第四十四話(後編)誰がための断頭台
レムリアの祭祀。
愚王祀り。
君臨者たる聖娼ネフィラ・ジュラシカが、愛人である王の心臓を食べる祭祀だ。
あの心臓はわたしのものだ。
鼓動も体温も、あの心臓はわたしのなのに!
水面で機を伺っていると、オプシディエンヌへエストックが捧げられる。
抱卵する蜥蜴の柄細工は、生贄めいていた。
細工の蜥蜴が可哀想で、抱き締めたい衝動に駆られる。今すぐ物陰から駆け出したいけど、そんな無意味な行動を選びはしない。まだ水と影で息を潜めているしかない。
青銅のミノタウロスが斧を振りかぶる。
たった一撃で、エストックの刀身は砕かれた。先生をずっと支え、戦ってきた武器が、黒い破片と化してしまう。
武器の残骸が、花のように献じられた。
マリヌちゃんのレイピアも、モリオンくんの魔導銃も、先生のエストックも、骸を晒している。レムリアの民にとっては、味方の血を吸った干戈の骸こそ、大輪の如く香しいのかもしれない。
楽器が激しく鳴らされる。樹脂の香りもさらに焚かれる。
わたしの小さなアショロトルの肉体には、地響きと感じられるほどの音楽だ。水にまで匂いが染みてくる。
高まっていく律動と薫香と興奮に合わせるように、半獣たちは揺らぎながら唸りを唱和する。ゆらゆらと。煙や音になってしまったみたいだ。
何もかもが輪郭が融けるほど揺れている中で、少女らが列をなして訪れた。
視力の乏しい目を凝らす。
見目麗しい少女たちだ。黒髪に象牙色の膚、金髪に珈琲色の膚、銀髪に蜂蜜色の膚、亜麻髪に褐色の膚、赤毛に白桃色の膚と、美しさはそれぞれだけど、体形と装飾は揃いだ。
滑らかな輪郭の首から乳房にかけては、翡翠のモザイク細工。ほっそりとした手首には、黄金と銀無垢とオリハルコンの輪。小さな耳朶には、蜘蛛の巣模様のターコイズが揺れている。
そしてへそから下は羽毛恐竜。猛々しい鉤爪足が、わたしの目と鼻の先を通っていった。示趾の爪が凶悪な鎌状になっていて、英雄竜アキロバトルみたいだ。
少女たちは釉がかけられた壺を掲げている。
中に液体が満たされていた。
ほんのわずかに零れた雫を嗅ぐ。この匂い、マーキュリー水やアルケミラ雫だ。
【屍人形】を作るつもりだ。
「愛しい可愛いオニクス。今度はあなたの首を掲げ、連盟に見せつけてあげるわ」
「首だけになっても、きみの頸動脈に牙を立ててみせる」
「ミヌレの肉体を傷つけられるの?」
眼差しから唇まで満ちた嘲笑に、先生の顔が歪む。生皮の縄で戒められた手首が、真っ赤に滲むほど、抑えきれない怒りに悶えていた。
「さあ、あなたは陥落すべき時よ。あなたの首は妾の寝所に、あなたの心臓は妾の腹に、あなたの肉体は妾の戦場に!」
オプシディエンヌは音楽を浴するよう身をくねらせた。
「雄牛! 首を落としなさい」
大きく口を開き、嬉々として叫ぶオプシディエンヌ。両目は獲物だけに向けられ、意識は歓喜に満ちている。獲物を狩る刹那の悦び。須臾の無防備。
今が、好機!
陰を歩いて回り込んで、わたしはオプシディエンヌの足元に飛びつく。
「なに……ッ」
息をのむオプシディエンヌ。
手がもげる勢いで這い上がり、その口の中に投身した。
小さな小さなアショロトルは、わたしの肉体の舌を通り、喉を潜り、胃へと落ちる。
そして意識は魔法空間に沈んでいった。
意識の底では、魔法空間が建っていた。
わたしの魔法空間だ。赤い屋根の小さなおうち。
オプシディエンヌが佇んでいる。
人魚のように裸身を晒し、信じがたいような眼差しで、貫かんばかりに凝視していた。
「血統の封印から脱出するなんて。ゼルヴァナ・アカラナ、親無く生まれしもの、………血の流れさえ、断ち切るというの」
「いいえ、わたしはまだ夢みる萌芽。女王に至らぬ幼体。でもあの封印を傷つけたのは、モリオンくんだった。あなたの血統があなたの封印を否定したのよ」
たぶん魔弾が当たっただけで、封印が傷つくほど容易いものじゃない。
きっとモリオンくんだったからだ。
オプシディエンヌの息子だったからだ。
これは仮説にすぎないけど、血の流れを強制力として組み込んだ封印が、術者の血統に干渉された。血脈が反映しやすい魔法ゆえに、魔弾ひとつで傷がついたんだ。
間違いかもしれないけど、封印が傷ついたのは事実。
そしてわたしがここで相対しているのも、事実だ。
「ゼルヴァナ・アカラナ。北極をレムリアに変え、血統の魔法を使っても、あなたは封じられないのね。狼を取り返されたのは已む無いけど、妾の血族まであなたの手駒に落ちたのは、痛手だったわね」
友人たちへの侮辱に、血管が千切れそうになる。
誰が、誰の、手駒だ!
「ふざけるなよ、クソ魔女が! そもそも舐めプしまくって、今更、本気を絞り出そうってったって無理に決まってる。他人を舐め腐った根性が染みついて、真面目にやろうが詰めが甘いんだよ」
どれだけ破格の能力を持ってたって、メンタルと知恵が回らなくちゃ、出来るのは弱い者イジメだけだ。
能力が対等だったら、血反吐を吐いて啜ってきた方が強いんだよ!
煽り返してくると思ったけど、美貌は凪いでいた。
原始の蜘蛛が、わたしを見澄ましている。人魚が死に絶えた湖面のように静かだ。
「そうかもしれないわね。この肉体の形になってから二億年余り、本気を出したことなんてなかったわ。それでも今まで培ってきたものがある」
「本気も出さず、築き、培えるものか。おまえの知識も経験も、すべてただの贅肉だ!」
サークレットを錫杖化する。
ここはわたしの魔法空間。わたしの領域、わたしの領土。
踏み荒らすものは許さない。
出て行け!
ここはわたしの領土だ。
強く願えば、銀の淡い輝きが暗闇を切り開く。粘つくような暗闇は重いけど、それでも剥がれていく。
オプシディエンヌの星幽体が剥がれているんだ。
手ごたえはあった。
だけど、浅い。
こんなにあっさり引くのか?
【星滅】を【屍人形】に仕込み、天の川の砂鉄を費やして、ゼルヴァナ・アカラナの肉体を手に入れたはずなのに、オプシディエンヌの引き際が素早かった。
無抵抗って言っていいくらい。
妙だな。
わたしの肉体になにか【死爆】なり猛毒なり、罠を仕込んでいるわけじゃないよな。
瞳を開く。
霊視に映ったのは、わたしの腕。花色の爪と、五本の指と、小さな手。
動かせる!
わたしの肉体を取り戻せた!
「先生っ!」
青銅のミノタウロスが背を伸ばし、両手で諸刃の斧を振りかぶっていた。
刃下ろされる先は、先生の首。
処刑寸前だ。
あの巨大な刃は止められない。
わたしは一角半獣化して、刃の下に潜り込む。
腕や足が、斧の重みに切り落とされていくけど、刃の勢いは削がれない。
回復ブーストで血肉を湧かせ、肉壁を造り続ける。
骨が軋んで割れ、腱が引きちぎれていく。それでも盾にならなくちゃ。
わたしの脂と血が刃へと絡み、斧の起動が僅かに逸れて、トリケラトプスの頭蓋へ突き刺さる。
散らばるのは、臙脂の血と、足や腕。
「セーフですね」
「アウトだ!」
わたしの血肉の下で、先生が喚いているけど無視。あんまり叫ぶと、わたしから滴る血を飲んじゃうよ。
無事だった片腕を翻し、ヴリルの銀環を錫杖化する。
「魔法空間、一部召喚っ!」
ミノタウロスへ、寝椅子や書き物机が落下する。重い調度品が大量に落ちるという単純な戦法。
だけどミノタウロスは難なく受け止め、弾く。
数秒でいい、時間を稼ぎたい。
【胡蝶】を展開するだけの時間。
絶対防御さえ発動すれば、どれだけ巨大な斧であっても防ぎ切れるのに!
そうだ、ここは疑似的なレムリアだ。
エーテルは高濃度。
マテリアル化するためのエーテルが豊富にあるんだ。
だったら宇宙と同じく、魔法空間ごと召喚できるはずだ。
全身全霊そして全魔力で錫杖を振るう。
「召喚!」
叫びによって、赤い屋根のおうちが具現化する。
家がミノタウロスを押しつぶした。いや、ミノタウロスだけじゃない。あたりの半獣たちまで巻き込んでいる。被害に遭わなかった半獣たちは、愚王祀りをめちゃくちゃにした存在を遠巻きに警戒している。
「………っ、は」
鮮血に冷や汗が混ざっていく。
まずい。思った以上に魔力を消耗しちゃった感覚がある。
オプシディエンヌを巻き戻す【遡行】の魔力は残さなくちゃ。時魔術は、わたしの全魔力が必要だ。どっかにあるはずの北極用干し肉を回収しないと。
ひらり、と、蝶が舞う。
古代魔術【胡蝶】だ。
羽ばたきながら分裂し、増えて、幾千億万の羽根が広がっていく。わたしと先生が包み込まれるまで、あと数秒。
わたしが身動きしない限り、物理に対しては最強格だ。
でも致命的な欠陥がある。
人質を取られたら、わたしは動かざるを得ない。
その前に先生を救助。態勢を立て直さないと。
太ももからダマスカス鋼の短剣を取り出し、先生の手首に食い込んでいる生皮の紐を切る。いや、切り裂ききれない。これはオプシディエンヌの黒髪も混ざっているのか。
赤い屋根のおうちが、僅かに振動する。ミノタウロスが抜け出そうとしているんだ。
さすがに家一軒分の重量は振り払えないみたいだな。
「ミヌレ! ミノタウロスから距離を取れ!」
先生から叫びが放たれる。
家屋の下敷きになったミノタウロスは動けない。だけど片腕を一本出して、空気を薙ぐように斧を振るった。
わたしに纏う最後の蝶が羽ばたきを終える直前、大気が絶対的な質量を持って押し寄せてくる。風に殴られるような衝撃。
「うわっ!」
体勢が崩れ、蝶が散る。
しまった。
打ち手を間違えた。
先生の束縛を解くのを焦り過ぎたんだ。【胡蝶】の安定に集中するべきだった。
後悔に脳髄がかき回され、風圧に四肢が吹き飛ばされる。
浅い人工湖へと落ちた。
祭壇へ視線を向ける。
ミノタウロスは魔法空間に押し潰されたままだった。それでも腕を撓らせ、投擲の体勢に入っている。
諸刃の斧が投じられた。
先生まで手が届かない。四つ足で駆けたけど、一角獣の蹄でも遠い。なんでこんな遥かな距離が、先生との間に横たわっているんだ。
ミノタウロスの斧の刃は、ふたたび断頭台に転じた。
血まみれの刃が、先生へ落とされる。
骨が潰れる音。
何かが転がる。
スイカほどの大きさのものが、赤い汁を滴らせて、転がる。命宿らないモノのように、ごろりと。
祭壇という頭蓋骨から、血溜りへと落ちる、それ。
わたしはそれが何か察していながら、直視できない。呼吸さえも出来ない。
たとえわたしの首が落ちても、獣適性の高さとヴリルの銀環で、死を遅延させられる。
だけど先生には、獣の適性はない。
魔王の如く強くても。
蛇蝎の如く生き汚くとも。
首が落ちれば、蛇とて死ぬのだ。




