七限目 錯綜グリモア
エランさんからの紹介状で、廻船商のお屋敷にすぐ入れた。
こんな災難の待っ最中に押しかけたんだ。絶対に待たされるだろうと覚悟したんだけど、すぐ男性使用人が来てくれる。
ぼくたちを案内してくれるのは、華やかな顔立ちと華やかな身なりをした使用人だ。ゆったりと垂れる絹の衣装に、護符の石英や瑪瑙が金糸と銀糸で縫い込まれている。もしかしてこれも砂漠帝国風というやつなのかな?
歩廊を通って、中庭を通り抜ける。
モザイクタイルを敷き詰められた噴水付きの中庭だ。
さらさらと噴き上がる硬質な水が、中庭そのものを涼ませている。
心地よさそうな風景だ。
もし泥棒に本を盗まれていなければ、ぼくはきっとすがすがしい気分ですべてを眺められたんだろう。
泥棒のせいで、何もかもがどんよりしている。
「こちらの応接間で主をお待ちください」
案内された部屋は、大理石のモザイクの広間だった。床には極彩色の絨毯が敷き詰められて、モザイク硝子のランプが並んでいる。鮮やかさと明るさが閾値を超えていた。
壁は書物。
四方が書架で埋め尽くされて、天井までみっしりと詰まっていた。
背表紙で作られたモザイクみたいだ。
使用人が立ち去ると、ぼくの唇から思わず感嘆の吐息が落ちる。
「豪奢ですね。案内の方は応接間っておっしゃってましたけど、これだけの書架があったら書斎じゃないんですか」
「ふむ。書の並びからするに、客人が触れても構わん書物ばかりと見受けた。一般流通している辞典や図鑑、歴史書ばかりだな」
リュティル氏の呟き通り、辞書や図鑑が多い。
ほとんどバギエ公国の出版物なんだろう。知らない図鑑ばかりだ。星の図鑑や星智書もあるのかな。
「とりあえず座って待つとしよう」
「はい。こういう洒脱なお部屋って、椅子がぽつぽつ点在していますけど、どこが上座なんでしょう」
空間に余裕がある貴族の家って、椅子を自由に置いてる。
普通は暖炉が上座なのだ。
だけど応接間なのに暖炉がない。
「バギエ公国って暖炉がいらないくらい暖かいんですかね」
「うむ、南国だからな。だがさすがに冬や夜間はぬくもりが恋しかろう。セントラルヒーティングが控えているぞ」
リュティル氏が指し示したのは、アコーディオンみたいな大きな物体だった。
セントラルヒーティング。
温水をパイプで通して、建物全体を温める仕組みだ。
「これ、個人宅でも設置できるんですね。図書館とか資料館にあるイメージでしたけど」
「短所は初期投資くらいだからな。火事にならんという強みは偉大だ」
「そっか。お金持ちの蔵書家なら、これくらい設置するのか」
「しかも屋敷に入ってから、燭台がひとつも見当たらん。【光】の護符の魔術ランタンばかりだ」
言われてみれば、モザイク硝子のランプに入っているのは【光】の護符ばかり。護符の光だけで読書すると目が疲れる気がするけど、読書より収集を重視していたら、こうなるのか。
光はあっても、火は排されている。
「その上、【耐炎】の護符まで飾られている」
徹底的だな。
「でも防犯は徹底していなかったんですね」
悔しさが呟きになって零れてしまった。
いけない、いけない。盗られた方を悪しざまに言うなんて最悪だ。泥棒の肩を持つ言動をしてしまったら、卑しい。
「悪いのは全部、クワルツ・ド・ロッシュとかいう泥棒!」
「怪盗だが」
「何が違うんですか」
掏摸と強盗くらい違うんだろうか。
「予告状を出して衆目を集め、犯罪哲学と怪盗倫理に則って盗み出すところだな」
「迷惑なのは同じですよ」
きっぱり言い放つ。
「それもそうだな。ああ、カイユーくんはこの二人掛けに座るといい」
リュティル氏に二人掛けを示された。
「どちらが話す相手なのか分かるようにせんと、向こうも戸惑ってしまう。きみが商談相手なのだから、セントラルヒーティング側へ」
ぼくは二人掛けに腰かける。リュティル氏はぼくの後ろに立ったままだ。
どちらが商談相手かはっきり示す。
もしぼくがエランさんや教授のお供でどこかに招かれたとしたら、リュティル氏みたいな姿勢で待機しなくちゃいけないのか。
ぼくが落ち着くと、タイミングを計ったようにエキュム・ド・メール氏がやってくる。
異国情緒の馨しい老紳士だ。
蜜褐色の膚は日焼けと歳月で、皺のよった鞣革のようになっていた。両目の色が違う。右目は飴色、左目はほとんど白に近くて、瞳孔がくっきりしている。象牙色の乗馬着は珍しいけど、よく似あっていた。
ぼくの向かい側の椅子に腰を下ろす。
「エクラン王国から遠路はるばるお越しいただいたのに、このような次第で申し訳ない。まさか盗まれるとは」
「いえ、エキュム・ド・メール氏もこたびの災難、大変お気の毒に存じます。お怪我無くともご心痛余りあること。どうぞご自愛ください」
脳内にいる姉さんから、社交儀礼のご挨拶を引っ張り出す。
しょんぼりした気分だから、うまく受け答えできているか分からない。
会話の途切れを見計らったみたいに、使用人が飲み物を持ってくる。カップは三人分。
ココア鍋よりもっと細長い鍋から、真っ黒い液体が注がれる。
この香り、珈琲だ。
本物の味がした。高級品は飲んだことない。でも一瞬でこれが本物なんだって分かるくらいの馨しさと密度があった。少なくともうちで飲む大麦配合の庶民向け珈琲じゃない。
値段が倍違いじゃなくて桁違いだ。
貴族でも出迎えたような持て成しだな。
珈琲を重ねて勧められたけど、濃すぎるから二杯目は辞退した。大麦入り珈琲が当たり前な庶民にとって、この黒は無垢過ぎる。
リュティル氏は優雅に二杯目を味わっていた。
「怪盗からの予告状は届いていて、無論、わしも警戒をしました。馴染みの冒険者を何人も呼び寄せましたよ。全員、信頼が置ける腕利きです」
そこまで告げて、エキュム・ド・メール氏はため息を句読点にした。
「そのうちのひとりが怪盗の変装だったのです」
「馴染みなのにバレなかったんですか?」
「怪盗クワルツ・ド・ロッシュ。変装の名人にして、盗みの天才。きみの世代だと知らぬでしょうが、きみのご両親の世代なら知っているでしょう。あの頃はエクラン王国を中心にバギエ公国、プドリエ大公国の新聞を騒がせていましたよ」
耳にしたことないはずだ。
ぼくが幼い頃に、両親は事故で亡くなった。両親が若い時代の事件なんて、うちでは話題に上がらない。
「あの偽書が怪盗クワルツ・ド・ロッシュに狙われるほどの価値があるとは……」
「偽書?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまった。
教授があれだけ熱心に求めた書が、真っ赤な偽物?
そんな馬鹿な。
「ええ。もちろんあの原始エノク語詩集がレムリア偽書なのは、ご存じでしょう」
「ぼくは使い走りです。ただ原始エノク語の詩集があるから、それを受け取るようにと……偽物なんですか?」
「偽書ではありますが、贋作とは限らない」
ぼくが呑み込めずにいると、エキュム・ド・メール氏は説明のために口を開いてくれた。
「あの詩集は沈没船の中から発見されて、筆者どころか来歴は不明なのですよ。原始エノク語を多少嗜むので買い取りましたが、内容は未知の詩でした。文体は正しく、未発見の単語も含まれていたため、世紀の発見かもしれないと。もしや失われた原始エノク語の詩が、どこかの少数民族……たとえば星の民や森の民に、伝わっていたものを誰かが書き留めたのかもしれない」
「一億年前の詩を?」
「北方沿岸では稀とはいえ事例がありますよ。海の民がレムリア時代の遺物を伝え、過去視で歌や文化を継承してきた」
エキュム・ド・メール氏の説明に、リュティル氏が頷いた。
過去視での文化継承。
たまにそういうニュースを、魔術系の記事で読んだ。
「ですが解読を進めていけば、そうではないと分かったのです。詩集には、レムリア時代に無かった薔薇や菫まで言及されている。これは後世の偽作でしょう。非常によくできた、芸術性の高い偽作。とはいえ、いつ綴られた偽作なのかまでは解明されていません」
いつ、という言葉に力がこもっていた。
「綴られたのは現代だとしても、近代詩人の未発表作かもしれない。あるいは教会が勢力を増す以前か。もし千年前の砂漠帝国で綴られたものなら、当時どこまで原始エノク語が残っていたか言語の変容を解明できる。アトランティス時代なら途方もない考古学的価値がある。それはもう、かの名高き奇書『死者の影語り』ほどに」
レムリア時代ではない原始エノク語。
価値のある偽物か。
「奇書『死者の影語り』と並ばせるのは大袈裟とはいえ、原始エノク語に精通した詩です。興味深いと思い、書き写しを命じたのです」
じゃあ複写は残っているんだ。
ノックが響いて、華やかな使用人が入ってくる。
音に出さない声で、エキュム氏へと耳打ちする。
使用人は端整な表情を崩してないし、エキュム氏も鷹揚としているけど、あまり良い知らせでないんだろう。なんとなくそんな気配がした。
「御客人がいらしたのに申し訳ない。商会の件で急ぎが入りました。怪盗のせいで港に検問が入って、荷揚げも滞っている様子でしてね」
廻船商だから、船の廻りが悪いと死活問題だろうな。
まったく迷惑な泥棒だ。
「失礼させて頂きますが、ごゆっくりお過ごしいただければ、わしの面目も立ちます。よろしければ晩餐まで書斎でおくつろぎを。ご興味があればどうぞお手に取りください。中庭も散策をご自由に」
エキュム・ド・メール氏はたとえ盗難事件がなくともご多忙の身だ。
ぼくとリュティル氏が残される。
珈琲の残り香の中、ぼくはぐるっと周囲を見回した。
これだけの書架があれば退屈はしなさそうだけど、リュティル氏は読書お好きなのかな。好きじゃなかったら、書籍なんて壁紙と等しい。
「カイユーくん。エシェックを嗜むかね?」
リュティル氏は手の内側で駒を転がしていた。
部屋の片隅に、エシェック盤がある。文字たちに圧倒されて控えめに佇んでいるけど、半貴石から彫られた駒は異国的で綺麗だ。
「駒の動かし方くらいは知ってますけど、弱いですよ」
「構わんよ。吾輩とて手慰み程度だ」
謙遜じゃないといいな。
弱い者同士だったら暇つぶしには程よいけど、実力差があり過ぎるとつまらない。
ぼくたちは差し向かいになってエシェックの駒を動かす。
「沈んでいるようだが、使いを出した方にお叱りを受けるかね?」
「叱られはしません」
震える声を絞り出す。
「でも教授がどれほど落胆されるか。これならいっそ門前払いを喰らった方がマシだった」
役に立ちたかった。
それ以上に、教授に喜んでほしかった。
ぼくが役立たずでも、教授が欲しいものが手に入ればいいのに。
「教授か……言語考古学の教授かな?」
「いえ、教授は闇魔術が専門です。エクラン王国きっての名門校スフェール学院の大学部で、教鞭を取っているんですよ。甥御さんが言語考古学の魔術師だから、たぶんその方に贈るんじゃないかなって思ってます」
「……ほお」
相槌の前に、コンマ零秒以下の沈黙が走る。
もしかして闇魔術を嫌っている主義だったのかな。
「恐ろしい方じゃなんですよ! 闇魔術って怖い印象があるんですが、教授はその魔術をエクラン王国の平和のために使っているんです」
「ふむ」
「まさにエクラン王国の守護天使なんですよ、教授は」
瞬間、リュティル氏が固まった。
やおら分厚い眼鏡を取り、手のひらで目元を覆った。
「リュティル氏? 目にゴミでも入りました?」
「ま、まあ、そういう、なんというか、あれだな。うむ」
意味のない言葉の羅列が続く。
しばらく目元を覆っていたが、呼吸を整えて眼鏡をかけ直した。
目のゴミが取れたのかな?
「きみがそこまで敬する相手なら、のっぴきならない事情を理解頂けるだろう」
「ご理解頂けるとは思いますが、教授は落胆されると思います」
「真に卓越した魔術師ならば、望むものが手に入らない程度で折れたりせんよ。幾万の障害を乗り越えて目指した先の石版が、破壊し尽くされていたなど稀有ではない」
慰めてくれているんだろうけど、やっぱり辛い。
粛然としてそこにある事実は、どんな言葉だってひっくり返せない。
応接間に沈黙が飽和する。
リュティル氏が駒を動かした後、微かに顔を廊下側へと向けた。次いで廊下から慌ただしい声が聞こえてくる。
扉が乱暴に開けられる。
着飾った使用人が飛び込んできた。
肌の色が濃くて分かりにくいけど、血相を変えている。一体何だろう、まさかまた泥棒?
「火事です、お客人! こちらへ!」
は?
火事?
こんな防火が徹底されたお屋敷で、火事?




