第三十六話(中編)乙女が絶対零度を冠するならば
ディアモンさんの仕立ててくれた外套は、マリヌちゃんとお揃いだった。
ただわたしのデザインはライカンスロープに対応するため、下半分は馬着めいている。
フード付きで、バフォメット綿の表地に、オリハルコンシルクの裏地。
どちらも織りが堅牢だから、魔弾が貫通しないレベルの強度がある。さらに裏地には、極彩色の刺繍がびっしり施されていた。有角獣アマルテイアの尾や人魚の髪、それからオリハルコン糸でディアモンさんが刺繍し、耐寒の古代魔術が与えられているのだ。
「ライカンスロープしてみてちょうだい」
わたしは一角獣化して全力ダッシュしたり、一角半獣になって思いっ切り跳ねたりする。
のびのび動ける。
指先からしっぽの先まで、完璧な自由だ。
蹄の赴くまま奔放に跳ねているけど、ディアモンさんの眼差しは針みたいに鋭かった。
「ミヌレちゃん、少し痩せたわよね。内側の留め紐、あと半ミリ詰めた方が肩口がすっきりして負担が減りそうね」
ディアモンさんの仕立てに妥協はない。
連盟に在籍するライカンスロープ術者の礼装を、一手に引き受けているだけはある。
「めちゃくちゃあったかいのに、汗ばんでもすぐ乾きますね。この円やかな着心地、空飛ぶ絨毯に似てるような………」
「ええ。キルティングに、ペガサスの羽毛を使っているのよ」
砂漠の海岸部が生息地であるペガサスは、風の魔法を宿しているけど、空飛ぶためだけじゃない。寒暖差や暴風にも強いのだ。ペガサスが仔馬を守る時は、翼で包み込む。この外套は、まるで母親に包まれた仔馬の安心感。
これさえあれば北極も難なく踏破できそう。
だけどディアモンさんの美貌は硬かった。
重たげな視線で、先生を見やる。
「仕立ては完成。あとは最後の仕事ね」
「帰路の護衛は?」
「イヴォワール魔術師とウイユ・ド・シャくんよ。オプシディエンヌに襲われたら時間稼ぎでしかないけど、カルトン共和国は非加盟国だもの。大っぴらに動くと政治的に問題があるわ」
先生とディアモンさんで交わされる会話は、萎れた花のように水気が無い。
つまり古代魔術の疑似転移絨毯が使えるのは、ここまでか。
オプシディエンヌの本拠地まで持っていくわけにはいかないものな。
これは古代帝国ダリヤーイェ・ヌール朝の粋であり要。世界にほんの数点しか残っていない古代魔術。
発掘された絨毯は直せたけど、シッカさんでさえ新しく織り上げられなかった。
損傷や破壊はさせられない。
最悪なのはオプシディエンヌの討伐を失敗し、転移絨毯が鹵獲されること。討伐成功させても残党に転移絨毯を奪われてしまったら、敵に本陣へ切り込まれてしまうもの。
だからこの便利アイテムはここでおしまい。
ここからがわたしたちの旅。まことの巡礼が始まる。
最後の補給物資を、カヌーに積み込む。一隻にはわたしとマリヌちゃんと先生。もう一隻にクワルツくんとモリオンくんが乗り、北極湾を発つ。
何隻ものカヌーが寄り集まって、凍れる海を進んでいく。
カヌーの周りには、白くじらや竪琴アザラシが波間を泳いでいた。象牙カモメや白羽バトも蒼穹を飛ぶ。舳先には北極ウサギと北極キツネが並んで立っていた。こうやって代わる代わるクラーケンを警戒して、北極まで向かうのだ。
波も飛沫も、暗青の氷点下から跳んできた。
北極に近づけば近づくほど、何もかもが凍てついていく。吸った空気で肺腑までが凍傷になりそうだ。
「思った以上に、気温の下がり具合が急激ですね」
「邪竜の加護から離れたからな」
先生は当然の如く呟く。
全大陸はラーヴさまの肉体が礎となっている。
ラーヴさまの体温が伝わってこないと、ここまで気温が無慈悲になるのか。そりゃラーヴさまを封印したら、地球は全球凍結するな。
数多く切り立つ氷山の隙間を、カヌーは進む。
氷山の陰影は青と白。それからいちばん濃い陰は黒。さまざまな形の陰影はクジラや海鳥に見えたり、あるいは泳ぐ人魚に見えたりもした。
今は白夜だから、太陽は氷山を撫でるだけ。でも季節が移って夕陽が差し込めば、きっと赤みが加わる。金と朱が蕩け合う鮮烈な茜色だ。
「茜が差したら、海の民の描くそのものですね」
もしかして氷山の陰影が、海の民特有の芸術センスを育んだのかしら?
海の民の若者が氷山に美しさを覚え、それが着るもの住むものに投影される。
赫い砂漠も、カリュブデスの水支柱も、月の海も、時間障壁も雄大で美しかった。この北極も震えるほど美しい。ひとつの民族の美意識として、この氷河は君臨している。
「世界はどこも感動的に美しいですね」
「きみがいちばん美しい」
………先生は事も無げに言い放ってくれたんですけど、わたしの隣にマリヌちゃんいるの分かってます?
それから別のカヌーとはいえ、ほとんどすぐ横にクワルツくんとモリオンくんもいるんですよ?
特にモリオンくんの心情を慮ると、もう穴があったら入りたい。
実の父親が初恋相手を口説いているのって、相当に辛くない?
気まずい。
本当に気まずい。
だったら先生と別のカヌーにしておけばいいんだけど、先生の【蛇眼】やマリヌちゃんの魔導器が、北極圏の精霊に通じないかもしれない。いざとなったらわたしの【胡蝶】で防御するため、この組み合わせなのだ。
カヌーが揺れた。
いや、揺れたのはカヌーだけじゃない、海そのものがせり上がってくる。
遥かな海底から、触腕が伸びてきた。
「クラーケンだ!」
わたしたちを餌だと認識したのか、捕まえようと触腕が蠢いている。
さらに大きく海が振動した。
白くじらのライカンスロープ術者が、海中で体当たりを食らわしたんだ。
体当たりに押し負けて、クラーケンが海面まで浮上した。
人知及ばぬ深海で生まれた魔獣だ。
………でもカリュブデスと比べたら微々たるものか。触腕の攻撃範囲が広いから厄介だけど、大きさ的にはホエール級人魚より小ぶり。人魚より知能低いし。
頑張れば勝てる感じ。
海の民たちは大波を潜り、飛沫を掻き分け、牙で、嘴で、蹄で、クラーケンを攻撃していく。
「先生とマリヌちゃんは、荷物を死守してください」
「海上では、きみと怪盗しか動けまい。クラーケンと戦った経験は?」
「二度ほどあります」
前の時間軸で、沖合を歩いた時に遭遇した。
とはいえ追い払っただけで、仕留めた経験はゼロだけどね。
「では任せよう」
先生からの納得が頂けたので、わたしは頷いて魔術を紡ぐ。
呪文に呼応し、耳朶に真珠が浮かぶ。
「我は海の裔 血潮と肺腑は人魚ゆえに、水を恋う」
詠唱するのは獣魔術。
肺腑と血液を人魚化する魔術だ。
「【水中呼吸】!」
呪文の末尾を結ぶと同時に波に飛び込み、四つの蹄で水を蹴る。
赤褐色の本体が、水中で揺れている。
クラーケンへ思いっ切り距離を詰めた。クラーケンは遠視なので、いっそ触れるほどの近さが安全圏である。
銀環を錫杖化すれば、銀の淡い光が滄海に満ちる。
狙うは眉間。そこがクラーケンの弱点だ。
光に照らされたクラーケンの眉間へ、渾身の力を込めて錫杖を突き刺す。
急旋回する巨体。撒き散らされる泡。錫杖は眉間から逸れて、水晶体を突き破り、黒目まで貫く。
手首を捩じって返す。黒い体液が噴き出した。
クラーケンの赤褐色の膚が、ぞわりと白く濁っていく。ダメージは与えたみたいだ。
背後で暴れ狂っている触腕を、クワルツくんが噛み千切る。
触腕が千切られ眼球が潰れたクラーケンは、海底へと去っていく。
クワルツくんと一緒に浮上する。
「吾輩、狩った獲物はなるべく食したいと思うが、クラーケンの味には拒絶感を催す」
「海の民が食料にしないレベルですからね……」
静寂の中、ひといきつく。
カヌーが随分流されたな。
いつの間にか眼前には、純白の大陸が聳えている。流されたとはいえ、結果的に北極大陸に近づけたみたいだ。
先生たちの待つカヌーに追いついて上がる。
「帰還しました。戦力損傷ゼロです………先生の方が顔色悪くないですか?」
「酔ったかもしれん。【蛇眼】を発動させたからな」
「オーロラ降ったんですか?」
「いや、きみの動きがよく視える。この魔術と相性は悪いが、作ったのは正解だったな」
温度視の【蛇眼】で、海中のわたしを追ったのか。
離れたカヌーから、海の民が手を振っていた。
「おーい、上陸できる場所がある。水もあるぞ」
大声が氷海に谺する。
登れる場所と氷が溶けているところがあったらしい。白夜からの明るさを、夏の日差しと呼ぶには儚い。それでも氷が解けている部分が点在している。
カヌーを岸につけた。
水の補給をして、上陸した後に極点へと進めるか、数名の先発隊だけが進む。翼持つライカンスロープ術者たちが飛んでいった。
「北極大陸の水だ。やっと【絶対零度】が作れる」
マリヌちゃんの瞳は薄氷めいて輝き、手には湖畔めいた蒼が輝いていた。
星が封じられたサファイア。
ヴェルメイユ陛下から下賜された国宝級の宝石で、【絶対零度】の素材になる。
刹那、前の時間軸の記憶が、眼前に広がる。脳髄の深みから湧きだすような、網膜の浅きから滲むような、消え去った時の残滓。
腹から血とアルケミラ雫をぶちまけて、地べたに倒れて死んでいく親友の姿。
わたしが殺した。
「ミヌレ? どうしたの?」
「……あ」
無意識のうちに、マリヌちゃんの手首をぎゅっと握っていた。
何をしてるんだろう?
【絶対零度】を作ったからって、前の時間軸と同じ道を辿るはずがないのに。
肺から息を吐く。
節から力を抜く。
マリヌちゃんから、手を、離す。放す。
「わたしも一緒に行きます。先生は荷物番をお願いしますね」
北極大陸に足を踏み入れる。
ここが人類誕生の地、北極聖地か。
風が吹くと、霏々と舞う雪。
不意に空飛ぶ鳥が、高らかに啼いた。先発隊として飛んでいた象牙カモメの海の民だ。危機を知らせる細さ鋭さ甲高さだ。
「氷山崩落がくるぞ!」
クワルツくんの叫びが、凍った空気を割っていった。