第四十九話(前編)怪盗からの予告状
ラーヴさまの体温は、温泉という恩恵になっていた。
川と温泉が入り交ざる程よいぬくもりで、わたしは足湯をする。旅路の疲れを癒しながら、人間の姿に戻った先生を眺めた。
先生は深いところで肩までつかり、足を伸ばして目を閉じ、岩に凭れている。
これ以上ないほど寛いでいる。
「先生の足も、癒えたらよかったんですけど」
脱皮で回復した箇所は、皮膚だけだった。足の不具合は治っていない。
そりや脱皮っていう性質上、治るのは皮膚だけかもしれないけど、魔法って無意識を忖度するもんだぞ。オマケに治ってくれてもよかったんじゃないかな。
「これ以上の奇蹟を望むか。きみは強欲だな」
皮肉な笑みを浮かべる。
都合のいい奇蹟は起きなかったけど、先生の機嫌は麗しかった。温泉につかっているせいなのか分からんけど、穏やかさも三割増しって感じね。
「蛇化の影響で身体のバランスが取れんが、多少のことだ。体調は悪くない。私へ刃を刺しにくる愚か者など、容易く殺せる程度には回復している」
「生け捕り出来るレベルまで回復してほしいですね」
どこで養生してもらおう。
大山脈には温泉があるけど、消化がよくて滋養に富んだ食事はない。
月の象牙の塔では、報復者がいる。
とはいえ教会総本山にご厄介になると、治癒できるテュルクワーズ猊下が入れない。あの方は破門されているから、教会の敷地内に立ち入れないのだ。
身の振り方を、二度も間違えられない。
どうしようか悩んでいると、霊視の端っこに人間の気配が引っかかった。
わたしが視線を動かせば、先生が反応する。
「誰か来るのか」
「モリオンくんへ【書翰】を飛ばしたんですよ」
先生は頷きながら、湯から上がった。黒髪の水分を絞り、針葉樹の葉っぱの束で皮膚から露を払い、マントをぐるっと着る。
身支度が整ってしばらく涼んでいると、モリオンくんとクワルツくんがやってきた。
「ミヌレくん! きみはいつも奇蹟を起こすな」
クワルツくんは満面の笑顔で、世界を抱き締めんばかりに両腕を広げている。
だけど斜め後ろにいるモリオンくんときたら、先生を見た瞬間、治っちゃったんだ………みたいな目付きになった。馬鹿正直だな。父親似か。
残念そうなオーラを隠しもせず、籐のピクニックバスケットを差し出す。
「ママンの特製ハーブコーディアルと、ビスケット。あと桃のピクルスです」
「夏の作り置きの定番だな。姉さんはピクルスを仕込むのも上手で、味を締めるのに明礬ではなく葡萄の葉を使っている」
「ずいぶん伝統的なやり方ですね」
先生はわたしに桃のピクルスを勧めてくれる。
ピクルス瓶には大ぶりの白桃と、二種のレーズン、それから砂糖漬け生姜が、宝石みたいに泳いでいる。
凄まじく甘そうだな。
覚悟して口に入れた瞬間、酸味と糖分のせいで歯茎が震えた。野生の果実だけで過ごしていたわたしの舌には、脳髄が痙攣する刺激だ。これは小さく切って、フルーツサラダに入れたり、鴨肉の添えにするといいよな。
先生はハーブコーディアルを鉱泉で割って飲み干し、桃を丸ごとビスケットに乗せて平らげている。
食欲と胃腸は正常みたいね。味覚は知らんが。
「それだけ飲み食いできるなら、もう大丈夫なようですねえ」
空気に皮肉を含ませたのは、モリオンくんである。
「モリオンくん。完全回復はしていませんよ。獣適性が皆無な魔術師が、魔法で獣化解除したんですから安静にしないと」
「吾輩、良い隠れ家を知っているぞ」
「テュルクワーズ猊下の治癒が受けられる場所じゃないと駄目ですよ」
「緑陰へと誘う天球水晶とは吾輩のこと! 良き隠れ家の選定は、怪盗の必須技能だ」
先生がめちゃくちゃ心配そうな顔になったけど、クワルツくんを信頼しよう。
密度の濃い竹林は、さやさやと心地よい音色を奏でている。
足元の葎は、八重どころか十重二十重で野趣に富んでいるけど、枯れた葉や梢はない。土に猪に掘り起こされた痕もなく、淀んだ水溜まりも、獣の遺骸もない。
自然を装った翡翠の箱庭みたい。
クワルツくんの案内で、竹林を歩いていく。
翡翠の光景はどこまでも続く。
果てはいったいどこにあるのやら。
竹林の風景に飽いて、明るい空を見上げた。
空は寄せては返す波模様。
蒼穹を覆っているのは、蒸発しない水、弱水だった。白く過るのは雲ではなく、白波。日差しが届けば、大地に波の綾目が描かれる。
ここは月の地下に広がる竹林だ。
先生が疲れたような息を吐いた。
身体の支えは、モリオンくんが用意した杖だった。取っ手は鹿の角で、本体は籐。軽くて丈夫で、紳士が田園を散策する時に使うタイプ。
安物ではないけど、愛用の杖ではないから疲れが増してしまうのだろう。
「……怪盗、道に迷っているのではないか?」
呻く先生。
これは皮肉ではなく、疲労ゆえだな。
「案ずるな、闇夜を貫く矢じりとは吾輩のこと! 怪盗が方向音痴では、宝に辿り着けるはずなかろう。一度踏破した迷路に惑わされる吾輩ではない」
「この東方結界を、自力踏破したのか?」
「いや、案内役の小姓がいた。アンブロシアの育て方の相談をしたいと伝えたら、庵に案内してくれてな」
蟠桃や火棗を育てている月下果樹園『桃源郷』は、この竹林の隣だったな。
クワルツくんは果樹園でも、アンブロシアを育てる予定だもの。
「自力ではないが順路は覚えているし、万が一でも先読みが発動するから迷わん」
「予知の即時性が高いと、こういう時に便利ですね」
わたしの霊視には、不可視であり不可触の迷路が映っていた。
存在しない壁が見える。
機能的には壁ではなく扉か。
見えない触れない扉、いや、柔らかだからむしろカーテンだな。
カーテンがずらっと並んでいて、それを潜ってしまうとふりだしに戻る。進むにはカーテンをを躱すしかない。
わたしだけだったら、突破は難しい。いや、無理かも。往ったり来たりで、ノーミスクリアできる迷路じゃないもの。見えない迷路のミニゲームなんてやってらんない。
「このあたりから罠があるぞ」
「コントローラーぶん投げるレベルの難易度ですね」
「あれが罠だ」
真剣な横顔で、竹林の外れを指さす。
日当たりのいい緩やかな傾斜地には、熊がくつろいでいた。
黒と白の毛並みに、丸っこい体と顔。
大猫熊だ。
どっしりとした親パンダが竹を齧り、産まれて間もないちっちゃなパンダが笹を引っ張ってる。
あれが実物か。
パンダってペガサス並みの絶滅危惧種だから、前の時間軸で東方に渡った時は拝めなかったんだよな。
「東方の熊か。襲ってくるのか?」
先生は反射的に杖を抜こうとしていた。愛用のエストックじゃないから抜けないけど。
「いや、パンダは熊にしては温厚で、襲い掛かってはこない。東方では平和の象徴なのだ」
パンダはくろつぎながら竹を齧っていたけど、わたしたちを見た瞬間、竹を離す。ぱっと両手で顔を覆った。
「何をしているんだ? 威嚇のポーズか?」
「ここのパンダは人見知りで恥ずかしがり屋だから、初対面の人間から顔を隠すそうだぞ。この愛くるしさに引き寄せられ、迷路から踏み外して入り口に戻されてしまうのだ。平和的かつ巧妙な罠だな」
……なんだ、その杜撰な罠。
可愛いって言えば可愛いけど、そこまで可愛いか?
エランちゃんだったら衝動的に駆け寄ってしまいそうだけど、パンダがいたって別に素通りするぞ。
「きみたちはパンダに対して、何も思わんのか?」
「解剖してみたいが、許可は下りんだろうな」
「味わったこと無いんですが、竹だけ食べてるから熊肉より美味なんでしょうかね」
わたしたちの発言に、クワルツくんは距離を取った。
「ここはパンダ保護区でもあるから、それは口にせん方がいいぞ」
ガチでドン引きされている気がする………
切り株を挟んでじゃれ合うパンダたちや、木登りしたまま昼寝をしてるパンダを横目に、竹林を進む。
進んだ先には、傾いた庵がひとつ。笹ぶきのおんぼろ小屋だ。
不可視迷宮のゴールだ。
破れかけた軒下で、洞穴熊と月下老が迎えてくれた。
「よくぞ魔女討伐から戻られた」
ここは月下老の隠遁先だ。
月の庵。
世俗の塵芥がひとつぶもない世界。
ここならば結界が張られて、連盟の魔術師といえどもおいそれと入ってこれない。連盟創立者のひとりである月下老の庵を侵すのは、心理的にも高い壁だ。
それに月下老が過ごしやすいように、竹林はアトランティスと同程度のエーテル濃度だ。先祖返りしている先生が静養するには、相応しい場所かもしれない。
「月下老。庵にお招き頂き、ありがとうございます」
わたしは深くカーテシーをする。
「そもオニクスどのの不調は、連盟が義に背いた結果じゃからのう」
「私に一矢報いたい有象無象どもの気持ちも分かる」
先生は皮肉なのかフォローなのか、区別つかない口調だった。
「仇討ちを止めはせんが、こたびの件は連盟の信頼に傷を残したのじゃ。百代の禍根があろうと、共に敵を討った盟友じゃぞ。戦で弱っているのに付け込み、背から射るとは卑怯の極み。この件が露見すれば、国家や教会に対して、連盟は同盟を結び難くなる」
しわがれた声は淡々と語っていた。
月下老にご自身に激昂の色はないけど、周囲の空気だけが硬くなっていく。
笹が奏でる音色さえ、鼓膜に痛いほどだ。
黙り込んでしまうと、小さなパンダがのそりのそりとやってきた。赤ちゃんではないけど、成体でもない。
「おや、この子は好奇心旺盛じゃのう」
月長石めいて濁った瞳に、温厚さが戻る。
「さ、蛇蝎はゆるりと休むがよかろう。何もないところじゃが、土間の竈や鉄瓶は、好きに使ってくれ。湯呑はその鉈で竹を切って、茶葉はクマザサを炙って煎ずると良い。残りはこの子たちにやってくれぬか」
本当に何もないな。
客の訪れを想定していないのか。そんな場所に、立ち入らせてくれたとはありがたい。
「ああ、裏手の湧き水にはスイカも冷やしてある」
「ありがたくいただこう」
即座に礼を述べ、湧き水に向かう。その速さは失礼じゃないか。
月下老は意に介しておらず、飄々と洞穴熊に跨る。
「儂はテュルクワーズどのに繋ぎをつけてこよう」
「吾輩も果樹園に戻る。土起こしが途中でな」
クワルツくんと月下老が去ってから、庵の縁側に腰かけ、どこまでも続く竹林を眺める。
先生はすでにスイカを湧き水から引き揚げ、鉈で切っていた。早い。
スイカは真っ赤に熟していた。
あたりが緑色だから、赤がますます華やかね。
「こんな風に並んでスイカを食べるのは、ガブロさんのおうち以来でしょうか」
「ああ、あのスイカは美味かったな」
笹の葉さらさら。スイカはしゃくしゃく。平和と瑞々しさを味わっていると、小さなパンダが膝元ににじり寄ってきた。
スイカの皮の匂いを嗅いできたから、あげてみるとパリバリ食べ始める。肉食寄り雑食獣の熊が、草食しているのって不思議ね。
先生の方にもすり寄ったけど、先生が食べ終わったスイカの皮は薄っぺらい緑が一枚。
こどもパンダはひらひらの皮を無視し、やおら二本足で立ち上がった。
ぷんぷんっみたいな鼻息を出し、四つ足に戻って去っていく。
先生がスイカの皮の白いところまで食べちゃったの、どうやらお怒りみたいだ。
「ミヌレ。きみの進学の準備はどうなっている」
先生はぽつりと呟く。
小さいけど聞き流せないほど重い呟きだった。
わたしは先生の体調を案じていたけど、先生が案じていたのはわたしの学校生活だったみたい。
「なんとかなると思いますよ」
適当な返事に、先生は妙にほっとした顔になった。
「戻る気ならいい。きみは復学に気乗りしないようだったからな」
「中身は大人ですからね。年齢詐称して戻っていいのか、まだ戸惑っています」
学校って学術以上に、人と人との付き合いや繋がりを学ぶ場だ。
嘘偽りの姿で築く人間関係って、さもしいもの。
「でも自分のためじゃなくて、誰かの手助け、たとえば給費生や奨学生の助けになるように在籍するなら、わたしが偽ったまま学院にいても許されるんじゃないでしょうか。先生だって給費生が平等に学べるよう、働きかけていたんでしょう。わたしも手伝います」
身分や財力なんて関係なく、心のままに学べる教育機関。
うちの故郷や学院がそうなってほしいもの。
「きみには自由な学院生活を送ってほしいと思っている」
「それはちょっと都合のいい話ですよね」
都合がいいどころか卑怯だな。
「わたしは大人なんです。子供たちを騙す真似をするなら、それ相応の責任は果たしますよ」
先生は微かに眉間を顰める。
一瞬だけ浮かべられた表情は、わたしを否定しているように見えた。




