第四十話(中編)契約の虹
「紛い物の王どもは消えたと言っていたな。そしてこれは本物の王族のためのワインだ。もしや偽りの王が飲み干せば、消えてしまうのか?」
どこまでも冷たく鋭い詰問に、小人たちは満面の笑みのまま。
「そうよ、消えてしまうの」
「偽りの王が聖なるアンブロシア酒を飲めば、消えてしまうのよ」
すくすく笑い声が上がる。
楽しそうな空気なのに、ひどく不穏な冷たさがにじり寄ってきた。気候は穏やかなのに、毛穴まで冷気が凍みて、うなじに悪寒を齎す。
目の前の牧歌的な眺めと、肌で感じる寒さがなんだかちぐはぐだ。
「きみたちが飲めばどうなる?」
質問を飛ばしたのはクワルツくんだった。
「あたしも消えてしまう」
「ぼくも消えてしまうよ」
「大昔、いたずらっ子が勝手に飲んじゃったの」
「そしたらその子はどこにもいなくなっちゃった」
「天の葡萄から醸すアンブロシア酒は、本物の王さまと女王さまのお飲み物だもん」
アンブロシアを飲むと、空間を跳躍するの?
でもそんな伝説はない。アンブロシアは不老長寿の果実のはず。
先生の隻眼が眇められた。
「誰ぞ、毒見を」
矢のような裂帛を射られ、小人は一斉に困った顔になる。眉尻下げて泣きそうだ。
「だめだよ、これはほんと王族だけのもの」
「われわれは口に出来ない」
「私の命令に逆らうか」
「先生、擬人類には毒かもしれないんですよ!」
止めようとしたけど、クワルツくんの腕がわたしを制した。手のひらと五指を動かし、大丈夫だと手話で伝えてくる。そして水晶めいた視線は、葡萄酒と擬人類に注がれていた。
ああ、そうか。そういうことか。
小人たちは焦りと戸惑いに、きょときょと辺りを見回す。
ざわめく中で、ひとりの年寄りがよろよろと進み出た。
薄くなった巻き毛は真っ白、皺だらけの皮膚は真っ黒、腰がひどく曲がり、杖に頼らねば歩けないご老人だ。立っているだけでぷるぷる震え、呼吸も微かに異音がある。死神の鎌から逃れているのが不思議なほどの老人だった。
「わしがお毒見役の栄誉をたまわるよ」
「大じいじさま!」
「最長老どの」
白髪で黒肌の最長老は、オニクス先生に頭を下げる。
「わしは最長老のケドルス。エベヌムとリーリウムの一人息子、ティリアとオルキスの内孫、ラウルスとトリフォリウムの初孫。祖は書記長アルンドー。先祖に恥じぬよう、子孫の助けとなるように、毒見をするよ」
最長老は意を決し、オウムガイ杯を掴む。
皺だらけの指は震えが酷くなる。
幼い小人たちが、老いた小人を見上げている。
「子たちや、孫たちや、曾孫たちや、じいじの最期を見ておくように。子々孫々に語り継ぐように」
その言葉に幼い小人たちは、揃って頷いた。
酒が髭を濡らす瞬間、クワルツくんがオウムガイ杯を押さえ、奪う。
「怪盗、結果は?」
先生が手短に問えば、先読みの瞳がわたしたちに向けられた。
賢者連盟から『未来視の狼』とあだ名されるほど、クワルツくんは予知の瞬発力が高い。短期受動型予知では、並ぶものがいないほどだ。
とはいえわたしや先生の闇耐性は高くて、クワルツくんは読み切れない。自分自身では経過観察が難しい。
小人さんが怯えても、飲ませるギリギリまで持っていくしかない。
「この老人が酒を煽ると、刹那のうちに若者になり、赤ん坊になった。それから小さな虫か魚みたいになって、消えてしまった」
「胎児になって消滅したか」
アンブロシアは不老長寿の果実じゃなかったのか……
若返りの果実だ。
千年の寿命を持つアトランティスの民なら、何十年と若返りしたって丁度いいかもしれない。
だけどわたしには………向かない。
指先や爪先から、体温が抜け落ちていく感覚がする。指先ひとつでも動かした途端、ありもしない奈落に落ちそうだった。
ああ、どこにもない虚に落ちている猶予はない。
哀しみに酔ってる暇があったら、アンブロシアじゃない別の方法を探さなくちゃ。あるいはアンブロシアから発展させた方法を。
若返りの果実を基礎に研究を重ねれば、わたしの寿命を延ばせるでしょう。
でも不老長寿の研究は、道を踏み外しやすい。
誰の犠牲も出さず、わたしの寿命を延ばす方法なんてあるのかしら?
黙りこくるわたしを、先生が抱き締めた。
強く、強く。肺腑が押しつぶされて、何も言えなくなるほど強く。
ひょっとしてアンブロシアの効力が強すぎて、先生も絶望したのか。
わたしよりずっと深く昏く、絶望していたのか。
先生はわたしから腕を離して、ワインではなく絶望を飲み干し、威風堂々とした姿勢で小人たちを見回す。ここで狼狽しても始まらないもの。
「毒見など、無粋な真似をせずともよい。きみたちの忠義を図っただけだ」
傲慢極まりない一言に、小人の間でざわめきが弾ける。
「忠義を図るだって」
「王さまっぽいね」
「とっても王さまだね!」
上機嫌に笑う小人たち。
なんか怖いな。毒見を命じられたばかりなのに、この和やかさは感覚的に受け入れ難い。
「ときに忠義深きご老人。私が齢を問うても、礼を逸したことにならんか?」
「王よ。なんの非礼になりましょうや。わしは百十九歳になりもうした」
ぞっとする。
若返りの酒、百二十年以上も戻すのか。
オウムガイの貝殻からは香しさが漂うが、もう手を伸ばす気になれない。
「さあ、王さまと女王さま、飲んで」
「戴冠して」
「今度こそ本物の王さまと女王さま」
「きっとあたしらを統べてくれるの」
「そして永遠の幸せを与えてくれるんだ」
つぶらな瞳は無垢だった。
外から来た人間たちは、急に現れたんだ。急に消えたって不思議じゃない。
小人たちは外つ世を忌む。消えた後どうなったかなんて思考の外のこと。
先生が黒瑪瑙の杖を握る。
「何をするつもりです」
「眠らせるだけだ。手に入れるべきはアンブロシア。ワインと種子を持ち帰って、研究すればいい」
小声で喋っていると、クワルツくんがオウムガイの杯を握る。
アンブロシア酒に、クワルツくんが口をつけた。
傾け、呷り、喉を鳴らし、杯を空にする。
飲み終えたクワルツくんは、何ひとつ変わらない。
若返ってしまうんじゃないの?
わたしが凝視していると、クワルツくんがいたずらっぽく口角を上げた。
「何、初歩的な手品だ。飲んだ演技など、吾輩にとって造作もないこと」
ジズマン語でこっそり呟く。
「演技……あれが?」
横から見てても飲んだようにしか見えなかった。
喉仏も動いていたから、迫真の演技ね。
わたしと先生へ捧げられた杯も、クワルツくんがこっそり入れ替えて飲み干したふりをしてくれた。どこにワインを捨てているんだ? 横で見ててもさっぱり分からん。タネと仕掛けがあるの? 器用ってレベルじゃないぞ。
小人たちから歓声が上がる。
「めでたし、戴冠だ!」
「ああ、今度こそ本物の王さまだよ! 女王さまだよ!」
「この戴冠の光景、子々孫々に語り継ぐよ」
熱狂する小人たち。
「ではこのアンブロシア酒は、吾輩以外にはけして供せぬよう」
「その通りに、王さま」
最長老が恭しく頭を下げた。
そうか。わたしたちが小人を眠らせて、島を脱出したら、いつかまた被害者が出るかもしれない。
島に流れ着いた誰かが、若返りのワインを飲まされてしまう。
「王さま、アンブロシアのお酒って美味しかった?」
「どんなお味~?」
興味津々に小人たちが囲んでくる。
「無論、まさに王族のためのワインだ。濃厚でありつつ、酸味も渋みも調和がとれている。これほど力強く頼もしいワインは、初めて味わった。それに香りが面白いな。杯に満たされていた時は枯草やきのこの如き秋の風情が強い上立ち香だったのに、含み香は夏の下草や漿果めいている。香りがここまで劇的に印象が変わるとは、意外だな」
「香りが変わるんだ~」
「おもしろいね」
「色合いもまさに至上の赤。成熟しきっているのも関わらず、色彩が煉瓦枯れしておらん。しかも天鵞絨のように滑らかな口当たりは、よほど湿度と振動管理を徹底していたのだろう。長きに渡っての丁寧な保管の証だ。土づくりから樽の管理まで、誠実な仕事ぶりに感嘆するよりほかあるまい」
クワルツくんに嘉され、はしゃいでいる小人たち。
一滴も触れさせていない舌がよく回ることだ。
まあ、小人さんたちは飲んだことが無い。それにクワルツくんはワインの香りだけでも、地域や年代や価値の判断ができる。まったくの嘘じゃなくて、香りで良し悪しを判断したのかな。
宴の華やかさを尻目に、先生はわたしの耳元に唇を寄せる。
「ミヌレ。アンブロシアの醸造酒も標本瓶に入れた。宴が終わったら、隙を見て荷物を回収。離脱だな」
脱出計画していることを知らない小人たちは、満面の笑みだった。
「申し訳ないですね。こんなに歓迎してくれているのに」
「きみが殺されかけたのだぞ。あの擬人類どもめ、忌々しい。だから馬鹿と無知は不愉快だ」
無知か。
たしかに小人さんたちは知らなかった。
無垢で、無邪気。そして無知。ゆえに無辜ではない。
小人たちはきっと、善でも悪でもない。
クワルツくんは堂々と背筋を伸ばしていた。
「次はきみたちの飲んでいるワインを頂きたい」
ご馳走のお皿は下げられて、わたしたちは自家製の素朴なワインを供される。
すみれの花や薔薇の実から仕込まれたワインたちは、宴席に飾られた花たちより高く香った。