第三十二話(中編)VS蛇蝎
手に負えない?
投げられた言葉の理解が、ワンテンポ遅滞した。
カルカス翁は屈指の精霊祓いなのに? 老大家がどうすることもできないの?
じゃあ先生はどうなるんだ?
このまま精霊に憑かれて、魔力を喰い尽くされ、内臓を持っていかれてしまったら、どうなってしまうんだ。
思考を働かさなくちゃいけないのに、胸の鼓動が耳の奥にまで反響してうるさいくらいだ。肉体の音が、脳の巡りを邪魔する。いっそ幽体離脱して肉体を捨てたいくらい、心臓が早鐘を打っていた。
「まさかここまで精霊が肥大化するとはな。しかも凶悪な火精霊ザラマンデルが憑いている」
カルカス翁は杖を振って音を響かせるけど、ヒュドラは狂暴性を増すばかりだ。
九つ頭はすべて荒れ狂いながら、クワルツくんを叩きつけ、マリヌちゃんを打ちつけ、カルカス翁を喰らおうと顎を開く。
これが本物のヒュドラだったら頭を切り落として、火をつけてやるのに!
決定打を打ち込めないから、みんな疲弊している。
一匹が床を這い、カルカス翁の翼へ噛みつこうとしていた。即座に錫杖の柄を口へ押し込む。蹄で蹴り上げると、錫杖を咥えたままの蛇から牙が折れた。
「ぐっ……」
気絶している先生から、呻きが漏れる。呻きだけじゃない、口許から血も一筋垂れた。
「先生! オニクス先生っ!」
動揺している暇はない。わたしはヒュドラの顎を前脚で躱し、後ろ脚で蹴り飛ばす。
クワルツくんが挽肉になった右腕を抱え、梁を蹴って、炉へと着地する。小石を蹴り飛ばして、ヒュドラの眼球へぶつけた。まばたきできない蛇眼は悶える。死角からマリヌちゃんが鞘で一撃入れた。
僅かな隙にクワルツくんが蛇の頭にしがみつく。経絡が締まったのか、一匹は崩れ落ちた。
倒れた蛇に対して、カルカス翁は杖を振る。
だけど他の蛇頭たちが、黙って見ていてくれない。祓おうとするカルカス翁の背後から、口腔裂いて急襲する。
モノトーンの翼を羽ばたかせ、蛇を躱すカルカス翁。
空中で躱しながら、焦点は先生に結ばれていた。
「………オニクス? 隻眼の、オニクス。もしや飛地戦争の?」
え?
カルカス翁は先生をご存じなの?
まさか闇の教団の被害者?
最悪の仮定が、脳裏に過る。
いえ、その仮定が正しかったら、戦争じゃなくて教団のって言うんじゃないかしら?
「オンブル! この方はあのオニクス氏か?」
あのって、どの!
会話の着地点が読めないから、冷や汗が噴き出てくる。
「ええ、飛地戦争で叙勲された方ですよ。今は学院で教職ついているため、先生と呼ばれています」
「ならば祓いできるものを! 誰でもいい、手当たり次第で構わん。呼べ! いくら貸しを作ってもいい」
カルカス翁の叫びに、オンブルさんは駆けだしていた。馬繋ぎから縄を解き、鞍かけたままだった馬に跨る。
助けを呼んでくれるの?
先生の名前を聞いて、対応が良い方へ変わった?
いや、疑問は後で聞けばいい。援軍が来るなら、今はヒュドラを傷つけないように抑えなくちゃ。
疾駆する馬を、一匹の蛇が追う。
いくつもの極彩の彫刻柱をなぎ倒し、大地から苔を剥ぐほどの速さで這い、オンブルさんを喰らおうとしていた。
駄目だ。あの農耕馬は逞しくて若いけど、走るための品種じゃない。もう追いつかれてしまう。
わたしの真横を、鉈が飛んでくる。
「えっ……」
鉈の刃が頬を通り過ぎ、大蛇の首に刺さった。
切れ味を落としている刃だけど、自重によって深く食い込んで、蛇から血をまき散らす。
どっから鉈が飛んできたと思ったら、クワルツくんが投げつけやがった!
先生へのダメージフィードバックどでかいのに、クリティカルかよ!
親友の大ピンチだから当然だけど!
鉈を投げた甲斐あって、オンブルさんが逃げ切った。先生は血を吐きまくってるけどさ!
カルカス翁が大きくほろろ打つ。
「とにかく手数を増やして、精霊を祓ってみる。とはいえ頭数を増やしたところで博打だ」
「助かる可能性があるなら」
博打だろうと何だろうと構わない。
それがどれだけ法外な賭け金であろうと支払う!
「そもそも祓いを呼ばせても、憑かれた本体があとどれほど耐えられるか。間に合わず、内臓すべて取られ、抜け殻になってしまうかもしれん」
時間。
時間が足りない。
似たような状況、前にもあったな。
「ふたりとも! このヒュドラを数秒だけ行動停止させて下さい」
わたしの願いに、マリヌちゃんが鞘で牙を受け流す、クワルツくんがヒュドラの経絡を絞める。
ふたりの全力だけど、まだヒュドラを止めきれない。
ヒュドラの牙はわたしを目掛け、噛みつく。
皮膚を喰い破り、骨まで届く毒牙。
「……ひぐっ!」
太い牙に肉を持っていかれ、強い顎に骨が押しつぶされた。骨が砕ける感覚が、頭蓋骨で反響する。
痛覚遮断しているし、ヴリルの銀環で回復力は跳ね上がっているけど、骨が砕ける反響は辛い。
それでもわたしは動いちゃいけない。
動いたら、【胡蝶】は発動できない。
わたしは身動きせず、先生を抱き締める。
鉱石色の髪から、羽ばたきが舞う。
だけど展開してくれない。冬に羽化した蝶のように、彷徨って散っていく。
【胡蝶】は身を守るための魔術。
わたしを攻撃するヒュドラと一緒では、防御結界を張れないのか?
──御身、健やかなることがわたくしめの願いでございます──
脳裏に響くのは、玲瓏な声。
シッカさんがわたしの安寧を願い、時をかけて織ってくれた古代魔術。
この織りは祈りそのもの。
だけど、わたしの意思に従ってもらう。
「従いなさい、蝶たち!」
魔術の糸を解き、展開を広げなければ。
だけど織られている糸は複雑だ。すべて解けない。わたしを傷つけるものを退けようとする作用が強く、荒ぶるヒュドラを包んではくれない。
クワルツくんとマリヌちゃんがヒュドラを抑えてくれているけど、あと少し展開範囲が届かない。
あと少しなのに。
ヒュドラは口腔に収めたわたしの肉を咀嚼し、血飛沫まき散らし味わう。
わたしの血肉喰らって本体まで回復したのか、先生の隻眼がうっすら開いた。
黒い瞳に映った光景は、喰われたわたしと喰っている蛇。
「ミヌレに……何をする……ッ」
先生はエストックを逆手に持ち、一匹の蛇の眼球を貫いた。
血の涙を流し、暴れる蛇。
隻眼からも血が噴き出す。抑えた指の隙間から、鮮血が滾々と流れる。
「自傷はやめてください!」
わたしは腕や眼球が潰れても平気だけど、先生はそうじゃない。
「傷つくきみを眺めているなら、眼球を突き刺した方がマシだ」
叫べば、ますます血は流れた。臙脂と真紅、二種の色の血が止めどなく零れる。消化器官も呼吸器官もずたずたじゃないか。
血に噎せ、血を吐き、さらに蛇の横っ腹を貫いた。
ヒュドラは威嚇するけど、宿主に対して攻撃したら己が死んでしまうと察しているのだろう。
「従え、蛇ども!」
渾身の叫びによって、ヒュドラのうねりが淀む。
沼の淵へと沈むように、荒々しさを脱ぎ捨てた。
蛇が鎮まり、蝶が舞う。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むげん。幾千億万の遥か彼方、那由他ほどに蝶は生まれ、ヒュドラごとわたしたちを包み込む。
時魔術【胡蝶】が発動した。
この【胡蝶】は外界からの攻撃を防ぎ、内部でも害するものの進行も一時停止させる。カマユーの光魔術【星滅】の進行を食い止めたように、先生の精霊受肉も一時的に止まる。
蝶が羽ばたいている間だけの弥縫の永遠。
わたしたちは抱き締めあって、精霊祓いたちを待った。
どれほど待っただろう。白夜の日差しによって、時間の感覚が淀んでいる。五感さえも鈍り、意識までも濁りそうな中、馬の嘶きと、鳥の羽ばたき、獣の咆哮が、蝶の帳の向こう側から聞こえてくる。
精霊祓いの方々が集ってくれたんだ。
ヴェールに包まれたヒュドラに、ざわめきと視線が突き刺さる。
「なんだあの魔術は?」「精霊があんなに肥えて。魔力が底なしか?」「篝火に琥珀を焚け!」「松脂でも無いよりマシか」「人手がもっといるぞ、泣き女も呼んで来い」「いや、どう考えても無理が強い」「憑かれているやつの首を落とした方が早いだろうが」
不穏な台詞が聞こえてくるぞ。
「すまぬ、皆の衆。老いぼれに力を貸してくれ」
カルカス翁の頼みによって、海の民は恐れ戦きながらも踏みとどまっていた。
誰かは唸りながら太鼓を叩き、誰かは呻きながら弦を爪弾く。
若い女の泣き声がした。乳房露わにした女が、身を捩って爪で喉や頬を傷つけながら、鳥の囀りを響かせている。
年老いた男の怒鳴り声がした。仮面で顔を覆った男が、飛び跳ねて、拳や膝を大地に打ち付け、獣の咆哮を上げている。
人間ではないような合唱たちは、重なり縒る。大地と大気そのものがひとつの生き物になって、唸っているみたい。雄大で原始的な声。太古の息吹きを思わせる響きは、ラーヴさまを連想させた。
針葉樹の森を取り巻く空気が変質していく。
「その結界を解け!」
カルカス翁は叫び、短い杖を大きく振った。




