第四十八話(中編)卵は胎に還るだろう
月に行けるはずもなく、わたしは海の民の家屋に間借りを続けていた。
白夜の間は狩り暮らしだから村人はほとんどおらず、カルカス翁もご不在だから静か。
ままならない気持ちを抱え、独りで蛇を撫でる。
「………先生」
この手に【遡行】があれば、迷わず使った。でもあれはもう砕けてしまって、二度と手に入らない。わたしの未来の心臓で造った呪符だもの。
蛇の舌が、わたしの頬を舐める。涙を拭われた。
家屋の隅には、転移絨毯が組まれていた。それが微かに動いている。
顔を出したのは、モリオンくんだった。
「ミヌレさま。お食事とご報告をお持ちしました」
モリオンくんが笑顔でピクニックバスケットを掲げる。
「カルカス翁はどちらですか? 手土産にジャムをお持ちしましたが」
「遠方の氏族会議に出かけられているわ。精霊受肉による完全変異が口伝として残ってないか、方々に聞き込みをしてくれているの」
「必死にもなりますか。この男が不在だと、海の民の同化法案が通過してしまいますからね」
「たしかにそうでしょうけど、口から出すものではない発言ね」
「浅慮でした」
上っ面に謝罪されてもなあ。
こういう皮肉屋な性格は、先生にそっくりだわ。
モリオンくんは滑らかな手つきで、純白のクロスを敷いて、瑪瑙細工のカトラリーを並べ、磨かれた鉛グラスを置き、食事の用意をしてくれる。
「それで………モリオンくん。記憶は回復したかしら?」
先生が記憶を奪われて副総帥に戻らないように、モリオンくんが入れ替わってくれた。
十年分ほど記憶を喪失している。
「テュルクワーズ猊下の高弟から霊質治療を受けましたよ。この時間軸になってからの記憶は、回復しました」
つまり前の時間軸の思い出は、霧散してしまったのか。
わたしの顔色を読んだのか、モリオンくんはちょっと困ったように眉を下げた。
「もともと記憶を維持できていたのが、奇蹟じゃないですか。時が巻き戻った時に、記憶していられないと覚悟していましたよ。それが魔女を討つ一端になれたなら、喜ばしいです」
そう微笑むモリオンくんは、以前より幼い雰囲気だった。
連盟と教会、ふたつを敵に回した時間軸の記憶。わたしたちは制止を振り切るため、あまりに多く血を流した。ふくらぎまで血染めになり、爪の隙間から死臭は拭えないほど。
存在しなくなった罪を忘れられたなら、それは幸せなのかしら………
答えの出ない考えで思考を空回りさせているうちに、正餐の支度は整っていた。
「あら、今日の食事…」
寮母さんの趣味は、果物やショコラを使ったお菓子作り。
だけど今日、届けられたバスケットの中身は、蕎麦のガレットと、ニシンのマリネ。わたしの大好物じゃないか。
ニシンのマリネには、定番のサワークリームがついている。細かく刻まれて混ぜられた緑と赤は、チャイブとりんご。エクラン王国風のサワークリームだ。
懐かしい献立ね。
もしかしたら今のわたしには、いちばん相応しい食事なのかもしれない。
マリネにサワークリームをたっぷり乗せ、ガレットで巻いて口に運ぶ。
故郷の味をゆっくり噛み締める。
はるばる持ってきてくれたのは嬉しいけど、味が感じられない。寮母さんが味付けを違えるわけないから、これはわたしの精神状態が問題ね。それこそ口から出していい発言じゃないけど。
味は掴めないけど、林檎の硬い瑞々しさは伝わってきた。
ああ、エクラン王国では、もう林檎が初生りしているのか。
「初生りの林檎ね。もうそんな時期……」
一年の始まりは凍雨月。
だけど学院や役所などの始まりは、林檎や葡萄が肥えて熟す葡萄月だ。
新鮮な林檎が食べられるなら、新しい学期はもう間近。
ひとときの郷愁に浸る。
でもいつまでも浸っているわけにはいかない。
「報告を聞くわ」
「胃のこなれに悪い報告をしなければいけません」
「でしょうね」
良い報告だったら、真っ先に言ってるもの。
「スティビンヌ猊下の調査ですが、試料破棄の関与は、かなりの人数が上っているそうです。両手では数えられない程度の魔術師が、すでに勾留中です」
「恨まれているのは知っていたけど、こうも一斉に動くなんてね」
「魔女討伐さえ終わればあの男は用済みだと、考えが一致したんでしょうね」
「………いえ、わたしが次期世界鎮護の魔術師として、連盟の魔術師たちに姿を見せてしまったせいで、現役を蔑ろにしたのかもしれない。そういう空気はあったのに」
強大な敵に打ち勝てば、すべてハッピーエンド。
そんな幼稚なおとぎ話を信じているわけじゃないのに、勝利すれば何もかもうまくいく感覚に陥ってしまう。
ブッソール猊下に戦術と戦略を教わったはずだ。
ヴェルメイユ陛下も王宮に突入する前、戦後処理を案じておられた。
何よりオニクス先生が「戦後に勝利を活用する」大切さを語っていたじゃないか。
周りにあれだけ有能な大人がいて、わたしは何も身に付けなかったのか。
わたしはいつまでも愚かだ。
幼い時も、そして今も。
愚かさと怠惰の結果がこれだ。オニクス先生が元に戻るよすがが失われた。
先生が蛇から戻れなくなった後、連盟に報告すべきではなかったのだ。恨まれている先生が無力化すれば、報復が訪れるのは分かり切っている。
オプシディエンヌを討伐し、返す刀で連盟を掌握すべきだったのだ。
項垂れていると、モリオンくんは食後のお茶を出してくれた。寮母さんがブレンドした品のいい香りのお茶が、食後の胃を宥めてくれる。
お茶請けには、乾燥させた白桑の実。わたしの好きなドライフルーツだわ。
「クワルツがアンブロシア栽培を成功させれば、ボクが軟膏を調剤します。必ず」
モリオンくんは勢い込んでいた。
黒水晶めいた瞳の輝きには、一点の曇りもない。
「そうね。ふたりのことは信じているわ」
クワルツくんなら神々の豊穣を蘇らせるだろう。
モリオンくんなら軟膏を分析し、調剤できるだろう。
「でも致命的な問題点があるでしょう」
呟けば、モリオンくんは息を呑む。
この子も理解しているのだ、アンブロシア軟膏の致命的な点を。
アンブロシアを実らせ、増やし、種子から油を搾るまで時間がかかり過ぎる。
先生は予知発狂者だ。
何年も蛇の肉体のままで、発狂して箍が外れた精神が、自我を保てるだろうか。
おそらく無理だ。
以前、魔法空間で僅かな時間に蛇の形をとることさえ、先生は躊躇っていた。
元の姿を忘れてしまった瞬間、もう発狂の淵に沈むだけ。
アンブロシア軟膏を待っていれば、先生は狂ってしまう。
「慰めてくれているのは分かるわ。ありがとう」
「いえ、僭越な物言いでした」
「そんなこと無いわ。出来なかったことを数えて悔むより、前に進まなくちゃね」
思考を止めたら、本当におしまいだもの。
アンブロシア軟膏が完成するまで、【睡眠】をかけ続けるか。
いや、その方法でも長期間蛇のままなら、星幽体の変質が懸念される。
時魔術による封印か。
魔術開発にどれだけかかるか予想もつかない。
思考と沈黙に鑢掛けするように、蛇の這う音が混ざった。
先生がいつの間にか、わたしの背後にいる。
わたしのおなかに、頭をこすりつけた。
「なんですか? 別に豆は食べてませんよ」
そう聞くと、先生は顔を上げた。大蛇なのに、人間の時と変わらぬ黒い隻眼でわたしを見つめ、ずるずると蛇行して家屋を出ていった。針葉樹の暗がりへと進んでいく。
「お水を飲みに行かれるんですか? 鳥でも狩りに? 外で眠るの?」
返事はない。
森は深く、家屋が遠くなっていく。
「どこか行きたいところがあるんですか?」
一瞬だけ振り向く。頷いたような動作に見えた。
なら、着いていこう。
先生がそう望むなら、わたしは叶えよう。
すぐ後ろには、モリオンくんがついてきていた。
「モリオンくん。伝言をお願いするわ。一身上の都合により、しばらく自由を頂きます。世界鎮護の御役目は滞りなく努めますので、ご安心を。と、スティビンヌ猊下にお伝えして。それとカルカス翁にもお願い。お世話になったのに、挨拶しない不義理を謝っておいてほしいの」
「お待ちください、ボクも行きます!」
「やっと母親に孝行できるようになったのに?」
問いかけという形で釘打てば、モリオンくんは何も言えず喉を動かす。
「今までわたしのために時間を費やしてくれてありがとう。でももう時間は戻らない。あなたに時を返せない。だからあなたの大事な方のために、時間を使って」
「ミヌレさま。では……せめて【書翰】を作って下さい」
囁きに縋りつかれて、わたしは引きずられるように頷いた。
わたしは大蛇の後を追う。
いくつかの渓流と湖沼を渉り、針葉樹の緑陰を歩く。小鳥のさえずりが交わされ、耳まで澄み渡っていく。腐葉土や露をほどよく孕んだ獣道は、蹄に心地よい柔らかさだった。
樹齢がゆうに数百を越える巨木が聳えている。
もしかしたらわたしが千年前にいた頃に芽吹いた大樹かもしれない。
大樹の成り立ちを想像をしながら、頭上を覆う梢を見上げる。緑が茂げ渡って、重なり合っていた。
「クワルツくん。いるんでしょう」
唐突に問えば、大樹が返事をするように騒めいた。
「む。気配は完全に断ったはずだが」
クワルツくんが腕組みしたまま、巨木の上から飛び降りてきた。
「あてずっぽうよ。わたしが困っている時に、クワルツくんがいなかったことは滅多にないもの。せいぜい千年前くらい」
ほんとうにいつだってわたしの支えになってくれた。
でもみんなみんな大切なひとがある。
家族や友人、その人たちを支えたり愛したりするより、わたしの戦いに参じてくれた。
オプシディエンヌという世界の脅威を排したなら、もうみんなは解放しなくちゃいけない。
それぞれがそれぞれの人生を歩むのだ。
「新婚旅行の邪魔はしないでくださいね」
「ハッハッハッ、それは邪魔できんな」
いつもみたいに腹の底から笑う。
そして不意に笑いは途切れ、空気も凪いだ。森が静けさを取り戻す。
「もとよりきみの邪魔するつもりはない。これは見送りだ」
本当かしら?
だってクワルツくんって演技派なんだもの。
後からこっそり尾行されるかもしれない。匂いを追うのは得意だもの。
霊視限界の外で追跡されたら、わたしでも把握できないわ。
わたしの瞳は疑いに染まっていたのか、クワルツくんは苦笑いをする。
そして固く組まれていた腕を解いて、そっと仮面に手をかけた。前髪を撫でつけるように外し、素顔のまま水晶の瞳でわたしを見つめる。
「愚にもつかん本音を吐かせてくれ。正直、魔女を倒す旅が終わらねばいいと願ったよ。辿り着かねばいいと」
本音、だろうか?
少なくとも本心に聞こえる。
「今まできみと運命を分かち合えて幸せだった。だがきみは未来に辿り着いたのだ。銀環を戴冠し、蛇を従え、『永久回廊』を召喚した。これからは吾輩の助けなくとも、ハッピーエンドに向かって歩むのだろう」
真剣な面持ちから、屈託ない笑みになる。
「もはや吾輩は見送るしかあるまい。それにオンブルが無茶せんように見張らねばならんしな」
これから訪れるカルトン共和国の大火災。
オンブルさんを行かせないようにするだけでは防げない。だってオンブルさんは被害を無くそうと願っているから。下手な立ち回りをすれば、前の時間軸より悲惨な結末を迎えかねない。
クワルツくんは大きなマントを広げ、わたしの頭からすっぽり被せた。微かに鼻腔をくすぐるのは、月下香。
先生のマントだ。
ただの残り香なのに、わたしの奥で張り詰めていた何かが和らぐ。
「きみはいつでも奇蹟を起こす。もしその教師が元に戻ったら、纏うものは必要だろう」
クワルツくんは【土坑】のピンブローチで、マントを留めてくれた。
澄んだ眼差しが近い。
その瞳に映っているわたしが、水晶になってしまいそうだ。
「ミヌレくん。必ずアンブロシアの種子は芽吹かせ、実らせよう。そして美酒を醸そう。昔、その教師と約束したように、吾輩の醸したワインを贈ろう」
ピンブローチから、白い指が離れる。
「だから、きみは何ひとつ諦めなくていい」
「何も諦めていませんよ」
長生きや栄達も望んでいない。
わたしが抱き締めていたいのは、この恋だけだ。
大樹とクワルツくんに見送られて、オリハルコンドレスを翻し、蹄を進ませた。




