推薦とエランさんの推敲があるとはいえ、まだ決定ではない。
「寄宿舎にお嬢さんを入れている奥さまから、お話を聞いたのよ。寄宿舎だと靴は消灯後に部屋から出しておいて、使用人が回収して磨くのよ。でも質の落ちる靴だと後回しにされるらしいわ。使用人からの評価のために、靴は上等にしておくのが常識らしいの」
怖い世界だ……
そういう階級だって承知した上で進学を決意したんだけど、具体的なエピソードがくると及び腰になる。
「使用人に値踏みされるって不安だわ。特に給費生なんて扱いがぞんざいらしいのよ。洗濯婦にまで侮られて、肌着も失くされたりくすねられたりするそうよ。教授の推薦があったって、労働者階級には後ろ盾なんて分からないでしょうし」
ぼくより不安そうに眉を曇らせている。
「パティ。暗い事ばかり口にするな。写真を撮るぞ」
誕生日の記念撮影だ。
うちの二階は、撮影室だ。屋根は大きな天窓になっている。柔らかな自然光にするため、薄い紗に覆われていた。
撹拌されて円やかになった日が差し込むのは、天鵞絨の御伽椅子。
いつもお客さまが腰かける椅子。そこに座り、姉さんは後ろに立つ。
「露光は三秒だな」
兄さんは呟き、カメラのレンズが向けられた。
ぼくと姉さんは微動だにせず、長い長い三秒を過ごす。写真に時間を留めるために、自分自身の時間も止めているみたいだ。
レンズがキャップで塞がれると、堰き止められてた時間が流れていく。
やっと呼吸ができる。
「カイ」
今日はぼくも写真を撮らせてもらえる約束だ。
写真機に入っている銀板は、自分で第二研磨までした努力の結晶だ。
三時間かけてセーム革で磨き抜いたんだから、絶対に綺麗に撮れるはず。
天気の具合が変わらないうちに撮らなくちゃ。
兄さんと姉さんが並ぶ。
レンズ越しに覗くと、さかしまに写る。
えっ?
三人、映ってる?
思わぬ人影に、皮膚が総毛立つ。
いや、見間違いだ。
ふたりしかいないけど、兄さんの近くに人影がひとつ。明るい影みたいだ。
レンズの濁りにしては、絶えず揺らめいている。
雲の影が錯覚を引き起こしたのか?
いや、今は原因を考えている暇はない。
兄さんの懐中時計の秒針に集中するんだ。刻んでいる秒針より、ぼくの心臓の音の方が大きい。秒読みを間違うんじゃないかってくらい大きかった。呼吸ひとつできない。
三秒余りが過ぎて、レンズを塞ぐ。
兄さんはカメラを開き、銀板を抱える。
これから現像作業だ。
「ぼくも見てていい?」
「水銀は危ないわよ」
姉さんは止めたけど、兄さんは少し考えていた。
「幽体離脱していれば被曝しない」
「幽体離脱が危険でしょ!」
心配性の姉さんは阻んできたが、兄さんは楽観的だった。
「家の敷地内くらいなら平気だろう。カイはいつも幽体離脱している」
魔力持ちの兄さんはお見通しだったみたいだ。
ぼくの部屋は屋根裏だから、一階まで降りるのが少し面倒だ。食事ができたかどうかとか郵便が届いたとか、幽体離脱して覗いている。
兄さんの許可を得れたので、肉体を置き去りにして、一階の暗室へと行く。
空気は循環しているけど、光は差し込まない小部屋だ。
「【庇護】」
兄さんは呪文によって、薄い風の膜を張り巡らせた。それからゴーグルとマスクをつける。
逆三角形の器具が、机に置かれている。水銀現像器だ。
上部に銀板を差し込んで、下部のアルコールランプを灯す。ランプの熱で水銀を熱して、銀板の結晶を安定させるんだ。ランプの芯が燃える音は、光と銀が輪郭を得ていく響きだ。
兄さんは懐中時計を見つめ、現像時間を計測していった。
約三分。現像器から銀板を引き抜き、流し場の純水で洗い流していく。
写真が完成した。
ぼくの分も現像してくれる。
「上出来だ。鮮明に写っている」
「………三人、ひとがいる」
レンズを覗いた時より、靄が鮮明だ。これは人間のかたちをしている。
「おれとパティしか映ってないぞ。雲の影だろう」
言い切られたけど、ぼくには人間に見える。それも男の人だ。
「パティが心配するから、早く肉体に戻るといい」
肉体に戻れば、姉さんは撮影室にある本に目を通していた。
「写真、うまく撮れた?」
「変なもやもやが写り込んでいる」
そう話しながら、一階へと降りる。
兄さんが暗室から出てきた。二枚とも洗浄が終わったんだ。
「カイが写したのも綺麗に撮れている。多少は靄が入ったが、大したことじゃない」
明るいところで見れば、たしかに靄が過っているけど、他の輪郭はしっかりしていた。
やっぱり気のせい?
「あら、良い感じね」
姉さんは上機嫌な笑顔だ。慰めとかではなくて、ほんとに良い写真が撮れたって口ぶりだ。
「でも兄さんの方が、鮮明だよ」
定着液も感光処理もレンズも絞りも現像も、条件は等しい。
だけどなんとなく兄さんの方が澄み渡っている。
輪郭が際立っているし、深みと質感がある。
ぼくの撮影した写真は黒いところがのっぺりしてるけど、兄さんのは素材の質感まで分かる。同じ黒でも全然違う。
「当たり前だ。本職だぞ」
「カイだって何年かすればもっと上達するわ」
姉さんは外套を手渡してきた。ぼくと兄さんの外套だ。
「さ、食事に行きましょう」
誕生日はレストランで晩餐。
うちのいつもの習慣だ。
「カイ。新しい靴で歩いて平気? 替えの靴を持っていくわ」
「大丈夫だって。お洒落して替えの靴を持ち歩くのも、おかしいよ」
姉さんの中では、いつまでもぼくはちっちゃな末っ子なんだな。
「パティ。カイの足が痛くなったら、辻馬車を呼ばせる。行くぞ」
兄さんに促されて、姉さんは替えの靴を諦めた。




