三限目 追憶アザラン
とんでもない台詞を耳にして、慌ててこっそり覗き込んだ。
スフェール学院進学にまだ反対なの?
今更、反対されたくない。
立ち聞きなんてお行儀悪いけど、これはぼくの将来に関わるんだ。神さまに怒られないだろう。
銀の肖像写真に取り囲まれた応接間。
そこで姉さんと兄さんは、作業用のエプロンをして、カーテンの取り換えをしていた。一人では抱えていられないほど重たい綴れ織りを、ふたりで息を揃えて外していく。
応接間は日が深く差し込まないような角度になっているけど、カーテンを取ると明るさが増していた。
一足先に冬を掃き出して、春を出迎えようとしてる。
「学校が補習してくれないなんて、有り得るの? それに生徒はみんな立派な仕立てで、靴まできらきらしているのよ。泥が存在しない世界だわ。あんな余所行きの恰好を、毎日やっているなんて……」
「上機嫌だな」
どこが上機嫌なんだ。
兄さんの発言にびっくりしたけど、姉さんは吊り上がっていた眉を緩めた。室内の空気も緩む。
「カイユーの幽体離脱」
姉さんが不意に呟く。
ぼくの盗み聞きを気づかれたかと思ったけど、姉さんは穏やかなまま手元を眺めていた。
「エランさんにね、自分の魔法を愛せているのは、環境が良かったからって言われたの」
学院を見学しに行った時の話か。
姉さんがぽつぽつ語り、兄さんは無表情で聞いている。聞いているのか聞いていないのか分からない表情だけど、耳を傾けている雰囲気だ。
「おじいちゃんが亡くなった頃、本当にどうしようかって途方に暮れたわよ。カイユーみたいなちっちゃい子の世話ができるか、あなたと毎日泣いてた」
泣いてたんだ。
ぼくにそんな気弱な素振りを見せなかった。ふたりとも影で泣いてたんだ。
「大叔母さまに引き取ってもらうのが良かったんだろうかって。でも写真館を畳むのだけは嫌だった。でもそれはただのワガママだったかもしれないって……」
おじいちゃんの妹は、バギエ公国で暮らしている。年に一度か二度くらいは手紙も届いていた。
追悼ミサに来てたのは覚えているけど、ぼくたちを引き取るって話があったのか。
おじいちゃんの葬儀の時、兄さんも姉さんも16歳だったっけ。働けるけど未成年だ。ふたりだけなら兎も角、9歳のぼくもいた。親戚が引き取るって言いだすのも無理ない。
「だから、エランさんに環境が良かったって言われて救われたのよね。父さんにも母さんにも、おじいちゃんにも顔向けできるって。うちのちっちゃな末っ子を立派な育てたんだって………でも、もうここまで」
姉さんは項垂れた。
泣いているようにも、微笑んでいるようにも見える。どっちなんだろう。どっちでもない気がする。
「カイユーが月に行きたいって言った時、夢物語って思ったのよ」
モリオン氏と馬車でした進路相談か。
姉さんは夢物語だって受け取ったんだ。
でも誰でもそう思うんだろうな。アルやセラだって、ぼくを夢想家扱いするだろう。
「でも教授の甥御さんは、惑星探査に就けるための具体的な科目がスラスラ出てくるの。月や火星へ行く御伽噺は、スフェール学院の魔術師にとって現実と地続きなんだわ、きっと」
溜息をつく。
「スフェール学院に寄宿させるのは、今でも怖いわ。不安なのよ。でもカイユーを手の届く場所に留めておけば、きっとあの子の将来を閉ざしてしまう。カイユーが望むなら、宇宙と地続きの世界へ行ってほしい」
姉さんは顔を上げる。瞳は壁に飾られた写真たちに向けられた。
ぜんぶ同じ銀色だけど、ひとつとして同じ光景はない。
家族の思い出。
「おじいちゃんも絵を学びたくて、バギエ公国からエクラン王国に移り住んだのよ。魔導機関車の無い時代に。きっとカイユーはおじいちゃん似なのね。学びたいなら、世界を移ることを厭わない」
おじいちゃんの時代には大陸横断魔導機関車がまだない。
バギエ公国からエクラン王国の王都まで、何日も何日も舗装されてない道を進み、馬車を乗り継いでやってきたのだ。
「反対したいけど、我慢するわ」
兄さんは何も言わなかったけど、微かに頷いた。
静かになる。
だけど春の日差しに似た静けさだった。
カーテンが外された応接間で、姉さんは背筋を伸ばす。
「さ、早く掃除を終えましょ。ルイは真鍮磨き粉は蓋を開ける前に、養生布を敷いてよね」
「昔の話をいつまでも……」
裏の戸口でノックの響き。
郵便局の配達員だ。
「気合いを入れた途端、これなんだから」
姉さんがエプロンを外し、愛想のよい笑みを繕って、受け取りに行く。
届いたのはいくつかの封筒。
うちに配達される手紙は、慈善バザーのお誘いや、お客さんからの予約申し込みがほとんどだ。たまに兄さんか姉さんの友達から季節のお便りが届く。
春を意識した軽やかな色合いの封筒。その中に、縁が黒い封筒が一通あった。
訃報だ。
一体、誰が亡くなったんだ。
姉さんは慌てて、ペーパーナイフをペン立てから引っ張り出した。息を止めて封切る。
「ルイ。大叔母さまがお亡くなりになったわ」
ぼくは私立学校にある肉体に戻った。
途端に響く終業のベル。
担任からの居眠りのお叱りも無視して、アルとセラの誘いも断って、ぼくは真っすぐ自宅を目指す。
玄関に飛び込んで、食堂に入る。
パティ姉さんが食堂のパン棚に、墨染めのレースを被せていた。
あの墨染めレースがリネン室から引っ張り出されたのは、ぼくの知る限り二度。両親の葬儀と、おじいちゃんの葬儀だけ。
喪中の証しだ。
小麦のパンとお肉が食べられなくなる。ライ麦パンと魚だ。
「誰かお亡くなりになったの?」
幽体離脱で聞いていたとは言えないので、知らないふりをする。
我ながら白々しい。
「バギエ公国の大叔母さまよ。訃報が届いたの」
姉さんが訃報を見せてくれる。
厚手のフルスキャップ紙に、無骨な放ち書きで綴られている。悪筆ではないギリギリだ。
ほんの微かに鼻を刺激する潮風の名残り。
おじいちゃんと似た匂い。
『以前より足を挫いて寝たきりとなっていた母、アントラシットの魂が海に還りました。
凍雨月のはつか、近親によって葬儀を執り行い、追悼ミサは一週間後と三か月後に予定しております。
喪主 長男ヴェルミヨン』
「大叔母さまの追悼ミサ、ぼくが行っていいかな。だっておじいちゃんの追悼ミサに来てくれたし」
「よく覚えているわね。でもバギエ公国は遠いでしょ」
「魔導機関車に乗れば一日じゃないか! エクラン王国の辺境より近いよ」
ぼくが生まれた年に完成した大陸横断魔導機関車は、帝国と友好条例を結んだ国家に敷かれた。エクラン王国からプドリエ大公国、そしてバギエ公国にも。
「写真館の予約があるんだから、姉さんたちは行けないだろ。ぼくが花料を持っていく」
「でもあなた独りで国外にやるなんて。だいたいバギエ公国ってガラが悪いのよ。腕っぷしを自慢にして、他人に馴れ馴れしくて、託児園の乱暴者が躾けられずに大人になった連中ばっかりじゃない」
凄まじい言いようだ。
「とにかく品がないのよ。三か月後の追悼ミサに行くとお返事をするわ」
「三か月後じゃ、ぼくは入学準備で忙しくなってるかもしれないじゃないか」
姉さんの反論は予想済みだ。
脳内に用意しておいた意見を出す。
「それもそうだけど、あなた独りなんて絶対に……」
「いいじゃないか、パティ」
不意に兄さんがやってきた。
ふらりふらりと相変わらず揺らいだ動きで、椅子に腰を下ろす。落ちると言った方がいいくらい脱力しながら。
「魔導機関車なら逆に安全だ。駅に到着したら、すぐ乗合馬車に乗りこめばいい。一度、カイユーにもバギエ公国を見せておきたかった。スフェール学院に進学してしまったら、時間に余裕が出来るとは思えない」
「ルイ。そうだけど、でも独りじゃ……」
姉さんは不安で瞳が揺れている。
瞳孔の青さが錆びてしまいそうなほどだ。
それでも最終的に、ぼくのバギエ公国行きを許してくれた。
教授からのお使いを抱えて、ぼくはバギエ公国へ向かった。
おじいちゃんの生まれ故郷へと。




