第四十九話(後編)怪盗からの予告状
「……予告状」
リボンの結び目に触れる。途端、意思を持っているかのように、自然に解けていった。
便箋を開けば、微かなインクを香りと共に、古めかしい文字が現れる。
合字や省略形が多い。昔の修道士が写本する時に使う書体だ。テュルクワーズ猊下だってこんな古い書体を使わんぞ。
正直、魔術師には好まれない書体だから読みづらいんだけど、目だけで文章を追う。
「きみに予告状を送ったのは初めてだな」
両開きの窓は音も無く開かれていて、怪盗クワルツ・ド・ロッシュが腰かけていた。
黒い仮面に、黒革の服。
月面撫でる風に、水晶の髪も揺れる。
美しい窓枠に座したクワルツくんは、肖像画みたいだ。
「夕餉の時に予告状を置いたのね」
女性の寝室に無断で入るなんて悪いひとだ。
怪盗の不法侵入を咎めるのも無粋な気がするけど、ようこそと歓迎するのは悪役じてみている。
手の中の予告状を畳む。
「わたしの『時間』を盗むの?」
前の時間軸。
わたしが消し去って、記憶の中だけにしか存在しなくなった時間。
「いや、少し違うな。貰い受けに来た。きみが肯わねば、吾輩は立ち去るだけだ」
選択肢を委ねる口調だ。
「……クワルツくんはわたしのハッピーエンドを見守るって言ってたのに、今更そんなこと言い出すなんて。先生の差し金ですか?」
記憶の封印。
【星封】を開発したオプシディエンヌはとこしえの眠りについたけど、術式はモリオンくんが知っている。そして先生なら作れるだろう。
クワルツくんを焚きつけたのは、先生だな。
まったく。
レトン魔術師を個人教師に付けたと思ったら、今度はクワルツくんか。
よくよくあの男は、わたしの幸せばかり心砕いて立ち回っている。
「差し金とはいささか言葉が過ぎるな」
「そうでしょうかね。わたしは的確だと思って述べていますよ」
クワルツくんに言うふりをして、先生へ吐き出す。
先生が裏で工作しているとしたら、絶対、どこか遠くで【透聴】しているんだから。
「ご本人が言いに来ないんですか?」
「ミヌレくん。きみはあの男の要望だったら、おおむね叶えてしまうだろう」
「好きなひとのささやかな願いを叶えたい乙女心ですよ」
「きみが叶えたあの男の願いが! そのために歩んだ道程が! ……ただのひとつとて、ささやかだったことがあるか?」
語気は強かった。
その強さはわたしに向けられてはいないものの、軋む身体に障るほどだ。
そうね。
クワルツくんはずっと一緒にいてくれた。
時間障壁の彼方への旅路も。
雪の大山脈からの帰還も。
十二年の地球一周も。
北極巡礼も。
どれもささやかな旅じゃなかったわ。
クワルツくんが支えてくれなかったら、果たせなかった旅もある。
「きみの愛は献身的で、恋は狂信的だ。あの男はあの男なりに、きみの選択肢を……自由というものを、尊重したかったのだ」
「だからってクワルツくんに言わせるのは、良い気分ではありませんよ」
だいたい自分が【星封】受けた時は、記憶を自分のものにしたクセに、わたしのは封じようとするなんてどういう了見だ。身勝手じゃないか。
「ろくでもない男だが、記憶の封印に関しては吾輩も賛成だ。親友の死を記憶したままでは、心は晴れまい」
反射的に四肢が強張る。
どれほど優しい口調でも、癒えない傷を触れられれば身体が軋む。まるで骨や腱が、錆びた鉄になったみたい。
たしかに辛い。
でも、わたしの選んで歩いた道。わたしの選んで掴んだ結果。
投げ打つのは無責任なんじゃないか。
「クワルツくんだって、オンブルさんが亡くなった記憶はあるじゃない」
「きみと状況が違う」
言い返されてしまった。
オンブルさんは遠く離れた地で、火災によって亡くなった。
だけどわたしとマリヌちゃんは違う。殺し合ったのだ。
この手のひらには、彼女を殺めた感触が残っている。
一瞬、自分の手を見つめてしまいそうになった。目にしてしまったらそこに過去の血がこびりついているようで、わたしは視線を窓の外へと投げる。
窓の彼方では、月面の地平に、星明かりが浮かんでいた。
わたしはクワルツくんとの惑星層の旅を思い出す。惑星たちの天球音楽を伴奏に、彼は聖歌を歌い上げていた。
あれほど美しい歌はふたつとないだろう。
「ミヌレくん。エグマリヌ伯爵令嬢だけではない。きみは連盟に属する大陸鎮護の魔術師だ。消した時間軸で吾輩たちが殺めた魔術師たちと、これからも顔を突き合わせねばならん。それはハッピーエンドの瑕だ」
美しい聖歌を歌うのと同じ声で、わたしを説得している。
耳を傾けるだけじゃなくて、思わず聞き入れてしまいそう。
「前の時間軸……楽しいことだってあったわ。それをわたしとモリオンくんが忘れてしまって、クワルツくんだけが覚えているのは、寂しくありませんか?」
「友人が健やかなること。それが第一だろう」
寂しくないとは言わないのね。
黙ってしまえば、不規則な足音が廊下から聞こえてきた。
わたしの鼓膜に馴染んだ足音だ。
扉が開く。
先生だ。
白い仮面に、漆黒という概念そのものを織ったようなマントとローブ。そして星めいた呪符たち。
「ご自身でおっしゃりにいらっしゃったんですね」
静かに問えば、先生は唇を開く。
説得が紡がれるかと身構えたのに、吐き出されたのはやり切れないような息だけだった。苦悩の澱だ。そんなものが室内に充満してしまったら、聞いている方が鬱になる。
「散歩しませんか、湖の方へ」
先生を促す。
クワルツくんに見送られて、【庇護】をかけながら窓から飛び出した。
荒涼とした月面を歩けば、並ぶ影はふたつ。
高いクレーターが落とす影に混ざってしまえば、もうそこに囚われてしまいそうだった。
「ミヌレ………」
先生が僅かなりとも言葉を発したのは、象牙の塔が地平の彼方に姿を隠してからだった。
わたしたちが立つ場所には、灰に濁った地と、黒く澄んだ空だけが続く。
「正直、最初はきみが26歳で浮かれていた。中身だけとはいえ、私に釣り合う年頃になったきみを歓迎した。まったく恋をしている私は十代の頃と同じく、考えが浅い。愚かにも浮ついていた」
語る唇も声も、微かに震えを帯びている。それは自嘲の震えかもしれない。
「きみは学院に戻ったら、給費生の保護に努めると言ったな」
「ええ、わたしには難しいと?」
「きみなら可能だろう。だが給費生の保護にかまけてしまっては、きみの子供時代はどうなる。私が奪ってしまった、きみの子供時代は……」
「あなたはすべてに罪悪感を抱きすぎですよ」
「いや、私の咎だ」
なんだか先生の方が、背負えないほどの重荷に動けなくなっているみたいじゃないか。
先生と一緒に、給費生待遇の改善に取り組むのは嫌じゃない。
でも先生にとっては、苦痛なのか。
わたしは何も奪われていないのに。
「学院制度の改善は、私が努める。きみにはまだ蕾の幼さを謳歌してほしい。私のために費やした前の時間軸が足枷なら、私はそれを封じよう」
……辛そうね。
「辛いのはわたしじゃなくて、先生でしょう。子供時代を奴隷と徴兵で奪われた己自身の辛さを、わたしに仮託しているだけですよ。わたしを癒すことで、少年だったの己を慰めようとしているんです」
我ながら率直過ぎるぶつけ方だったけど、先生は受け取ってくれた。
「そうだな。これは私のワガママだ」
素直に頷く。
分かっているならいいけどさ。
「だからきみが前の時間を抱えて進むなら、その選択に敬意を払う。邪魔をするつもりはない。だが星幽体の内に封じておくという選択肢もあるのだ」
先生はわたしに膝をつき、そっと手を取る。
記憶を預けてほしいのだろう。
「私は選択肢を提示した。そこから先はきみの自由に」
どっちが正しいのかしらね。
でも正しさなんて、この世にひとつだってないのかもしれない。
正しさなんて考えたら、そもそもこの恋が間違っているもの。
消え去った時間軸とはいえ、罪まで一緒に忘れ去って、人生を謳歌するなんて無責任だと思うけど。
でも、きっと先生だけじゃなくて、クワルツくんもモリオンくんもマリヌちゃんも、わたしに子供時代を楽しんでほしいって願っている。
大切な人たちに苦い思いを抱かせてまで、抱いていい記憶かしら。
選べない。
でも選べないなら、選ぶ先はいつも決まっている。
わたしは先生の手を取る。
「オニクス先生、デートしましょう。月の海を渡って、地球を眺めて、それから……最後にキスをして頂けますか?」
先生は一瞬だけ隻眼を見開き、そして微笑んだ。
「ありがとう」
わたしの言いたかったことは伝わったみたい。
【星封】は展開範囲が狭すぎる。
キスをしないと届かない。
先生からのキスで、わたしは26歳から14歳になるのだ。
ぱちんと、眠りが弾けた。
わたしの網膜が光を映して、霊視が輪郭と色彩を掴む。
ここはベッドの上。
象牙の塔にあるわたしのお部屋。
「気が付いたか、ミヌレ」
わたしの手を握っているのは、オニクス先生だ。長身の斜め後ろには、不安そうなテュルクワーズ猊下が棒立ちになっており、月下老が洞穴熊に乗っていた。
起き上がれば、握っている手に力が加わる。ちょっと痛いぞ。
「ミヌレ。記憶は?」
促されて、わたしは山羊のように記憶を反芻する。
北部沿岸のオーロラ、カルカス翁やコパラ氏と出会ったこと、北極巡礼、小人の島と魔法の果実、恐竜と半獣たちの再臨レムリア、王女カルブンクルスと将軍ルベリウスの帰結、オプシディエンヌ討伐………
そしてついに、ラーヴさまに魔女を完全封印してもらった。
匂いや音までも、肉体に蘇ってくる。
だけど前の時間軸で過ごした十二年間は、思い出そうと身を乗り出し、腕を伸ばすたびに朧げになっていく。
思い出という花を摘もうとしても、掌に残るのは、花びら一枚以下の名残り香。
まるで存在しないものを掴もうしているみたい。
そうだな、もう存在しないんだ。前の時間軸は。
でも欠落というほど記憶に穴が開いてない。
一昨日の晩ごはんは思い出せるのに、何故か昨日の晩ごはんが思い出せない。もしかしたら食べなかったかもしれない。そんな感じにぼやけている。
「なんか前の時間軸の記憶だけ、うろ覚え状態ですね……覚えてることもあるけど、前後が思い出せないというか」
「ほぼ予想通りだな」
先生はほっとしたのか、眉間の皺を解き、硬くなっていた手も緩む。
ノックと共に扉が開いて、水晶めいた髪の反射が届く。彼が身に付けているのは、サージとウールの作業服。膝や裾の泥汚れからして、もう果樹園で朝仕事を終えてきたのだろう。働き者だ。
「クワルツさんっ!」
わたしの呼びかけに、クワルツさんが眼鏡越しに焦点を結ぶ。
水晶の瞳に映るわたし。
「【星封】を受けましたけど、ちょいちょい覚えていますよ。南方でヨーグルトを食べた昼下がりとか、あとクワルツさんが果樹園巡りして、ちょっと変わった林檎を貰ってきてくれましたよね。アピ・エトワールって林檎」
断片的な記憶を語る。
「ああ、アトランティス時代の品種の星林檎だな」
「うい! クワルツさんとの思い出は、覚えてますからね!」
そう告げれば、クワルツさんは一瞬だけ瞳を眇めた。
土砂降り寸前みたいな眼差し。
そう思ってしまった。なんでだろう。
「うきゅ?」
「覚えていてくれて何よりだ」
雲ひとつない空みたいな底抜けの晴れやかさで、クワルツさんは笑ってくれた。




