第三十七話(前編)誰も知らない寓話の国
………なんかメンドクサイこと押し付けられたような感覚だけど、なんだっけ。
疲れる前に疲れた気分。
もやもやしながら意識が浮上する。
瞼を開くと、日差しが網膜に触れた。
「どこ?」
わたしが寝ていたのは、可愛らしい寝台だった。細かなキルティングのベッドカバーがされて、シーツからは清潔なラヴェンダー石鹸の香りが漂っている。
ただ素っ裸だ。
手首へ視線をやれば、ヴリルの銀環が変わらずあった。
銀環が無事なのは喜ばしいけど、勝手に脱がされているのは気分が悪いわね。
小さなお部屋。壁は水漆喰で、床は木板。
清潔な田舎のお嬢さんのお部屋って雰囲気。これだけだったら、カルトン共和国のどっかの開拓村に漂流して、救助されたのかしらって思うところよ。
ただ風変わりな点がみっつ。
そのいち 天井が低すぎる。
わたしは身長135センチなのに、腕を伸ばせば天井に手が届くの。
そのに 壁と天井の境がない。
ドアに面しているところは平坦だけど、壁と天井が滑らかに繋がっている。梁が肋骨みたい。
そのさん 窓とドアが丸い。
長方形じゃなくて、円形なの。
窓たちは樫の円形枠に、円型の硝子がいくつも填め込まれている。
ドアも円形で、緑の塗料が塗られているわ。
それにこの丸扉、とても小さい。一メートル半くらいしかない。わたしの身長だから立ったまま通れるけど、先生どころかクワルツくんでも身を屈ませないと通れない。モリオンくんがギリギリかしら。
こんなドアは見たこと無い。
前の時間軸で世界を一周していろんな街並みを見てきたし、アトランティス遺跡の調査前に建築関係の文献はそれなりに読んでいたけど、こんな形式のドアは初めて目にした。
寝台は小さいから、子供部屋っぽいわね。わたしがぎりぎり入るサイズだもの。どこかの地方では、子供部屋をこういう丸形ドアの様式にするのかしら?
聞いたことないけど、地方色の強い田舎だとありうるわね。
子供部屋なら、天井の低さもおかしくはない。
仮説 レベル普通
カルトン共和国か、かなり流されてコーフロ連邦の海辺の村に救助された。
服が無いのは、濡れているから。
ちょっと変わった子供部屋に寝かされている。
仮説 レベル最悪
オプシディエンヌに捕獲された。
防具が没収。
だとしたら両腕どころか、四肢切断されていそうだけど、油断させるために何か仕掛けるかもしれない。
自己戦力を確認するため、わたしという宝石箱を開く。
【制約】が刻まれた肌に、浮き上がる呪符の宝石たち。鎖骨には月長石が浮かび、耳朶には真珠、薬指には日長石、太ももにもいろんな輝きが溢れる。
そして額には【遡行】の呪符。オプシディエンヌを殺すための唯一の武器。
よし、戦闘できる。
じっとしていると【胡蝶】が発動した。
防御も問題ない。
わたしは腕輪を撫でる。銀の輝きが解かれ、錫杖の姿に凝っていく。純粋な光が再結晶する美しさ。遊環を鳴らして、空気中に微弱ながらエーテルを凝らせた。
「召喚」
目の前に、紺色のワンピースとカーディガンが召喚される。
エーテルのマテリアル化も完璧だ。
そして霊視。
最大全方向展開。
わたしの霊視が、部屋の隅に誰かを捉えた。
椅子の物陰に、子供が寝こけている。
小さな女の子だわ。
巻き毛に三角巾を付けて、古い絵巻物の農婦が着るような衣装を纏っていた。ゆったりした亜麻のシャツで、襟とボタンがない。紐だけで着つけている服。靴は履いていない。
女の子の周りには、洗面器や海綿。清潔な包帯やガーゼ。木製の薬箱。それから湯たんぽがある。わたしの爪や足の指の隙間が綺麗になっているから、この子が清拭してくれたみたい。
「看病してくれていたのね」
女の子にそっと近づく。
身長は一メートルくらいだけど、そのわりに妙に腕が長い。スカートの下から覗く素足はやたら大きくて、足の裏が毛むくじゃらだ。
人間に近いけど、人間の骨格バランスじゃない。
もしかして『妖精の取り換え仔』かしら?
わたしは霊視を絞る。
………経絡が無い!
魔力を読もうとしたけど、この小さな女の子に魔術回路である経絡が存在してない。
たとえ魔力ゼロのオンブルさんだって、経絡そのものは存在するのに。
『妖精の取り換え仔』でさえない?
丸いドアが開く。
入ってきたのは、巻き毛の子供?
いえ、子供じゃない。皺がある。
やたら小さな老婦人だ。栗色の巻き毛を三角巾でまとめ、地味で古びた農婦の服を着ている。働き者の手をしていて、長年の農業で硬く鞣された指をおなかの前で汲んでいる。
「女王さま、おはよう!」
小さな老婦人から発されたのは、古代エノク語だった。
海の民が使う訛ったエノク語でもなければ、市国の公用語である現代エノク語とも発音が違う。
「女王さま。可愛いお召し物ね。着ていたのはべしょべしょだったの。洗濯干し場で陰干しにしたよ」
老婦人の話し言葉は、小さな子供みたいだった。
「孫娘に看病させていたけど、ぐーぐーしている」
寝ている女の子の足の裏の毛を引っ張る。びくびくっと飛び起きる女の子。
「ありがとう、あなたが助けてくれたのね」
「はい。クリューサンテムムといいます。サリーチェズとカリオーフィルスの次女、イーレクスとウィスティーリアの初孫、ベトゥラとエンサータの孫。ご先祖さまは養蜂の祖メリッセウス」
「わたしはミヌレ。ええっと………タルクとイリッツの長女、ソルとレピドリットの初孫、モンドとアミアンテの初孫です」
この老婦人の文化だと、先祖の名を自己紹介に使うのね。
両親と両祖父母の名前を覚えておいてよかったわ。
挨拶しながら老婦人を霊視したけど、やっぱり経絡が無い。
人間の形に近く、だけど魔力を持たない。
擬人類か?
アトランティス時代に絶滅した擬人類?
まさか生き残っていたの?
王族の魔法に守られたのか、はたまた強運と奇蹟なのか、経過は分からないけど、生き延びていたんだ。
でもこの老婦人、ホモ・サピエンスともホモ・ネアンデルタールとも骨格が違うわね。化石が発掘されていない擬人類というと、海辺にいたというホモ・デルヴィリ・テスティス?
でもどうやって全球凍結から生き延びたのかしら?
アトランティス末期には、ラーヴさまを完全封印したせいで、地球から熱も失われた。地球が赤道に至るまで凍った時代があった。それを魔力を持たない擬人類が潜り抜けてきたの?
仮説そのいち 結界内で生き延びた。
結界に守られて、わたしたちの時代まで生き残った。
アトランティスの魔法使いが魔法結界を張った。
第一仮説の瑕疵。それができるなら自分たちを守ればよかったのだ。
ただ第四人類も結界内に避難していたけど、子孫が絶えて、擬人類だけが生き残ったのかもしれない。
仮説そのに 過去
いつの間にか【時間跳躍】させられていて、ここは過去の世界。
仮説 1-1 オプシディエンヌ
仮説 1-2 自然現象
第二仮説2の瑕疵。わたしをフル装備で【時間跳躍】させるのは無しかな………
このヴリルの銀環を放流するのは、オプシディエンヌとしても惜しいだろう。
ただ原因がなんであれ、偶発的に発動したなら瑕疵とは言えないか?
何かしらの魔法に巻き込まれて、わたしたちは過去の世界に跳んでいる?
………それやられたら、先祖返りの人類の心臓を炎の精霊的なもので焼き尽くして、媒介を作る必要があるよな。
「クリューサンテムムさん。助けてくれた時、わたしの他に誰かいなかった?」
「女王さまは独りだったよ。汽水の湖に流木とぷかぷかしていたの」
独り……
ぞっとする単語だ。
いや、不安に駆られている暇があったら、思考を動かせ、知恵を絞れ。
前に踏み出すためには、現状を正しく把握すること。
「わたしの荷物はどこかしら」
「お洋服といっしょに洗濯干し場で乾かしているの。すぐお持ちする。でもね、暖かいスープをご馳走したいの。お勧めするの許して下さる?」
食事を取っている暇は無い。だけど断ろうとする前に丸扉が開く。
やってきたのはまた別の女の子だ。この可愛らしい巻き毛の女の子も、老婦人と同じくらい低い身長。手は長めで、足は大きくて巻き毛に覆われている。
女の子は食事を差し出してくれる。
スープからは玉ねぎと根菜の優しい香りが立ち上り、添えられている小さな白パンはイーストの香りがする。
香り高い湯気のせいで、わたしの意識ときたら思考から空腹へとあっさりと移る。
いえ、今は先生たちが優先。
でも身体は冷えているし、あったまってからの方が効率的かしら?
本当にいい香りがするの。バターで炒めた玉ねぎが入った香しさだわ。
食器も素敵。お盆に乗っているのは、果物柄の皿は滑らかな陶器で、スプーンは銀で取っ手は真珠貝。大昔の貴族が使っていそう。
優美なお皿を満たす素朴なスープ。
入っている具は、りんごかな。それとも蕪?
どちらも季節ではないはずだけど………
口に含めば、ふわっと崩れた。
なんだ、これ。
食感はほくほくとしていて、りんごでも蕪でもない。栗に似てるけど、木の実とも違う。根菜にしては繊維が無い。
それに味わいも奥深い。
「隠し味は白葡萄酒と蜂蜜?」
「女王さまのおっしゃる通りなの。若い白葡萄酒と、カミツレの蜂蜜よ。うちは代々、誕生日のスープはこれ。祖母ウィスティーリアのレシピなの」
見た目は素朴だけど、滋味が深くて美味しい。
一口サイズのパンは、きめ細かな小麦から作ってあって、イーストの発酵具合が絶品。
「パンも美味しいわ。とても上等な小麦粉ね。これを挽いた水車小屋の番人は、きっと黄金の指を持っているのね」
あっという間に平らげてしまった。
皿が空っぽになるのを見計らったのか、小人のお嬢さんはわたしの荷物を持ってきてくれた。
冒険者ギルト製のマグカップとフォーク。ロープ。
消耗品は湿っているし、いくつか無くなっているけど、駄目になってはいない。
わたしの脂肪や筋肉を加工した干し肉、ドライフルーツやショコラ。
防水の燐寸。包帯や三角巾にできる漂白されたリネン。アルケミラ雫の入った小瓶。
それから上等の油紙に包まれた羽根。
「看護してくれてありがとう。仲間を探しに行くわ」
「だめ。だめ。女王さま。目覚めたばかりでしょ。安静、安静」
……女王さま?
どうして、女王さまって呼ぶのかしら?
わたしには『夢魔の女王』って二つ名がある。普段から女王って呼ばれているから受け入れてしまったけど、この老婦人はわたしのこと、女王さまって呼ぶ理由はない。
「女王さまではないわ。別の誰かと勘違いしていないかしら?」
老婦人は首を横に振る。
「いいえ、あなたさまは帰ってきた王族なの」
「ただの田舎娘よ」
「いいえ、いいえ、王族はあたしたちより遥かに背が高い。王族はこの古い言葉を使える。そう伝えられてきた。だからあなたさまこそ、きっと本物の王族なの」
「霊廟で戴冠して」
「戴冠して」
孫娘たちも唱和する。
「あたしらをお治めになっていたカーバンクルさまが、亡くなられて長い時間が経ったの。とても長い時間。遥かな過去。あたしらは寂しい。でもまた治める方がいらした。とても嬉しい」
老婦人は語る。
カーバンクルさま、か。
アトランティスの王族が結界を張ったのね。
だけど王の血は絶えて、奴隷だった擬人類だけが生き残った。
さて、もう一歩、最悪な事を考えよう。
カーバンクルと呼ばれている存在が、オプシディエンヌかもしれない。
何億年と生きている魔女がいくつ名前を持っていたか、想像もつかない。
アトランティス時代に擬人類実験場として箱庭を作って、死んだふりしてそのまま放置したパターンもありうる。
人魚の生け簀を作る魔女だぞ。
擬人類牧場を作っても不思議じゃない。
ここが真実、アトランティス時代から続く結界の世界だとしても、オプシディエンヌが関与していないという保証は何らない。
「食後の果物、剥くよ」
「食後のお茶、淹れるよ」
老婦人とその孫娘たちは甲斐甲斐しく世話をしてくれようとするけど、わたしは首を横に振った。
万が一、オプシディエンヌの箱庭だったら危険だもの。
「行かなくちゃいけないの」
「まだ、だめ。まだ出発だめ。女王さまが倒れたら悲しい。虹が出たら探そう」
「虹?」
窓の外は、いいお天気。
さっきまで雨が降っていたの?
「もうやんでいるから大丈夫よ。みんなを探さなくちゃいけないの」
「違うの。虹がでてないと危険なの。虹がないとクラーケンとか怖いものくる」
小さな老婦人が主張すると、小さなお嬢さんも頷く。
「もっとご馳走するよ。お風呂も沸かすよ。だから休んで、お願い」
老婦人と少女は、ぽふんとお布団を両手で押さえる。どうしても引き留めたいのだろう。
「わたしの大事なひとが待っているのよ」
そう告げると、ふたりの小人さんは悲しそうに項垂れた。
わたしは油紙を開いて、グリフォンの羽根を出す。漆黒に葡萄色、アイリスブルー………様々な色があって、宛て先は違う。
誰を最初に選ぶか、わたしには決められない。
でも選べないものを選ぶときは、いつだって何を選ぶか決まっている。
わたしは漆黒の羽根を手に取って、扉を押し開ける。
外に広がる光景は、緑の丘と青い空。
地平より遠いところまで、平和が続いていそうな世界。
「我は獣の裔、天翔ける祖の驥尾に伏すがゆえに、飛報を願う 【書翰】」
詠唱すれば、漆黒に艶めくグリフォンの羽根は、深い眠りから目覚めるよう震える。
震えている僅かな間に、わたしは空中にジズマン語を綴った。
ミヌレです。呪符も銀環も無事です。
綴り終えて羽根を手放せば、緑の丘を駆け、矢の如く飛んで行った。




