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第四十六話(前編)魔王神化論


 わたしは膝を折った。

 おやすみのキスのように、伏したミノタウロス、いえルベリウスの額へ口づける。

 魔力を吸い尽くされた【屍人形】は、水を失った土みたいに崩壊した。乾ききった膚の亀裂から、滲んで零れるマーキュリー水。黒ずんだ水銀光沢が闇に融け、沈黙になっていく。

 残ったのは柘榴細工の短剣だけ。

 鼓膜よりも深いところで、挽歌が響く。

 カルブンクルス王女の歌い奏でる挽歌。

 これがアトランティスの滅びから、二十万年を経た王女と将軍の帰結か。

 黙祷にも似た静寂が満ちたのは、ほんの須臾に過ぎなかった。


 視界の端っこに、金の糸が棚引いた。

 黄昏の闇と、黄金の光を孕む糸。


 オプシディエンヌの胸元を飾る円網の金細工が、ゆるりと解かれていた。糸はその身に宿す光と闇を強めながら、空間へ広がっていく、いや、侵蝕か。

 あれはオプシディエンヌが使う時魔術の媒介だ。

 以前、わたしたちを千年前の砂漠に飛ばした時も、黄昏蜘蛛の糸を媒介にしていた。

 モリオンくんの肉体(オニクス先生)が柘榴細工の短剣を掴み、蜘蛛の糸を弾く。水滴で姿を現し、重みを増した糸は、短剣を濡らしながら弾かれていった。

 オプシディエンヌ本人を先生の肉体(モリオンくん)が魔弾で牽制して、マリヌちゃんが水精霊の刃で糸をいなしている。

 だけど黄昏蜘蛛の糸は、誰も注視していない。 

 わたしの霊視にしか映ってないのか?

 ルベリウスの魔力を吸えたから、わたしの経絡は少しだけ潤っている。

 魔女の仕掛けた罠は壊れて、立ちふさがる障害は取り除けた。

 あとは【遡行】を打ち込むだけなのに。

 呼吸を整え、立ち上がり、跳ね、オプシディエンヌへと真っすぐ駆けた。


「ゼルヴァナ・アカラナ。北極大陸をあなたの墓標にしましょう」


 黄金の糸は満ちて、空間の密度が上がっていく。

 絶対にまずい。

 早く【遡行】の展開範囲まで近づかないと。

 焦った刹那、空気が轟いた。

 音の無い振動。

 衝撃に鷲掴みされたように、体幹が根っこから揺らいだ。一角獣の四つ足でも耐えられない。

「ぐっ……ぁあ!」

 先生の肉体(モリオンくん)と一緒に転がされて、結晶柱に叩きつけられる。

 衝撃に呻けば、【胡蝶】が羽ばたいた。

 わたしたちを包み込み、護っていく。

 オプシディエンヌの至近距離にいたマリヌちゃんとモリオンくんの肉体(オニクス先生)が、病的な顔色で咳き込んだ。あたかも毒杯を呷ったように、己の肺を押さえ、掻き毟り、吐くように呻く。

 肺腑が爛れる。

 皮膚が爆ぜる。

 眼球が潰れる。

 高濃度エーテルによる肉体崩壊だ。

「【胡蝶】ッ!」

 わたしは蝶たちに命じて、展開範囲を広げる。

 幾千億を越えて極まった蝶らは羽ばたき、恒河沙の如き鱗粉を舞わせた。

 みんなを包む。


「大気をレムリアまで戻したのか」

「いいえ、そんな手ぬるいやり方で、倒せるあなたじゃないでしょう。戻す地点は、人魚さえ生きられないほどの太古。妾が生まれる前まで大気構成を戻しているのよ」

 

 オプシディエンヌの誕生前?


 いったいどこまでエーテルが濃くなるんだ。もし創世紀のように、大気で泳げてしまうほどエーテル濃度が上がったら、現生人類や第四人類どころじゃない。第三人類でさえ呼吸不可能だ。

 精霊と創世種以外は即死する。

 オプシディエンヌが第三人類だとしても、呼吸できなくなるんじゃないか。

 爆音が轟く。

 『図書迷宮』の外壁が開かれた。

 結晶の粒と鉱石の塵がきらきら輝き、迷宮から水めいた空気が流れて落ちていく。

 天上のオーロラが、粘る大気の中に差し込む。

 世界が万華鏡になったみたいに、極彩光が生まれては散っていく。光の泡沫だ。

 虹色万華鏡の洪水は、大神殿を覆っていく。

 眼下は死と生が溢れていた。

 人類は胸を掻き毟りながら死に、精霊が原始的な生命として受肉する。

 大神殿は屍に覆われていくたびに、精霊が受肉するのだ。水精霊がシーラカンスやアンモナイトと化し、土精霊はオーロポーラ珊瑚となって群れを広げていった。

 オーロラとエーテルが混ざり、見渡す限りが疑似的な太古の海になっていく。

 クワルツくんはどうなった?

 わたしの霊視が届く範囲に、水晶の影は引っ掛からない。

 動こうとするわたしの手首が、万力のように握られた。


「落ち着け、ミヌレ……」


 わたしを射抜く隻眼の鋭さは、オニクス先生のものだった。

 先生が己の肉体に戻ってきたんだ。

「自分の肉体に帰還できたんですか? 術式なしに」

「【星封】を使わせるための疑似的な【憑依】だ。今の衝撃で戻ってしまった」

 そう語りながら、指を握り、膝を撫で、瞬きする。己の肉体の感覚を戻していく。

 腰に巻いて引きずっていたマントを解き、肩にかけて背中を隠した。

「無暗に動けば、【胡蝶】が散る。案ずるな、きみは大神殿に魔法空間を召喚している。あの内部ならば、宇宙でも生存可能だと怪盗は知っているのだ。即時避難は出来る」

「おとなしく避難してくれるクワルツくんだったら、こんなに心配してません!」

「それでも動揺はすべてを瓦解させる」

 呼吸を整えながら、先生は姿勢を正す。

 そして焦点を魔女へと絞った。弓の弦を引くように。

「私たちが成すべきは、目の前の敵を葬るだけだ」 

 だけど、どうやって。

 オプシディエンヌは目に見える場所に佇んでいるけど、手は届かない。

 ほんの数メートル。一角獣だったら、ひとつふたつ蹄を鳴らせば行き着ける。

 だけど高濃度のエーテルが満ちている空間では、致死の隔たりだ。 

 【遡行】を刺すには、遠すぎる。

 鱗粉と飛び交う【胡蝶】の向こう側では、オプシディエンヌが荒々しく呼吸を繰り返していた。唇は褪せて、蜜膚が濁ってもなお、魔力と生命を絞り出している。

 レムリアの魔女でさえ息が出来ない濃度だ。

 オプシディエンヌは北極大陸ごとわたしと先生を殺して、己ただ独りだけ生き残る賭けをしている。

 活発になっているのは精霊だけ。

 【胡蝶】はいつまで維持できる?

 そもそもマリヌちゃんたちは高濃度エーテルを吸ってしまった。治療を急がないといけないのに。

 わたしが動かないと、みんな死ぬ。

 わたしが動けば、みんな死ぬ。

 どこに打開点がある。

 焦りに思考が焼かれていると、先生がわたしの手を握る。

「ミヌレ。私だけ【胡蝶】から出せ」

「何を言ってるんです。アトランティスの肺腑であっても、耐え切れないレベルになってますよ!」

 そもそも先生には呪符も奪われ、武器も壊された。

 傷だらけの肉体がひとつあるだけだ。

「私が勝ち筋を開く。きみは成すべきことを成すといい」

 先生が【遡行】を使う好機を切り開いてくれるのか。

 詳しく語らないのは、魔女に聞こえることを恐れてか。それともわたしに反対されることを危惧してなのか。

「私は生きる。死の淵に落ちるつもりはない」

 黒瑪瑙の瞳が、優しくわたしを映していた。ここが戦場なのを忘れてしまう。世界にふたりきりになってしまったみたいだ。

 生きると語ったその言葉を、胸に抱く。

「信じます」

 蝶々のヴェールの裾から、先生は身を投げ出す。

 濃密なエーテルに包まれて、黒髪が重たそうに揺れた。

 背中を覆っていたマントが解かれる。

 先生の背に刻まれた鞭痕が、弾けんばかりに脈打った。切り裂かれたばかりで血が張り付いていたけど、乾いた血が湧きたち始めている。

 精霊の幼体が寄生し、蛇の形になって産まれてこようとしている。

 先生はその凶悪な蛇を、御する賭けに出た。

 以前、海の民の家で憑いた精霊蛇は、暴走しながらも最後の一瞬だけ従った。血肉や内臓を犠牲にして、蛇を使役するつもりなんだ。

 でも己の一部を精霊化させても、本人のエーテル耐性は変わらない。

 どうするつもりなんだ?

  

「私は蛇蝎」


 詠唱めいた呟きだけど、これは祈りの言葉に等しい。

 切られた傷から血肉が泡立ちながら湧き、うねりながらそそり立ち、巨大な蛇になっていく。エーテルが濃い分、物質化も速い。

 だけど獰猛な蛇を従わせられるのか?

 オプシディエンヌの多肢から糸が繰り出され、蛇頭を切り裂いていく。糸の速度と切れ味は鈍くなっているけど、受肉精霊を断てる力は残っていた。

 血とともに散っていく蛇の頭蓋。

 隻眼が閉じられた。


「我が身を喰らう一匹の蛇」


 一匹だけ残った大蛇が大きくうねり、自らの尾を咬むように、先生を飲み干した。

「先生っ!」

 御しきれなかった?

 大蛇は皮膚色だったけど、先生を呑み色彩が黒くなっていく。鱗の影は瀝青めいて黒ずみ、光が当たれば鋳鉄じみて艶めき、差し込むオーロラを乱反射させていた。

 ああ、これは尾を咬む蛇だ。

 時間障壁の彼方、『永久回廊』で見た大蛇だ。 

 先生は蛇を従わせるのではなくて、蛇そのものになったんだ。


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