第四十七話(前編)繭は虫に 虫は卵に
風は柔らかかった。
あれほど粘度の高かった大気が、さらさらと流れていく。
魔術によって巻き戻されていた時空間が、正常に戻ったみたいね。アンモナイトやシーラカンスは泡沫のように弾けて、古代の珊瑚たちもその身を影に溶かしていく。
潮が引くように去っていくエーテル。
天空のオーロラは絶えず棚引いて、大地にエーテルも残っているが、それでも宇宙ほど濃くはない。
遠くからざわめきが届いた。大神殿の方からだ。オプシディエンヌが齎したエーテルで死んだ半獣や魔術師たちが、蘇生したのだろう。
「モリオンくん………マリヌちゃん………」
名を呼びながら見回せば、紅と銀の反射が視界を引っ掻く。
柘榴石の護符と銀の刀身を持つ無慈悲の慈悲が、水溜まりと鉱石に埋もれながらも、極光を照り返している。わたしに呼びかけているみたいに。
先生もいる。
いまだに黒い大蛇のままだ。
とぐろ巻く大蛇の内側には、守られるようにモリオンくんとマリヌちゃんが横たわっていた。
這い寄って脈をとる。ふたりとも蒼白いけど、体温がある。呼吸している。心臓も動いている。生きている。【尾咬蛇】で蘇生を果たしているわ。
わたしは背筋を伸ばし、目の前に積もった無限の白骨を見上げる。
白夜を貫くが如く、聳えている白骨。
まるで塔だ。
人魚の骨だけで造られた祭壇であり塋域である塔は、エメラルドの瓦礫にうず高く積もり、眼も眩むほどの高さになっていた。
手の届かない頂点で、オプシディエンヌは絶命している。
オプシディエンヌに早くとどめを刺さなくては。
時魔術【尾咬蛇】は即死蘇生、結局は輪廻させるための魔術だもの。死に至らしめられるけど、【憑依】を持っているオプシディエンヌに食らわせても、次の肉体に乗り移るだけだ。
殺して死なせてそれで終わりになる程度なら、十数年前、先生が寝首を掻いた時に片付いている。
【遡行】が必要だ。
這ってでも進まないと。
人魚たちの骨を掴み、頂点を目指す。
組み上げられた無限の骨は、すべて白く宝石めいていた。人魚の骨の色じゃない。
強いエーテルに晒された結果なのか、それとも『図書迷宮』の結晶群からなる生け簀で飼われていた影響なのか。原因は掴めないが、骨まで鉱石質になっている。
まるで煙りながらも透ける石英、あるいは艶めいた光沢の真珠貝、柔らかな海泡石、しっとりとした象牙、半透明の雪花石膏、斑紋続く大理石。ときおり白鉛鉱や灰重石めいた輝きが放たれる。天青石や月長石のように、微かな蒼を連想させる頭蓋骨もあった。
無限の骨は白夜に乱反射して、歩くたびに視界がちらちらと惑わされる。
意識まで朦朧としてきた。下肢がますます重く感じる。
足なんて爛れてほとんど無くなっているのに、普段より重くて嫌になる。
蛇がわたしを支えて押し上げてくれる。でも蛇の鱗も痛ましいほど剥がれ、今にも力尽きそうだ。
そもそもオプシディエンヌに辿り着いても、【遡行】を唱えられる魔力が残っているのか。
不安が指を痺れさせる。
進むことだけ考えなくちゃいけないのに、足元が覚束なくなってきた。
「ミヌレくん」
疲弊しきった四肢を支えたのは、クワルツくんの腕だった。
水晶色の髪と瞳が、オーロラを孕んで煌めいていた。そのままオーロラに融けてしまいそうね。
仮面は割れてしまったのか、素顔のままわたしを見つめている。懐かしい相手と再会したような眼差しだった。
「遅くなってすまない」
「いいえ、いいえ………」
「あと一息なのだな」
頷こうとすれば、口に何か押し込まれた。
硬い何か。
「ミヌレくんの干し肉だ」
北極巡礼のための肉と脂の塊。
奥歯で思いっきり噛んだ瞬間、果実と肉の甘さが滲み、魔力が経絡に行き渡った。わたしの肉から作っただけじゃなくて、魔力回復の蟠桃が相乗効果になったのか、爆発的な速度で魔力が漲り、失われた水分まで戻ってくる。
クワルツくんはわたしの回復アイテムを探してきてくれたのか。
感謝のため唇を開いたら、ふたつめを押し込まれる。
今度は火棗の頼りない甘さ。咀嚼していると、体温まで戻ってきそうだ。
「話は後だ。きみは魔力の回復に努めるといい」
クワルツくんがわたしを抱えて、宝石めいた白骨細工の塔を登っていく。肋骨に爪先をかけ、頭蓋を踏み、半ば登攀するように上を目指した。
機敏だけど、息が荒い。
万全なクワルツくんだったらこの程度で息を乱すわけがないけど、エーテルで気管や肺腑が蝕まれているのだろう。【尾咬蛇】は死者を蘇生させるけど、回復はしてくれないもの。
干し肉をみっつめ。
交梨の優しい酸味が広がり、視力が拓けてきた。
オプシディエンヌの死骸まで、あと数歩。
黒髪は焼け焦げ、自ずから四肢を無くして、美貌も乳房も引き裂かれた壮絶な死骸だ。
歪んだ死体の上に、淡い星幽体が揺らいでいた。陽炎のように儚くゆらゆらと。
もしかして極光が天から途切れた瞬間、死んだ肉体から逃げて、別の肉体へ移るつもりか。
一秒後、わたしの読みが甘かったと思い知らされる。
オプシディエンヌは己の死体とつながったまま、星幽体を受肉させた。
削られた四肢から、抉れた脇腹から、潰れた単眼から、ありとあらゆる傷から、左右非対称に鋏角や節足が生えて、蠢き這う。まるで美女の死骸に巣食った蟲だ。あるいは美女から孵化した蟲。
悍ましく呪わしい遺骸蟲だ。
節足で逃げる気か。
絶対に取り逃がせないのに、まだわたしの魔力は回復しきっていない。
大蛇がうねり、白骨を這って登る。鱗が削られるのも構わず、オプシディエンヌの行く手を阻んだ。
オプシディエンヌから生えた異形の鋏が、白骨を砕く。
骨の破片が弾け、撒き散らされ、その隙に節足が藻掻いて白骨に潜り込む。蛇は骨に体当たりして、オプシディエンヌを追う。
クワルツくんも追いかけてくれるけど、息切れが酷くなっていった。
「大丈夫ですか?」
「答えは否だが、今は魔女に集中せねば。回復は何割だ?」
「六割ほどです」
【遡行】には、まだ足りない。
よっつめの干し肉を噛みながら、オプシディエンヌへ視線を投げる。
表情を失っていた死骸の美貌が、刹那、笑う。口角の両端を上げ、にまりと。
ぞっとするほど嫌な予感が、背筋を凍らせた。
オプシディエンヌが打っている手は、逃走じゃない。攻撃の一手だ。
「先生っ、気を付けて!」
わたしの叫びは一手遅い。
絡まっていた肋骨や支えていた頭蓋骨から、地滑りじみた響きが沸き上がった。足元のぐらつきが連鎖していく。
白骨塔の崩壊だ。
オプシディエンヌは白骨塔を崩すため、あちこち砕いて足掻いていたのか。
「ミヌレくん。離れねば巻き込まれるぞ!」
「それは駄目です。ここで取り逃がすなんて……ッ!」
わたしの意見など、クワルツくんだって理解している。それでなお離脱を選択しなくちゃいけない状況か。
この白骨塔がオプシディエンヌを戒める鎖でなく、閉じ込める檻であればよかった。もし檻であれば、ここまで好き勝手されなかっただろう。
歯ぎしりしても詮無い事だ。
オプシディエンヌは瓦解した『図書迷宮』の暗がりへ入っていく。
だけど歪な節足は止まり、何もないはずの闇を鋏角で引っ掻く。
蟲の鳴き声と共に、空間が引き裂かれた。
暗がりだと思っていた場所に、半円形の劇場が姿を現す。
緞帳が上がった屋根付きの舞台に、階段客席が扇状に広がっている。中世の劇場に、オプシディエンヌは足止めされていた。
「なんだあれは」
「『世界劇場』! 先生の魔法空間です!」
わたしは叫んで、クワルツくんの動揺を抑える。
先生の魔法空間『世界劇場』は、思い通りに見た目を変えられる。牢屋だろうが王宮だろうが思いのままだ。
オプシディエンヌが『図書迷宮』に逃げ込むと予測して、自分の魔法空間を召喚。通り道に罠を張っていたのか。
先生のおかげで足止めできたんだ。わたしも魔法空間を召喚して、異形の遺骸蟲を圧し潰せないか。
錫杖を強く握れば、淡い光が膨れていく。
力を込めた瞬間、足元から突き上げられる振動がきた。
ついに白骨塔が瓦解したんだ。
クワルツくんが呼吸を乱しながらも、大きく跳ぶ。
わたしの足元の遥か下で、人魚たちが命懸けて作ってくれた鎖が、輝きながら崩落していく。
白夜へと散っていく白骨。
だけど逆に、骨に宿った魔法がわたしへと集まってくる。ひとつひとつは微かだけど、大きなうねりとなって、わたしの魔力に注ぎ込まれた。
目が痛いほど強い、純白の光。
「……くっ!」
光が結ばれる。
目を開けば、白亜の回廊が続いていた。
仄かな明るさが満ちているのに、突き当りが見えない廊下。真っ白い壁には神聖文字、原始エノク語、弦楽文字、そのみっつが見えないほどの細かさで刻まれていた。
「『永久回廊』か」
クワルツくんの呟きが、厳かなる白に反響を齎した。
「きみの魔法空間………」
「いえ、ここはわたしだけの魔法空間じゃない」
統べてみて初めて分かった。
「『夢魔の女王』と『尾咬蛇』ふたりの魔法空間が合わさったものです」
わたしの『おたくのおうち』が、傍らにいる蛇の『世界劇場』と混ざって、再構築し、そして人魚たちの後押しがあって『永久回廊』になったんだ。
蛇の隻眼が耿々と輝き、わたしたちの背後へ視線を向ける。
視線の方から雑音が響いた。
異形の骸となり果てたオプシディエンヌがやってきたのだ。
逃げていたはずのオプシディエンヌは、硬直する。すぐにきびすを返したが、無駄だ。
本来だったら回廊を逆に進めば、窮極の間へと入れる。だけどその通路はわたしが封じた。ここは完全なる円環。もうオプシディエンヌはどこにも行けない。
逃げようが、永久に回廊を巡るだけ。
「ここは狂った魂を癒し、再び輪廻に還す領域。でも、オプシディエンヌ。あなたの存在は、輪廻から淘汰される。ここで果てるのよ」




