第四十五話(後編)幾千億の無慈悲
わたしの脳裏には疑問符が浮くが、オプシディエンヌは何も疑ってない。
目の前のオニクスが、副総帥だと思っている。
「あの少女は、妾と唯一対等になる運命の生き物よ。採取を最優先してちょうだい」
「そうか」
短い返事と同時に、オニクスは渾身の力で踏み込む。
オプシディエンヌへ何か投げつけた。
無機質の塊?
結晶柱たちの乱反射を受けて、無機質な輪郭が闇を区切る。
一瞬だったけど、投げられたそれが何か把握した。
あれは魔導銃の駆動部か!
しかも安全弁が壊れている。
不全呪符が暴発した。
地響きするほどの紅蓮と閃光に、闇が一瞬にして退く。
蜘蛛の糸と黒髪、この世のものとは思えないほどの劫火に嘗め尽くされた。炎は揺らぎながら、羽ばたくように広がって、水面を照らし、結晶を染め、鉱床に影法師を躍らせる。
ミノタウロスが斧を円状に薙いた。
疾風と共に紅蓮の炎は断ち切られて、たちまち火の粉になっていく。水と闇に飲み込まれる小さな火の残滓。
オプシディエンヌは焼かれた黒髪を掻き、残った糸で水滴を纏う。『図書迷宮』は水の精気が強すぎて、どれだけ強い炎であっても鎮火されてしまう。
底知れないほどの水。
水の魔法を使う人魚。
そして漂う水精霊たち。
オプシディエンヌの糸の弱点である炎が、完全に封殺されていた。
肉体的な損傷は少ないが、オニクスが敵に回ったことに怒りと戸惑いを抱いている。
「たしかに記憶を封じたはずよ。何故」
「さあ? どうしてでしょうかね」
抑揚は上品なのにどこか擦れっ枯らしな口ぶりに、聞き覚えがあった。
まさか………
滴りて濡れそぼつ陰の中、人影が走る。
マリヌちゃんだ。
全力で駆けつつ、呪文を詠唱している。
「我は水の恩恵に感謝するがゆえに、溺れぬ魂に命を下す」
詠唱しているのは、【水霊召喚】?
マリヌちゃんは使えない魔術だぞ。
いや、エーテリック領域から召喚せずとも、精霊たちはここに在る。
サイコハラジック特異体質は異界と繋がるための体質。普遍に精霊が存在しているなら、ブッソール猊下のようにサイコハラジック特異体質でなくとも構わない。
でもそういう無茶な使い方、前例ない。
どんな副作用や後遺症が出るか分からない。
「乾いた月と水象三宮の汀。不可視たるエーテリックの領域。棲まう水属に与えられし真名はウンディーネ! 自我を得る進化から堕ちた心よ 意識を宿す可能性を喪った魂よ」
マリヌちゃんの慟哭めいた詠唱と共に、身体の半分が薄氷と露霜に覆われていく。
水精霊たちが血のぬくもりを啜っているんだ。
真っ青になった唇で呪文を紡ぐ。
「汝に欠けたる本質を、我が与えん! 詠唱代価は我が血潮!」
折られたレイピアを、オプシディエンヌの胸へと繰り出す。
届くはずのない間合いだ。
「汝、我を喰らいて、顕現せよ、具象せよ、凝固せよ! いざ現世に来たりて嘆け」
マリヌちゃんを中心にして、氷が生まれる音が響く。
攻撃魔術が暴発するような金臭い空気。
「【水霊召喚】!」
「なっ………」
オプシディエンヌの纏っていた水滴が凍てつき、鎖となった。
マリヌちゃんの折れたレイピアは氷が凍てつき、刃となった。
ミノタウロスの足元に満ちていた水が凍てつき、枷となった。
血の暖かさを供犠し、水精霊らを統べたんだ。
折れたレイピアを振るっている利き腕には、水精霊ウンディーネたちが数えきれないほど憑いて、そこから氷を生み出している。
水が飽和した闇なら、水の精気は底なしだ。
オプシディエンヌの糸に断ち切られても、折られても、氷の刃は蘇る。
魔女の黒髪と指先を、凍れる切っ先が跳ね飛ばした。
水を淀ませる血の匂い。
動けないミノタウロスは斧で氷を砕き、駆けつけようとする。
「行かせませんよ」
オニクスは矢継ぎ早に、ミノタウロスの喉仏へと捩じ切られた銃身を投擲した。
斧の一振りで、銃身は跳ね返される。
長身はぎこちない動きながらも、返された銃身を躱して、ミノタウロスから距離を取る。わたしの方へと下がった。
「ミヌレさま、早く回復を!」
オニクスの肉体から発された声は、先生の口調じゃない。副総帥でもなかった。
やっぱりモリオンくんなのか。
信じられないけど、モリオンくんなら十年分の記憶を封じられてもオプシディエンヌと敵対状態だし、先生の肉体だって片脚の後遺症以外は馴染むだろう。成長後の身長がほぼ同じだもの。
先生の肉体にモリオンくんが【憑依】しているんだ。
オプシディエンヌも察した。
白と黒の双眸だけじゃなく、額に並ぶ単眼までも驚愕を帯びる。
「モリオン。あなたなのね」
「ようやく理解したんですか? 誘惑する相手を間違って得意顔とは、閨狂いもそこまでくると滑稽ですねぇ!」
喉を仰け反らせるほどに哄笑した。
モリオンくんは不自由な足を引きずりながらも、魔弾盒から出した魔弾を指ではじく。
身動き取れないミノタウロスを、指弾で牽制していた。
「目論見がご破算になってご愁傷さま。同じ手を二度も使うなんて、魔女の搦め手も枯渇したようで何よりですよ。枯渇じゃなくて耄碌ですかね。【星封】の対応を、ボクらが練ってないと思っていたんですかァ?」
【星封】対策として、モリオンくんが先生の肉体に入ったんだ。
十年分の記憶を犠牲にすることを決意していたのか。
そして記憶が飛んでも、どんな状況か咄嗟に判断してくれたのか。わたしが時の箍の破壊に成功し、オプシディエンヌと再戦中。そして先生を副総帥に戻さないために【憑依】しているのだと。
眼窩の底が、涙で熱くなる。
わたしは全力で水と結晶の汀を這って、闇の彼方へと遠のいてしまったヴリルの銀環を探す。
どこだ。霊視の届かない場所まで転がっていったのか。
ちらりと、遠くで底光りする何かが明滅した。
あれは人魚の眼差しか。
人魚が指し示す場所へ、片足と尾だけで流れない水を這い進む。
燻し銀のバングルが、水底の岩の隙間で沈黙していた。
「あるべき姿に戻れ!」
肺腑潰れるほど声を張り、関節が白くなるほど強く握れば、瞬く間に錫杖化するヴリルの銀環。
回復ブーストをかける。銀の淡い輝きが溢れ、削られた血肉を蘇らせていく。
錫杖に縋り、立ち上がる。
反撃の好機を逃がすものか。
モリオンくんは記憶を代償にして、魔女との戦場に立ってくれているんだ。
マリヌちゃんだって、あの利き腕が無事に済むと思えない。レイピアを握る五指は色褪せて、皮膚は霜柱が立つように歪になっている。
応えなくてはいけない。
息を練るように呼吸して、回復しながら戦闘に注視する。
【遡行】は展開範囲が狭い。
そして魔力の消耗が激しい。
これ以上、魔力は減らせない。
下手に身動きせず、一瞬の隙を狙うんだ。
オプシディエンヌは動きが鈍い。糸を繰っているけど、マリヌちゃんへ決定打を打ち込めてない。腕の二本と単眼のいくつかは、不意打ちに備えている。
わたしへの用心以上に、ここに姿を現してないクワルツくんの急襲を警戒しているんだ。
オプシディエンヌの死角の暗闇が動いた。
クワルツくんか?
一瞬そう期待して霊視する。
違う、あれは、モリオンくんだ。
正確に言うなら、モリオンくんの肉体だ。モリオンくんが先生の肉体を憑いているなら、モリオンくんの肉体に憑いているのは………
「オニクス先生…っ!」
警戒で動かなかった腕から、糸が放たれる。
モリオンくんの肉体は身を捩って糸を避け、短剣で魔女の頸動脈を狙う。
切っ先が浅く掠めただけ。
「ぐ……ッ!」
魔女の呻きは短いけど、群晶を震わせる。
美貌を顰めている理由は、たぶん一筋の傷ゆえではない。屈辱に唇を震わせている。
瞬時に糸でチョーカーを織り、頸動脈を隠した。
単眼のひとつでモリオンくんの肉体を射抜く。
「妾の血肉を喰らったわね」
モリオンくんの肉体の片腕が完治している。あれだけミノタウロスに手荒く痛めつけられ、関節や筋がぐちゃぐちゃになった腕が元通りだった。
食らったのは、さっきマリヌちゃんに切り飛ばされた指?
それで腕を回復させたのか。
「絶望を主食にする蟲など、腐って饐えた薔薇にも劣る味だがな」
声変わり前の声だけど、その口調と煽り方は他の誰でもなくオニクス先生だった。
わたしはオプシディエンヌへ蹄を進める。
今なら隙が伺える。
氷にこだまするミノタウロスの咆哮。
ミノタウロスを戒めていた氷が砕け切った。
斧で指弾を弾きながら、震脚で氷を割ったのか。なんて身体能力だ。
野獣が氷の枷から解放されてまう。
マリヌちゃんが水精霊を飛ばしても、ミノタウロスの速度に追いつけない。
斧が唸る。
石突きが先生の肉体の鳩尾を突き、返す刃でマリヌちゃんを撫で切る。
思考さえ追いつけないほどの瞬く間に、戦場のバランスが一気にひっくり返った。
モリオンくんの肉体がオプシディエンヌから距離を取ろうとするより早く、ミノタウロスが射程距離に捕らえてしまった。
幼い手が握っている武器は、柘榴細工の短剣。
無慈悲の慈悲でミノタウロスの心臓を狙う。
いくら中身が先生であっても、11歳の四肢では、リーチが短すぎる。絶望的な体格差だ。
ミノタウロスの速度なら躱せてしまう。
「………がッ!」
モリオンくんの肉体が吹っ飛ぶ。
致命打じゃない。当て身を食らわされただけ。オプシディエンヌの命令、生かしての捕縛がまだ有効なんだ。
だけど結晶柱にぶつかり、四肢から力が抜けていった。
「先生ッ!」
その手に短剣はない。
躱されるはずの短剣の刃が、ミノタウロスの胸板に深く突き刺さっていた。
魔女も息を呑む。
何故、ミノタウロスの心臓へと刺さっている?
遠目から判断すれば、けして当たるはずのない攻撃だった。
無意味な特攻だった。
ミノタウロス自身が、刃を望まなければ刺さらない。
傷から液体が溢れる。
【屍人形】がその身に巡らせるのは、赤い血でなく黒いマーキュリー水。なのに、柘榴石に触れたせいか、ミノタウロスから溢れる液体は、人間の鮮血のように見えた。
幾千億の無慈悲な世界で、たったひとつの慈悲を掴んだように、ミノタウロスは柘榴細工の短剣に触れる。
敵にとどめを刺すための刃。
そして味方に安楽死を与えるための刃。
ゆえにその短剣は、無慈悲の慈悲と呼ばれる。
硬質な静けさの底で、虚無だったミノタウロスは僅かに表情を変えた。
笑みにしては哀しそうだった。泣き顔にしては嬉しそうだった。
わたしが勝手に表情が変わったと思っているだけで、幾千の結晶が齎す光加減による幻想だったかもしれない。それほど淡い変化に過ぎなかった。
「………カルブンクルス殿下が仰せとあらば」
末期の息が、言葉という象を取って零れていった。
花が散るような声だ。
あの肉体にルベリウスは存在しない。
ただの抜け殻であるはずなのに、眼を閉じて倒れていく時、彼はミノタウロスという野獣ではなく、ルベリウスという男だった。
 




