第三十六話(後編)乙女が絶対零度を冠するならば
遥か前方の氷山から、パキ、ピチ、プチッって音が響く。
封じられていた精霊たちの聲だ。古き氷の奥底には、何万年も前に押しつぶされて封じられた精霊がいるもの。
どぅどぅと蒼と白が流れ落ちるように、氷山が崩落していった。
霊視すれば、精霊たちが飛び出してくる。
嗤いて舞うのは、奔放なる風精霊シュルフ。
嘆きて踊るのは、憂鬱なる水精霊ウンディーネ。
滄海に数えきれない精霊が溢れ、水と風が逆巻いてすべてを死滅させるようなダンスに興じる。四つ足でさえ立っていられない。
白夜に極光が煌めいた。
遥かな天が万華鏡のように揺らめき、不可視の吹雪が舞う。
精霊の幼虫だ。
なんてこう最悪に最悪が重なるんだ!
オーロラの中、猛威を振るう精霊たち。
象牙カモメや白フクロウのライカンスロープ術者たちが激しい風に打ちのめされ、荒れた波に叩き落とされていった。
無残に混ざる羽根と飛沫。
白くじらや竪琴アザラシが助けようとするけど、精霊のせいで阻まれている。
魔弾の如き飛沫と槍のような波間。そこをクワルツくんが駆け、翼を傷つけられた海の民たちを救助する。
そのうちにライカンスロープ術者の魔力が減っていった。
「早く魔力を回復させろ!」
焦りを孕んだ絶叫が、年長の海の民から放たれた。
海の民には、ライカンスロープが解けている術者が何人もいる。
皆さんさっきのクラーケン戦で、獣化する魔力が足りなくなっているんだ。それでも魔力枯渇はしていない。中途半端な状態は、最も精霊の餌になりやすい。
己の血肉で作った干し肉はみんな持っているけど、こんな世界が発狂したような状況で、食べている暇がない。
北極聖地そのものが、わたしたちに牙を剥いている。
不意にマリヌちゃんが立ち上がった。
「せめてボクが水精霊を引き寄せる。波が落ち着けば、救助も楽になるはずだ」
「そりゃマリヌちゃんは水精霊に好かれる体質ですけど、寄ってくるとは限りませんよ」
「【氷壁】で水精霊を引き寄せる。不発だとしても精霊は寄ってくるだろうし、暴発したって第三者に被害はない」
一理ある。
ここは北極。
部外者どころか動物もおらず、威力的に暴発しても範囲的に暴発しても、被害は最小限だ。
「精霊幼虫に憑かれても血肉を切れば、応急処置は済む。ミヌレがみんなに回復のキスするより、ボクひとりキスした方が早いだろう」
「でも、危険です! 待っ」
無茶を止めようとしたその腕を、先生が鷲掴みにする。
「ミヌレ。水属を暴走させれば、水精霊が緩まる可能性がある」
この男、わたしが不特定多数にキスするより、マリヌちゃんひとりにキスした方がいいと思っているな。どれだけ独占欲が強いんだよ。
いや、負傷者複数より、重症一名の方がマシって判断したのか。
わたしは腰を捩って、蹄を上げる。
だけど蹄を抑えられた。
抑えたのは、クワルツくん。いつの間にかこっちの舳先へと飛び移っていた。
「ミヌレくん、待つんだ。エグマリヌ伯爵令嬢を行かせてくれ」
「クワルツくんまで何を言ってるんです!」
「それは吾輩の科白! きみは彼女を危険から遠ざけようとばかりする。吾輩やリオには危険でも任せるのに」
「そ、それは……」
「頼む。エグマリヌ伯爵令嬢の騎士としての矜持と、友情に報いようとする振る舞いを遮らんでくれ。第一、彼女は記憶がなくとも、北極帰還を果たした魔術騎士だ。きみの精神は成人しているがゆえに、エグマリヌ伯爵令嬢を必要以上に子供扱いしている」
力強い訴えに、わたしの蹄から力が失せていく。
わたしはマリヌちゃんを侮っていたわけじゃない。隣にいてくれるだけで心強かった。嬉しかった。
でも、蔑ろにしてしまったのかしら。
項垂れれば、先生の手が僅かに緩んだ。
「ミヌレ。この怪盗もたまには道理に適ったことを言う。きみが危険から遠ざけようとするたび、生徒番号220の士気が削られる。あれでは最後まで士気が保てん」
「………」
先生の言うことは、クワルツくんと大差ないはずだけど釈然としなかった。
マリヌちゃんが魔導の腕輪で封じていた魔力を解禁する。
北極での命綱を、外してしまった。
「我は水の恩恵に感謝するがゆえに!」
【氷壁】は防御としては初級で、構成も展開も瞬時だ。
冴え渡っていく呪文に、水精霊たちが引き寄せられる。氷に霜が凝り、荒波の飛沫は凍てていく。
膨らむ魔力。
わたしの皮膚が毛羽立つ。
これは不発ではなく、暴発か?
「凍れる壁で我が身を守り賜え! 【氷壁】」
【氷壁】が爆ぜる。
そして静寂。
耳鳴りするほどのしじまに、【氷壁】が滄海を覆い尽くすように横たわっていた。水魔術を暴発させたから、精霊たちの気が散じたのか? 波が凪いでいる。風は強いとはいえ、さっきと比べたらなよやかだ。
見渡す限りの氷の平野。
氷の大地を広げて、孤峰の如く立つその姿は、まるで領土を統べる戦乙女だった。
マリヌちゃんが膝をつく。
オーロラから降ってきた精霊幼虫が憑いて、皮膚の下で魔力を喰らっているんだ。
「く………っ」
呻き、魔導器で魔力を禁絶した。
経絡への魔力が断たれて、幼虫たちが膚の下で萎れていく。これ以上は成長できない。
モリオンくんはもうとっくにカヌーから降り、マリヌちゃんへと駆け寄っていた。手には錬金薬の入った薬鞄。
「エグマリヌ伯爵令嬢、お怪我は? 新芽シロップを生のまま飲めますか?」
「飲める、大丈夫だよ」
「エーテルによる肺腑の損傷は無さそうですね。魔導器も破損無し」
モリオンくんが手当をしていく。
ほっとした途端、四肢から強張りごと力が抜け落ち、カヌーに座り込んでしまう。
やり遂げた。
マリヌちゃんはやり遂げたんだ。
友達って対等なはずなのに、無暗に子供扱いして。それじゃいけないのは分かる。
……それでも嫌なんだ。
女騎士エグマリヌを殺めた事実は時の彼方に消えても、感覚はわたしの両手の下に残っている。わたしの大切な友達を、自分自身の手で殺めてしまった。
わたしのために命がけで敵になってくれて、わたしのために命がけで味方になってくれた。
もう二度と死んでほしくない。
氷の亀裂音が、再び白夜に轟いた。
今度は氷山じゃない。【氷壁】そのものに亀裂が入っている。
海の民たちはカヌーに乗り込む。
だけどマリヌちゃんたちの足元そのものが沈下していく。ふたりは走ろうとするけど、氷の崩壊の方が早い。
「ミヌレ、きみまで巻き込まれる!」
先生が叫び、わたしを抱き締めて、氷塊を蹴った。
反動でカヌーが離れていく。
「いや、マリヌちゃんっ!」
氷が砕け散り、押し流された水で大津波が沸き起こる。
カヌーが葉っぱのようにくるくる舞う。
縁にしがみついていると、
大波がカヌーや氷山を揺らす。
クワルツくんが皮膚接触による魔法で、極寒の波の上に素足で立つ。激しい波濤に踏み堪え、両腕で縁を押し返して、転覆させまいと踏ん張る。
ひっくり返りそうになるカヌー。
先生の腕が緩み、わたしは【水中呼吸】で海に飛び込む。
マリヌちゃんとモリオンくんのところへ急がないと。
光が届かない海中に、大きな魔力が視えた。白くじらの氏族の魔力じゃない。もっともっと巨大な魔力だ。
あれは、なんだ?
海底の暗がりから、黒々とした大きな生き物が浮上してきた。
くじら?
ホエール級の体長や、皮膚のゴムっぽさからして、くじらだ。
巨大生物は、顔を上げた。
くじらじゃない!
顔はまるで犬といるかの合いの子だ。しかもよく観察したら前脚があるぞ。退化した、いや、ヒレに進化しつつある前脚だ。
「玄冥魚ケートス!」
アトランティス初期の古鯨類じゃないか。マンモスやサーベルタイガーと同じく絶滅してしまった古代哺乳類。
舟縁にしがみついていた先生が、ケートスを見上げる。
「ああ、初代魔術騎士団長か。遅かったな」
「ええっ! あれがロイ・エン・シャンさまなんですか!」
ライカンスロープ術をお持ちだと伺ってはいるけど、あんな馬鹿でかい獣化できるなんてどういう魔力だ。血肉マテリアル化するのって、消耗が激しいんだぞ。
巨大な玄冥魚ケートスの背中には、マリヌちゃんとモリオンくんが乗っていた。
よかった。ふたりとも怪我は無さそうね。
ほっとすると同時に、わたしの周囲に蝶が舞った。
【胡蝶】だ。
幾千億と分裂して、羽ばたき、わたしを護ろうとする。
「え?」
呻きはわたしの喉からだったのか、先生の口からだったのか分からない。
まだ何かくるの?
「大型氷山が流れ込んでくるぞ!」
クワルツくんが叫ぶ。
叫びの余韻が消えぬうちに、前方から巨大氷山が押し流されてきた。玄冥魚ケートスが全身で受け止める。巨獣が防波堤になる。それでも受け止め切れない氷塊たちがやってきた。
北極は次から次へと牙を剥く。
「逃げるぞ、ミヌレ!」
先生の叫びが、何故か遠い。
次の瞬間、滾る波が覆いかぶさってきて、目の前が真っ暗になった。
昏い。
視界が、昏い。
ここは海底?
現実なのか夢なのか、波の底なのか、雲の狭間なのか、区別できない。
あらゆる隙間にわたしが入り込み、輪郭まで朦朧としていく。いや、泡沫になっていきそうだ。
人影が視界を過った。
背の高い、長い髪の、女性。
オプシディエンヌ?
いや、違う。
波打つ赤毛だ。
太陽を含んだ林檎や、爛熟したスモモ、いや、もっと赤が深い。砂漠の柘榴めいた濃い真紅だった。豊穣を思わせる真紅。どうして他の色彩は映らないのに、この豊かな赤さだけは網膜に映るんだ?
誰だろう。
まるで疑問に呼応したように、赤毛の女性は振り向く。
揺蕩う赤毛で、顔は見えない。
だけど、気品のある所作だし、なんとなく美人なんだろうって雰囲気だった。
≪……アイオーン≫
澄み切った優しい声だった。
アイオーンって、アトランティス時代のエノク語で『時間』とか『生涯』って意味の単語。
だけど響きと一緒に、意味も伝わってくる。
まるで人魚と会話しているみたい。
いえ、人魚たちと比べたら、もっと滑らかに意思が届く。
≪永久神よ≫
わたしに話しかけているんだ。
≪貴き永久神よ。あなたさまは死すべき太古の魔女を蘇らせてしまった≫
優しい声色のまま、わたしの罪を指摘する。
わたしの重い罪。
それはそれとして、おまえ誰だよ。
自分から名乗れ。挨拶しろ。
礼儀作法において名乗らなくていいのは、国首くらいなものだぞ。
≪この地球が安寧から遠ざかり、理想郷はエーテルを呼吸できなくなってしまったのです。ならば、あなたさまが楽園の女王になってくだいませ。そしてあの子たちを、永遠の幸せに導いて………≫




