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第四十八話(前編)卵は胎に還るだろう



 『世界劇場』

 ここは先生の魔法空間だ。

 中世風の木造劇場で、階段座席が扇状に広がっている。土間を挟んで、緞帳が垂れた舞台があった。

「先生、オニクス先生………」

 座席に横たわっているのは、大蛇だった。

 とぐろ巻いて眠っている。

 先生は己の姿形を見失って、魔法空間でさえ会話できない。

「わたしが名を呼べば召喚になるって、そうおっしゃったのは先生じゃありませんか」

 蛇を撫で、名を呼び、先生の姿を思い出す。表情を翳らせる黒髪に、黒瑪瑙めいた隻眼。笑い方に、眉の顰め方。低い声や、月下香の馨しさも。

 すべてを思い描いても、蛇は眠ったまま。

「大好きですよ、先生」

 そう囁くと、天からふわりと花びらが舞った。

 ひらひら、ひらひら。

 色が分からないほど淡い花弁たちが、無限に散ってくる。

 わたしが撫でるのをやめれば、花は止んだ。

「もしかして意識はあるんですか?」

 問えば、花が一枚だけ降って来る。

 わたしは蛇に凭れかかる。

 ずっとこうしていたい。

 でも。

「そろそろ帰りますね。わたしの肉体を空っぽのままにしておけませんから」



 蛇になった先生は穏やかだった。辛そうな気配は感じ取れない。 

 ただ微睡んでいる。

 まるで胎児のように。

 もしかして蛇のままの方が、先生は幸せなのかしら。





 

 魔法空間から抜け出す。

 瞼を開けた網膜に映ったのは、海の民の木造家屋だった。

 天窓からの光が、淡く差し込んでいる。支柱の彩色もまだ乾ききっていない新築だから、匂いは針葉樹の奥深くみたい。

 わたしは極薄のネグリジェ姿で、板間に寝かされていた。藁で編んだ敷物にシーツを引いて、毛織りの布を掛けられている。寝心地はそれほどいいわけではない。海の民は、獣性が強い。寝床にこだわらないというより、己の皮膚と毛が衣服であり、寝具なのだ。

 一応、プライバシーに配慮してくれたのか、大きな衝立に囲まれている。革製の衝立だ。

 衝立の向こう側で、ディアモンさんが小型の空飛ぶ絨毯に乗って、カチャカチャと作業していた。

 甘酸っぱいオレンジの香りが鼻腔に届く。

 この香りはお茶でもミルクでもなくて、生姜マーマレードのお湯割りだ。

「あらあら、お目覚め? ニックの魔法空間に長居すると、消耗するでしょう」

 ディアモンさんはオニクス先生の容態を問うたりしなかった。

 なにも進展してないと、わたしの顔色で察してくれているんだろう。

 優しくミルク茶碗(ボル・ア・レ)を手渡してくれる。

 オレンジの香りが漂うミルク茶碗を両手で包むと、じんわりとしたぬくもりが伝わってくる。体温が下がっていたみたいだ。魔力枯渇の初期症状か。

 思った以上に、魔力を削っていたみたい。

 糖分と水分を摂取できて、身体が指先から爪先までほっとする。肉体の緩みに引きずられて、精神も落ち着いてきた。

「テュルクワーズ猊下とカルカス翁の診察は終わったわ。今は広場で話し合い中」

 大蛇と化した先生は、魔法空間と同じく、とぐろ巻いて寝ている。

 変わり果ててしまった肉体は、治癒系の最高位テュルクワーズ猊下と、精霊祓いの老大家であるカルカス翁が診察をしてくれた。

 象牙の塔なら機材は揃っているけど、カルカス翁からご意見を伺うため、海の民の村に留まっている。

 それに先生が何故か、月への転移絨毯に入りたがらなかった。理由は見当もつかない。

 意思疎通がままならない先生を、真正面から見られない。

「……結論は芳しくないのでしょうか」

 わたしの唇が紡いだのは、湯割りが冷めそうな呟きだ。

 無茶なライカンスロープ術で変質した肉体。それを戻す方法なんて、誰よりもテュルクワーズ猊下がお知りになりたいことだろう。

 あの方は司祭時代から、『妖精の取り換え仔』の保護と支援を続けていらっしゃる。

 獣化の不可逆を戻せる魔術があれば、抱えている問題のいくつかは軽減されるはずだ。

「芳しくはないけど、絶望ではないわ。生体試料があるもの」

「……先生の、生体試料」

「ニックは『妖精の取り換え仔』と違って、肉体が人類形質だった時の頭髪と血液が保管されているでしょう。そこから生来の星幽体情報を、ニックに感染させれば………」

 そこまで言って、ディアモンさんは言葉を切った。

 句点のように零れる溜息。

「言うのは簡単ね。困難極まりないこと………」

「でも一縷の望みがあるんですね」

 ディアモンさんは頷いてくれる。

 折れた藁の如き希望でも、たしかに手に取れるものだった。

「エグマリヌちゃんはもうすぐこっちに来れるそうよ。女王の随伴が今日で終わるから、顔だけでも出しにくるって」

「着換えます!」

 ネグリジェのままだったら、心配されちゃう。マリヌちゃんって心配性だから。

 ディアモンさんに残り湯を貰って、耳の後ろまで顔を洗い、櫛で梳る。

 用意されていたのは、いつもの紺色のワンピース。その片隅に、オリハルコンシルクの輪があった。

「クリーニングから戻ってきたんですか」  

「ええ。繕ったけど、でもお直しする必要あるでしょうね」

 輪を解いてひらひらと振れば、プリーツはたちまち広がってドレスになる。このオリハルコンのドレスで雪の大山脈にも、カリュブデスの水支柱にも、そして北極も踏破した。ドレスというより相棒だ。

 わたしは試しに袖を通す。

「また少しだけ背が伸びたみたいね」

 成長を口にして、一拍後、ディアモンさんは唇を歪に結ぶ。

 わたしの成長は、寿命までのタイムリミットだ。

 誰だって、いや、この世にあるほとんどの生き物、不死鳥やクラゲ以外は成長と寿命は直結している。わたしの寿命が短いのも、生物としての摂理で悲劇じゃない。

 落ち込む暇があったら、乗り越える方法を試行錯誤するだけだ。

「クワルトスくんは土地を確保するために、出かけているわ」

「土地?」

「アンブロシアの栽培に適した土地を、エクラン王国とカルトン共和国の両方で見つけたいんですって。気候と土壌はエクラン王国が適しているけど、アトランティスの農作物はエーテル濃度の問題もあるでしょう。それに将来的に絶滅植物の国家法規制がどう転ぶか分からないから、分散して育てたいみたいね。ああ、キュストード市国にも譲ったし、月の塔内にある温室と地下に果樹園でも、土地の用意はしているわ」

 四か所でのアンブロシア栽培か。

 小人たちが育てていたアトランティスの果実。

 クワルツくんだったらきっと、いえ、必ずこの大地に、神々の豊穣を蘇らせてくれるだろう。

「アンブロシアが育つの、楽しみですね!」

  

 外から叫び声がした。

 それから荒々しい足音も。


「あれはモリオンくんの声ですよね」

「ええ、ニックの生体試料を取りにいってくれたはずだけど……」

 わたしが出て行こうとすると、ディアモンさんが外套代わりに魔術師のローブを肩にかけてくれた。

 狭い入口から外へ出る。

 針葉樹と極彩彫刻支柱の森が広がっていた。  

 モリオンくんがウイユ・ド・シャくんを殴り飛ばしていた。猫みたいな四肢は、滑稽な勢いで吹っ飛び、彫刻支柱にぶつかる。

 なにやってんだ、モリオンくん。

 問おうとしたけど、赤蜜色の顔は怒りでどす黒くなっていた。気軽に声を掛けられる空気じゃない。

「お前がどうして復讐する権利があるッ! このボクが我慢しているんだ! エグマリヌ伯爵令嬢だって我慢している。おまえが横からしゃしゃり出て、掻っ攫うなんて厚かましいにも程がある」

 拳を震わせながら、叫ぶ。   

 斜め後ろに立っているマリヌちゃんは、雪膚を氷のように蒼褪めさせていた。ほとんど無意識なんだろうけど、レイピアの柄に手をかけている。

「ウイユ・ド・シャ。きみが仇が討ちたいなら、どうして一騎打ちを申し込まない? 改悛していないなら手段を問う場合ではないかもしれない。だけど贖罪してなお許せないなら、決闘を申し込めばいいだけだろう」

「うるさい!」

 ウイユ・ド・シャくんが涙目で叫ぶ。

「なにが決闘だ! そんなので蛇蝎に勝てるやつがいるもんが!」

「復讐は勝つためではないだろう?」

「きれいごとばかり抜かすな! お師匠さんや全世界の人間が、どう言ったって! どう思ったって関係ない! 蛇蝎をめでたしめでたしで終わらせるもんか!」

 放たれる喚き声に、わたしの心臓が殴られているみたいだ。

 嫌な予感だけが、胸を蝕んでいく。

 最初にわたしの存在に気づいたのは、テュルクワーズ猊下だった。

 青とも緑ともつかない瞳がわたしを映した途端、瘧めいた震えが走る。

「ミヌレ・ソル=モンドさま。わ、私の、弟子が………」

 どもりが酷くなっていく。

 言葉を継いだのは、モリオンくんだ。荒々しい呼吸を吐き捨て、深呼吸する。

「ミヌレさま、僭越ですが悪い報告をさせて頂きます」

「……まさか先生の、髪と、血を?」

 脳裏に浮かぶ最悪の展開。

 否定してほしかったのに、モリオンくんは苦々しく頷いた。

「おっしゃる通りです。生体試料をこいつが廃棄したんですよ。跡形も無く」

「禁符標本室の試料を無断廃棄?」

 背後で野太い声が、甲高い悲鳴を上げる。

 わたしはもう悲鳴さえ上げられなかった。心臓が早鐘を打つ。どくどくと血の流れが、鼓膜を内側から叩いていた。

「なら、アタシの自室にあるものを使えばいいわ。ニックの髪は魔術糸と一緒に………」

「そちらも破棄されています」

「アタシの部屋にも入ったの?」

 元に戻るためのよすがを、ウイユ・ド・シャは捨てたのか。

 では、どうやって人間の形にすればいい?

 【遡行】はもう砕け散り、アンブロシア軟膏はほんの少ししか残ってない。

 それにわたしの寿命を延ばす研究はどうする?

 同時進行できる研究じゃない。

 ディアモンさんのぬくもりがわたしを支える。いつの間にかふらついていたらしい。

 地面が波紋する。

 一瞬、眩暈を催したのかと思った。

 だけどあれは眩暈じゃない。東方魔術【地縮】だ。

 大地に生じたミルククラウンから、スティビンヌ猊下が湧く。

 東方南部の民族衣装は真紅で、光が当たれば黄金に煌めいた。華やかな色彩は、スティビンヌ猊下の銀めいた黒髪を引き立てている。

 ただ眦を裂いているせいで、慎ましく纏っている真紅は、まるでスティビンヌ猊下の怒りが凝り固まったみたい。

「最ッ悪さね! あたしが個人的に貰っておいた生体試料も破棄されているさね!」

 絶望に追い打ちがかけられた。

「資料や試料を故意に損ずるのは、除名で済まないさ! 破門さよ!」

「それがどうした! あいつがのうのうと幸せになるより、一緒にどん底に落ちた方がマシだ!」

 ウイユ・ド・シャはスティビンヌ猊下にまで噛みつくように喚く。

 きっと14歳の頃のわたしだったら、耳障りな喚きを縊っていたでしょうね。

 でも今はそんなことしている場合ではない。

「スティビンヌ猊下。禁符標本室、および高位魔術師の自室への無断立ち入りに関して、防犯体制の見直しをお願いします」

「ああ。了解さね」

 象牙の塔の防犯体制を構築したのはスティビンヌ猊下だ。

 わたしはウイユ・ド・シャを素通りして、テュルクワーズ猊下へ視線を動かした。

「テュルクワーズ猊下。この一件、ウイユ・ド・シャの単独犯だと思われますか? 生体試料の破棄という発想、場所の把握と破棄の実行。すべてを彼ひとりで行う判断力があると?」

「……い、いえ、この子にあるのは、動機と行動力だけで。ど、どうして保管場所を?」

 賢者代行であるディアモンさんや賢者のスティビンヌ猊下の自室に、助手や弟子でもない魔術師が気軽に入れるわけがない。侵入したところで、保管されている試料など簡単に見つけ出せない。

「オニクス魔術師への怨恨で、教唆した人間がいるでしょう。複数名」

 賢者連盟が味方だと、そう思い込んでしまったのは戦後の気の緩みだわ。情けない。

 たしかにオプシディエンヌ討伐では協力したけど、協力せざるを得ないほどの敵だったからだ。

 先生に対して、連盟としては討伐しておきたいだろうし、数ある魔術師たちは殺してやりたいと思っている。

 連盟は味方ではないのだ。

「あたしの部屋に入ったんだったら、単独犯じゃぁないさねえ」

 スティビンヌ猊下のぼやきは重い。

 わたしが殴り込みをかけて賢者を減らして、オプシディエンヌでも責任と負担は増し、またこの件で仕事が増え魔術師が減るともなれば、心労は凄まじいものだろう。

「監査は?」

「ダーリンが指揮するさね」

「監査から騎士団は外すべきでしょう」

「却下さね。むかしっから事件があったら、騎士団が調べることになってるさね」

「スティビンヌ猊下。あなたのお弟子は現在、連盟ではなく帝国へ出向軍属なさっていましたね。では、あなたの自室にウイユ・ド・シャを手引きした魔術師は、騎士団に属しているのではありませんか?」

 先生に恨みを抱いて、なおかつスティビンヌ猊下の近しい魔術師。

 弟子たちが月に不在とすれば、夫のロイ・エン・シャン騎士団長からの繋がりを疑う。

「それは否定できないさね。ウイユ・ド・シャがあたしの部屋に入れたのは、騎士団の誰かのせいかもしれない。助手たちだってオニクスを恨んでいるけど、理由はあたしの肉体をイモムシにしたことさ。あたしの試料を台無しにはしないさね。で、騎士団から監査権を取り上げる算段を、とどのつまりは夫の面目を失うようなことを、妻にしろと言うさね?」

「ご理解早くて感謝します」

 スティビンヌ猊下は不服そうね。無理もないけど。

「モリオンくん。スティビンヌ猊下の補佐をして差し上げて」

「畏まりました」

「監視役はいらないさよ」

 さらに不服が訴えられた。

 ウイユ・ド・シャは地べたに這いつくばったまま、まだ癇癪めいた声を発していた。

 復讐者の心情としては、わたしの態度は胸糞悪いでしょうね。でもこの復讐に寄り添ってあげる気はない。

 魔術の頂点たる賢者連盟は、法治を布いている。副総帥オニクスの処罰は決定し、懲役を受けた。控訴した魔術師が何十人といたのは記録から知っているけど、もう罰は下されている。

 それを個人の心情だけで覆そうとするのは、運営に破綻をきたす。

 膿は取り除かなければ。

 だけど、この子は暗殺組織からテュルクワーズ猊下に助けられた子だ。

 オニクス先生と同じく、育ちのせいで目的を果たすための手段に箍が無い。

 多少の情状酌量はあるのだ。

 黙ったまま、テュルクワーズ猊下へ視線を移す。

 瞬間、痩せた肩が跳ねた。剃刀を当てられたように強張り、委縮する。

「テュルクワーズ猊下。あなたの弟子による鎮護魔術師への危害は、あなたご自身で裁いて頂きます。どのような判断を下すかは裁量に任せますが、二度とわたしの目に映らないようにしてください」

「……御意に、『夢魔の女王』」


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