神さまがひとを愛するように 前編
エクラン王国に戻って、駅前で夕焼けを吸い込むくらい深く呼吸した。バギエ公国の残り香を肺から吐いて、凛とした空気を吸う。
乾いた風に乗って、遠くから手回しオルガンの音色が流れてくる。
ああ、エクラン王国に帰ってきたんだ。
辻馬車のたまり場で、ルイ兄さんが待っていた。
「大漁だな」
視線が合うや否や、兄さんはそれだけ呟いた。
ぼくの荷物は元々持ってたトランクと、ヴェルミリオンおじさんに持たされた大量の荷物。
「ヴェルミヨンおじさんからのお土産だよ。マーマレード、パイナップルの砂糖漬け、オリーブの塩漬け、あとアンチョビにんにくソース」
オリーブやアンチョビって、エクラン王国だと輸入食品専門店にしかない。でもバギエ公国は各ご家庭で手作りが普通らしくて、瓶詰めをたっぷり持たさせてくれた。
重くて肩が外れそう。
「ぜんぶ自家製。おじいちゃんが子供の頃から、ずっと変わってないレシピだって」
「それは楽しみだ」
兄さんはほとんど無表情なんだけど、口角から頬が緩んでいた。かなり大喜びしているぞ。オリーブやにんにく料理が好きだからな。
清潔で傷の無い辻馬車に乗れば、礼儀正しい御者さんが一礼して手綱を操る。整備された車輪は滑らかに、舗装された道路を進んだ。
快適だ。
エクラン王国って舗装から交通機関まで、快適だったんだ……!
「バギエ公国はどうだった?」
「風景はすっごい良かったよ。どこまで歩いても、風景画みたいなんだ。ほんとにきれいな絵の中に迷い込んだみたい。あとごはんも美味しくて。青魚とオレンジなんて身分違いなのに、そのマリネが美味しかったんだ。ほんとうに良くしてもらえたから、またご挨拶に伺いたいけど、道行く人は乱暴な口調ばっかりで、最近は治安が悪化してるから、二の足踏む」
「そうか。嫌な思いをさせたか」
「ううん! ぼくは神さまが守ってくれたから大丈夫! 行けて良かったよ、ほんとうに」
初っ端から災難に遭ったりしたけど、バギエ公国を見て来れて幸せだ。強がりじゃない。
「………おじいちゃんの匂いだったんだ、バギエ公国は」
そう呟くと、ルイ兄さんは優しく瞳を細める。
「ああ、そうだな。磯や樽の香り、帆船に使うタールや麻袋の匂い……それから新鮮な魚と…漬けた魚。カイも一度はあの国に行くといいと思っていたんだ」
辻馬車に揺られながら、おじいちゃんの思い出をぽつぽつと交わした。
それほど時間かからず、自宅に到着する。おじいちゃんとぼくらが暮らした赤い屋根の家だ。
パティ姉さんはご馳走を用意して待っていた。
「久しぶりの小麦とお肉ね」
ハスキーボイスが喜びに打ち震えている。
短いとはいえ喪中は小麦と肉が食べられなかった。ぼくと兄さんは魚が好きだけど、姉さんはそうでもないから、悦びも一塩みたいだ。
テーブルクロスの上で湯気を香らせているのは、ラムの香草焼きだ。ローズマリーと杜松の実の香りが圧倒的だった。
それと紫キャベツのワインゼリー寄せ、りんごとクルミのサラダ。いちごとラベンダーのパウンドケーキ。
お肉にアンチョビソースを添える。兄さんはたっぷりと、ぼくはちょっぴり、姉さんは香草だけで味わった。
満たされてくる。
おなかだけじゃなくて、気持ちも。
ぼくはバギエ公国で普段食べられないものを味わった。エキュム・ド・メール氏に供されたのは、海亀のスープに、帆立貝のオランジェムース。ヴェルミリオンおじさんの家では、青魚のオレンジマリネと貝のにんにく焼き。どれも絶品だった。
でも家族そろった食事は、おなか以外も満たされる。
「揃って食事できるのってほんとうにいいわね」
姉さんもラム肉じゃなくて幸せを噛み締めているみたいだ。
うちは食卓の人数が減るばかりだ。
父さんと母さん、それからおじいちゃん。
たった数日でもふたりきりだったのは寂しかったのかな。
スフェール学院に進学しても、週末くらいは食卓を囲めたらいいな。
夕餉が終われば、おなかは弾けそうなほど膨れている。
食器を片付けなくちゃいけないのに。
「カイは疲れてるでしょ。いいわよ。明日も休んでいて」
「明日は午後からアルの家に行くんだ。バギエ公国から帰ってきたら、行く約束してる」
顕微鏡。
虫メガネは一枚のレンズだけど、顕微鏡は対物と接眼の二枚を組み合わせて、物を拡大して見せている。
レンズを二枚使うせいで色ズレとか起きるけど、帝国式の最新顕微鏡はクリアだった。こういう誰でも使える技術への情熱って、やっぱり帝国が随一なのかな。
カメラの最高級レンズも、帝国産だし。
真鍮製のぴかぴかした顕微鏡で、川砂を観察してより分ける。
川砂の中に、宝石粒が無いことを確かめているんだ。
宝石粒が見つからなければ、鉱石の産地を狭められる。
不毛かつ有意義な作業。
小瓶を三つ分やると目が疲れてきた。椅子に腰かけたまま両腕を上げて、思いっ切り伸びをする。軋む椅子と、背後の足音が重なった。
「カイ、そろそろ休めよ」
アルに声をかけられる。
ここはアルのうちの男の子部屋だ。
ボトルシップとかブリキの機関車、けん玉にボードケーム。いろんなものごった煮になっている。
アルの区画には、採取してきた母岩付き鉱石や、買ってきた鉱石標本、地図や地質学の本が並べられていた。
アルは地質学が好きで、地層とか鉱床の観察をしている。
「顕微鏡を使わせてくれてありがとう」
この真鍮の顕微鏡は、アルの宝物だ。
友達だからって使わせてもらえると思わなかった。
貴族とか財閥の子だったら、家に顕微鏡とか望遠鏡があって使い慣れているんだろうけど、一般市民の家には滅多にない。スフェール学院に入るんだったら、高価な機材にも慣れておきたい。
きちんと片付けて、クルミ材の箱にしまう。
「お前はこういうの興味ないって思ってたけど、興味を持ってくれるなら貸すさ。夏だったら廃坑とか試掘の近くまで連れていってやれたけど」
王都の近隣にも、採算が取れなくて塞いだ採取場がいくつかある。鉱石が採取できないこともないけど、利益を出すため、枯渇する前に撤退するから。
あと落盤事故で幽霊が大量に発生して、危険地に指定されることもある。
アルはそういう廃坑の下流で、川砂を採取していた。
夏なら楽しめそうだけど、春に山中はきついな。
地層観察だけなら星幽体でも出来るけど、鉱石探しするなら肉体も連れていかなくちゃいけないし。肉体の移動費用ってけっこうかかる。
玄関の方からがやがやと、女の子たちの声が聞こえてくる。
「うわ。女ども、帰ってくるの早くねーか」
凄まじく嫌そうに、カーテンの隙間から玄関先を覗く。
アルの姉と従姉と妹と従妹と姪がおしゃべりしている。よく似ているから五姉妹みたいだ。
女の子たちのおしゃべりは、朝焼けの小鳥より騒がしかった。
正直、歳の近い妹弟って羨ましい。
ルイ兄さんもパティ姉さんも好きだけど、やっぱり年の差があるから保護者って感じだし。
でもアルは甲高い騒がしさにうんざりしているみたいだった。
「カイ。冒険者ギルドの鉱石屋に行かねーか?」
春先のエクラン王国は、曇り空。
ほのかに青みがかかった灰色。雲は重たげに重なっているから、鉛めいている。
でも穏やかな空気だった。散策するには程よいから、犬を連れて散歩している人も多い。
商店街を突っ切り、狭い路地を進む。
怪しげな鉱石商だ。
まず窓無しだから店内は覗けないし、看板だって出ていない。扉に冒険ギルド紋章が刻まれているから、ギルド組合に入っているのは間違いない。
「ぼくひとりだったら、絶対に入れないや」
「俺も最初は兄貴に連れてきてもらった」
ずっしりとした青銅のドアノブは、お客を拒絶する重々しさだった。薄暗い店内には、冒険者ギルドから卸された鉱石が並ぶ。
不愛想な店内には、不愛想な店主。
いらっしゃいの一言もなく、冷光だけで新聞を読んでいた。
大きい結晶はカウンターの後ろに、鉄柵付き棚に鎮座している。だけどそれほど値段が高くない鉱石は、壁の作り付けの棚に転がされていた。不用心な陳列だ。
とはいえ山の深くから掘り出されてきて、土の匂いさえ残っている鉱石や岩石だ。
悪事を計画するにも、出来心を起こすにも、重くて大きい。岩なんて土属性のかたまりを【浮遊】させるくらい魔力が強かったら、工事現場で働いた方が稼げる。
アルはうきうきと棚を見上げる。
「俺はここ、母岩を残してくれるから好きなんだよな。表通りに売ってるやつって、母岩が無かったり、もう研磨済みだったりして情報量が減っちまってるから。ほら、あれは柘榴石の母岩」
アルが指さしたのは、赤いつぶつぶがついた白っぽい岩。
「これは角閃岩っていう種類の変成岩かな」
「……りんごって種類の果物、って区分でいいのかな?」
「そんな感じ!」
生き生きと頷いてくれる。
どうしよう、用語が初耳ばかりだ。
スフェール学院で授業についていけるのかな。
「変成岩は岩石が熱とか圧力を受けて、再結晶した岩なんだ。ショコラチップ入りのミルクアイスが解けてまた固まると、ミルク風味のショコラアイスになるだろ。岩石の質もそのくらい変化する」
「なるほど?」
不朽不変っぽい岩石でも一度融けて固まると、性質がまったく変わるんだ。
「圧力や熱ってことは全体が潰された状態で変化する。だから宝石が産まれても、大きい結晶に成長できない。でも熱や圧力を宝石が孕むと、鮮やかな赤や緑になるんだ。変成岩は大きな結晶を産みにくいけど、代わりにルビーやガーネットみたいな色彩を産んでくれるんだ」
「なるほど?」
「大地の脈動や地熱で、宝石が産まれていくのって、悠久の浪漫があるよな!」
アルは明るく力説する。
地質の魅力は分からないけど、友達が楽しそうだとぼくにも楽しさが沸いてきた。
喋っていると、扉のベルが響いた。別のお客さんが入ってくる。静かに石を眺めなくちゃ。
「ちがうでしょ、お父さん、わたし、きらきらきれいなお店って言ったでしょ」
棚の向こう側から、ちっちゃい女の子の癇癪声が爆発した。
ああ、幼女が綺麗なもの売ってるお店に行きたいっておねだりして、父親が鉱石店に連れてきちゃったのか。宝飾店とか裸石専門店なら兎も角、こんな岩ごつごつしたお店じゃ、幼女的には違うって泣きたくなるよな。
可哀想にと思いながら、お客さんを見る。
知ってる相手だった。
「……ニケル氏じゃないですか、こんなところで珍しいですね」
「きれいでお洒落なお店に行きたいって、娘におねだりされてさ」
ニケル氏がちっちゃな女の子を抱えている。
四歳か五歳くらいかな? まだ学校に通ってない年頃。
金属光沢の強い鉛色の髪をふわふわさせて、大きなシフォネットを結んでいる。瞳も鉛色。ニケル氏のシャツも娘さんのワンピースも、同じ染料から染めた派手な朱金。【防炎】の護符として、六角紅玉のブローチをしていた。
顔立ちはニケル氏にそっくりだ。
親子なんだから当たり前だけど、眉から目鼻立ち、耳の形まで同じなんだ。
おっと。娘さんを観察するのも失礼だし、アルを放置しておくのも友達甲斐がない。
「アル。こちらは新聞記者のニケル氏で、ぼくがお世話になったんだ」
にこやかな挨拶を交わすけど、幼女は膨れている。ほっぺが爆発しそうだった。
「プロンちゃん。ほら、あの石とか綺麗だろ?」
「お父さんは分かってない!」
小さな手でニケル氏のピアスを叩く。ぺちぺちと真珠の房が揺れた。
「ごめんな。お父さんはプロンちゃん以外とデートしたことないから」
ぼくはデートした経験ないけど、幼女がここを綺麗でお洒落な店とは思わないのは予測できる。魔術師じゃあるまいし。
でも交友範囲が魔術師ばっかりなら、女の子でも楽しめるお店って認識になっちゃうかも。
「きみたち、女の子を満たせるお店って知ってる?」
少女が好きそうな店?
ふわっとしたイメージはあるけど、実際の店舗は思いつかない。姉さんの行きつけの花屋や香水化粧店なんて、場所知らないし。
「知ってます」
アルが応えた。
「知ってるの?」
「セラが贔屓にしている店なら」
可愛さ至上主義のセラの好みか。
それならきっと、どんなワガママなお姫さまだって喜ぶんじゃないかな。




