第三十二話(前編)VS蛇蝎
「うぬの中に入ってしまった精霊を、こちらに招くぞ。傷が破れるが堪えてくれ。では静かに」
わたしたちが黙れば、カルカス翁は厳粛に杖を振る。
杖に象嵌された貝殻がきらきら光り、しゃらしゃらと鳴った。
しゃらしゃら、しゃらしゃら………
しゃらしゃららら、しゃららら………
家屋の底で、煙と杖だけが動く。
ささやかな音が木造の床や壁や梁に響くたびに、余韻が飽和していく。まるで音の残滓の海の底。鼓膜の奥まで、余韻は尽きることは無い。
微睡みを誘うさざめき。
琥珀色の夢心地だ。
このまま耳を傾けていたら、わたしまで眠ってしまいそうだった。
不意に先生が揺れ、うつぶせに倒れ込んだ。床からの大きな振動が、心臓にぶつかる。
「先生っ!」
「……んっ…あ、ぁあ」
背中を覆う鞭痕が、大きく脈打った。
傷が血管になったみたい。いや、脈打つなんてもんじゃない。蠢いている。
これは、まるで、蛇。
蠢きが皮膚を破り、傷から血豆みたいなイボが泡立ってきた。
ごぼこぼと血が沸騰しているみたい。
「大丈夫なんですか、これ!」
「静かに。今のところ追い出しは滞りないが、精霊が血肉を奪って逃げようとしているだけだ」
カルカス翁は杖の振りを速めつつ、少し後ずさる。
「ぁ………ッ」
先生が仰け反り、呻くたびに、肉は蛇の形になっていく。
ついに蛇が、先生の背骨から這い上がった。口腔を大きく開き、唾液滴る牙を剥く。
「標本瓶に入るサイズじゃない!」
人間の皮膚の蛇って、ぎょっとする。
うろこが無くて、静脈がびくびく透けている様子は、どんな模様の蛇より異形だ。
「なんともまあ巨大な。人間ひとりの魔力で精霊がここまで肥え太るとは、ついぞ聞いたことが無い」
「先生はアトランティスの先祖返りで、魔力はエクラン王国で二位です」
これ、先に言っておくべきだったな。
蛇はカルカス翁へと飛び掛かる。
精霊祓いを潰す気だ!
わたしは咄嗟に、腕輪を錫杖化する。
蛇が急激に方向を変え、わたしへと這ってきた。
間に合わない。
腕を取られる。
覚悟した刹那、黒い影が視界に飛び込んできた。水晶の輝きを持った漆黒は疾駆し、蛇へと襲い掛かる。
一瞬過ぎて視界に捉えられなかったけど、クワルツくんが蛇の顎を蹴り飛ばしてくれたんだ。
「カルカス翁! 蛇は潰してはいかんのか?」
「いかんいかん、それはまずい。ここまで肥え太っておると、内臓もいくつか精霊に取られている。肺腑や腎臓のひとつくらいなら目減りしても構わんが、心臓を取られておったら事だの」
カルカス翁は渋い顔で、杖を振り続ける。
うねる蛇の胴体に、先生の内臓が入っているのか。それは傷つけられない。
「精霊を弱らせんといかんが、時間を要する」
「時間さえ稼げばいいんですね。何分、必要ですか?」
「時の単位を語るのか? カルトン共和国の国歌を五回分かの?」
わっかんない!
たぶん鉱石ラジヲで毎日流れるし、カルトン共和国の人間だったら分かるんだろうけど、こっちはエクラン王国民ですよ!
「カルトン共和国の国歌って何分ですか!」
「約一分半だよ!」
玄関のところに退避しているオンブルさんが、大声で答えてくれる。しかもマリヌちゃんもきちんと避難させてくれていた。
ありがたい。
「クワルツくん! 450秒の遅滞戦闘!」
「承知!」
床を蹴り、壁を飛び跳ね、蛇へとしがみつく。経絡を絞めようとしているんだ。
蛇は暴れ振り払おうとしたけど、クワルツくんは離れない。
わたしは蹄で、蛇の頭を蹴る。
手加減してるから、すぐにまた牙を剥きだしに襲い掛かってくる。キリが無い。
「先生っ、少しダメージ通します!」
思いっきり錫杖で横殴りし、短剣を脇腹へ刺す。
ダマスカス鋼の切れ味は鋭く、蛇の横っ腹へ深く突き刺さった。
「がッ…………」
先生が大きく弓なりに仰け反り、血を吐いた。
ダメージフィードバックがでかいぞ!
蛇も血飛沫を撒きながら、一気に擡げ、天窓を目指す。
精霊遣いが潰せないって判断して、逃げの一手を打つ気か。
「先生っ! 起きてくださいっ!」
隻眼から焦点が失われていた。
さっきわたしが喰らわせたダメージのせいで、意識が朦朧としているみたい。
クワルツくんの蹴りが入ったけど、蛇は回り込んで這った。鞭打つように巨体を撓らせ叩きつけ、天窓の枠を破壊する。天井がぶち破られた。
降ってくる木材。
蛇は家屋の外へ出ようと、壊れた天井を這っていく。
白夜を背にして、さらに肥え太っていく蛇。
もはや大蛇だ。
手加減が難しくなってきた。
北極大陸では、魔術は暴発か不発。その結果を、過去の魔術師たちは持ち帰ってこれた。持ち帰ってこれる程度の困難だったんだ。
真に恐ろしいのは、持ち帰ることさえ出来ない災厄。
オーロラが降って精霊受肉すれば、全滅は免れないものな。
脳の半分は先生を案じていたし、この大蛇をどうするか考えを巡らせていた。
でもわたしの脳のもう半分が考えているのは、オプシディエンヌのこと。
何億年も生きているオプシディエンヌなら、この混乱と災厄は予測しているだろう。
あの魔女がこんな見世物、見逃すか?
威力偵察および娯楽として、オプシディエンヌの目があるんじゃないか。
だけどこの大蛇を、クワルツくん一人に任せられない。
「【氷壁】!」
凛とした声が響き、空気がひび割れるように氷が結ばれていく。
マリヌちゃんだ。
いつの間にか目覚めて詠唱に入っていたんだ。
透明な氷たちは結びきれず、破片となって散っていく。不発か。
不発とはいえ、大蛇の牽制にはなったみたいだ。氷片の中で身じろぎする。
「ミヌレ! クワルトス氏ふたりかがりで倒せないのかい?」
「その蛇、先生に繋がっているんで、ダメージ与えず遅延戦闘中です!」
マリヌちゃんのフォローがあれば、クワルツくんだけでも対処できるだろう。
「クワルツくん、遅延戦闘を延長! わたしは索敵に回り、偵察役を潰します。わたしの損傷が七割以下なら、援護の必要はありません」
「………ッ! オプシディエンヌがいるのか」
すぐ察してくれてありがたい。
わたしの血肉が七割削れるような相手、たとえ肉体の七割を持っていかれても、なんとか対処しないといけない相手。この世にオプシディエンヌただひとりだ。
「確証はありませんよ。でもあの魔女なら、この状況を見物したがるでしょうからね」
蹄で壁を蹴って、ぶち抜かれた穴から屋根へと上がる。
わたしの霊視は面的だ。
あたかもゲームの画面を見るように、霊視していた。
だけどそれじゃ間に合わない。
さっきのカルカス翁みたいに円状に飛ばすよう、周囲に目を向ける。草食獣が背後の肉食獣を見つけるように、背後まで霊視を広げた。
大きな鳥が、針葉樹のてっぺんに止まっていた。
鳥の剥製を呪符化した【鸚鵡】だ。鸚鵡という名で呼ばれているけど、人語を話せる鳥だったら、カラスでもインコでも素体にできる。
蹄を蹴って、剥製との距離を詰める。
真っ青な羽根と、真っ赤な嘴。極上の宝石細工みたいな色彩だ。
でっかいカワセミ?
いや、あの鳥は冬鎮鳥アルキヨンか!
カルトン共和国に生息していないとかいうレベルじゃないぞ。マイナーとはいえ絶滅幻鳥じゃないか。翼に反風属性を宿している唯一の幻鳥だ。
そこらへんにいていい鳥じゃない。
よくそんな目立ちまくる絶滅幻鳥を呪符にして、こっちを監視しようと思ったな。舐めプにも程がある!
怒りに任せ、錫杖を振りかぶる。
「高みの見物してんじゃねぇよ、クソ魔女がァアアッ!」
遊環高らかに鳴り響き、冬鎮鳥アルキヨンを砕いた。
構造色の羽根が散っていく。
おっと、レディにしてはあるまじき暴言を吐いてしまった気がする。身体の若さに引きずれているのかしらね。
わたしは針葉樹の枝を蹴り、屋根へ戻って、天井から床へ飛び降りる。
先生の背から産まれた大蛇は、震えながらとぐろを巻いていた。水属性を嫌がっているのかしら?
「よし、精霊が剥がれそうだ」
カルカス翁が杖を小刻みに鳴らす。追い込むような鋭さと速さだ。
先生の背の痕が泡立った。傷が波紋して、蛇がもう一匹、いや二匹、三匹、次から次へ蛇が湧く。
オニクス先生の鞭痕は、ひとつじゃない。
九頭の蛇が、先生の背中から這い上がってきた。
「ヒュドラ……」
精霊が受肉した姿は、アトランティスの大沼蛇ヒュドラにそっくりだった。
蛇たちは鞭めいて撓る。
クワルツくんへ蛇の巨体が叩きつけられた。
躱したが、肘から下が引きつぶされる。クワルツくんの右腕が挽肉じみて千切れる。沼ヒノキの壁に、緋の斑紋が描かれた。
先読みしきれてないのか?
それとも蛇が早すぎて処理できないのか?
「がっ…………」
「クワルツくんっ! 回復を……!」
「吾輩は平気だ! それより早く祓ってくれ」
カルカス翁の顔中の皺が、一気に増えた。
「すまんな、これは手に負えん」
は?