序のひとつまえ 蛇蝎は魔女を殺したい
オニクスは牢獄で水音に耳を傾けていた。
この陰鬱とした牢獄は、オニクスの作り上げた魔法空間だ。
己の中の魔力を練りながら、いつか訪れるであろう賢者を待っていた。
どれほどの時間が経過したのだろう。
人影がひとつ。
鉄格子の向こう側に現れたのは、理知的な美人だった。
その美貌からは、性別や年齢が窺えない。性別を超越したと形容するか、性別が欠如したと言い表すかは人それぞれだが、美しさに異を唱える者は存在しない。
「鍵を開けてくれないかしら? アタシじゃ解除できないもの」
ただしその麗しい唇から紡がれる声といったら、ごつい男の低さと太さである。どこか別人が隠れて腹話術でもしているのではないだろうかと探したくなるが、その低い声こそ間違いなく麗人の喉から発されたものだった。
「刺繍遣いか」
刺繍遣いディアモン。
七賢者パリエトの二番弟子だ。
オニクスは身体を起こした。
鍵こそ開けなかったが、話を聞く姿勢を作る。
「美的の欠片もない空間よね。どうにでもなるんだから、もっとブリリアントにしてもらいたいわ。アタシのドレスに相応しくない」
ディアモンが纏っている衣装は、紫ベルベッドのドレスだ。刺繍によって描かれているのは、空想の世界にだけ生息する植物たち。金糸と極彩色の刺繍糸で、左右非対称に胸元から足元まで刺繍されている。
マスタード色の飾り布を巻いているせいか異国情緒が馥郁と漂い、女性用のドレスというよりも、遥か遠い王国の礼装めいていた。
「きみが服装を変えればいい、この陰湿な牢獄に相応しくな。それより用件を言え」
「アナタのカラダ、採寸していいかしら?」
「私の死に装束を作ってくれるとはな。光栄なことだ」
「違うわ。花婿衣装よ」
牢獄に響くディアモンの低音。
あまりにも場違いな単語に、オニクスの口が開いたまま閉じることを忘れた。
花婿衣装。
聞き間違えかと思って告げられた単語を反芻して、咀嚼して、嚥下する。
やはり花婿衣装と言われたのだ。
嚥下したところで消化できない単語だったが、続く沈黙と深まる疑問に耐えかねて、オニクスは問いを発した。
「誰の?」
「アナタの」
「知っているか? 葬式は独りで出来るか、結婚はふたり揃わないと出来ないのだぞ」
「アナタとミヌレちゃんの」
そこまで言われて、正していた姿勢が崩れた。ずるずると蛇が這うように倒れ込む。
「プランBよ。カマユーはアナタを封印してミヌレちゃんを説得したがってるけど、無理だと思うのよ。ミヌレちゃんは恋心をもった女の子よ。好きな相手を封印したひとに従う義理はないわよね」
好きな相手。
蜂蜜じみた甘さの言葉に、オニクスは眉間に皺を寄せた。
「なにかきみたちの間で大きな誤解があるようだな。ミヌレは多重予知による発狂者であり、私はそれを癒したかっただけだ」
「そう。ちなみにミヌレちゃんの純潔を、アナタが貰ったって事実よね?」
「ァア」
否定も肯定も、それどころか無視さえ出来ないオニクスは、返事が悲鳴となって喉から出た。
倒れた状態から起き上がれない。
「カマユー猊下がおっしゃっていたわよ。会議中の発言だから、公文書録に記載されているわ」
「温泉行きたい………」
沈痛な呻きを上げるオニクスに対して、ディアモンは肩を竦めた。
「アナタの感情は横に置いといて、ミヌレちゃんってアナタのこと好きなのよね。だからもういっそ結婚式を挙げさせちゃって、ミヌレちゃんを懐柔しよう作戦!」
打ちのめされているオニクスを尻目に、ディアモンは生き生きと語る。
「ミヌレちゃんはまだ未成年だから婚約式になるけど、司祭さま立ち合いの正式なものよ」
「星智魔術のご老体から文句は出なかったのか?」
「カマユー猊下は会議終わる前に出てったから、まだ知らないと思うわよ。この話」
もしカマユーが耳にしていたら、全力で反対しただろう。
彼がオニクスを憎悪する理由はあまりに多すぎて、両の手のひらに掬い上げても零れ落ちるほどなのだから。
「でも名案だと思わない?」
「悪い話だと思わんのは、きみが婚礼衣装を仕立てられるからだろう」
「そうね」
真っすぐな眼差しだ。
きらきらと輝く虹彩は、知識にも技術にも経験にも貪欲である。
オニクスは少し口許を緩めた。
己の知的欲求に素直な人間は、嫌いではない。むしろ好ましく思う。
「東方から取り寄せたとっておきのシルクで作ったのよ。ミヌレちゃんの妖精みたいな雰囲気をイメージしたデザインと、東方のシルクって相性ぴったりだわ」
ディアモンは高位の魔術師であると同時に、超一流のクチュリエだ。
仕立てに誠意と情熱を持っている。婚約のための正装を仕立てるならば、採寸だけでなく、必ず仮縫いをする。トルソーと動いている肉体はサイズは一緒でも違う。オニクスを肉体に戻すはずだ。
肉体が自由になれる機会は、仮縫いと婚約式。少なくとも二度ある。
賢者から逃れる絶好の機会だ。
オプシディエンヌを殺すための自由が欲しい。
賢者たちが面会に訪れたら、魔女オプシディエンヌがプラティーヌ姫に憑依していると告発して、討伐に同行させてもらおうと考えていた。
だが同行は許されないだろう。
元々、オニクスは副総裁をしていた身だ。
同行を願えば、賢者を裏切って、魔女の元に走ると疑われる。特にカマユーは絶対にそう結論付けるだろう。
オニクスの手の届かないところで、オプシディエンヌが討伐されてしまう。
それは嫌だ。
あの細い首を刎ねるのは、己でなくてはいけない。
あの乳房から心臓を抉り出すのは、己でなくてはいけない。
あの黒と白の双眸が最期に映す男は、己でなくてはいけないのだ。
そして今度こそ共に死ぬ。
世界鎮護の魔術師はミヌレがいるのだ。
己が死ぬことを赦してほしい。
「で、採寸していいわよね」
「勝手しろ。結婚式でも婚約式でも、好きに執り行えばいい」
オニクスはあえて素っ気なく呟く。
目論見を見透かされているかもしれないが、それでも興味のないふりを演じた。
「衣装のデザインは宮廷魔術師の正装系と、アタシにお任せとどっちがいいかしら?」
「死に装束に流用できるようにしてくれ」
「あらあら。それがアナタのリクエストなら、受け付けてもいいんだけど……相変わらずね」
ディアモンの囁きに、オニクスは何も応えなかった。




