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序のみっつまえ 賢者は蛇蝎を殺したい


 

 月は風の加護が無い衛星であった。

 地の加護も弱く、水の加護も僅か。火の加護は強すぎる。

 世界は地と水と風と火の四属が調和して、生命が繁栄できる。この月世界はいのちが育たない。


 ただひとつ例外となってる場所がある。

 魔術師の最高峰たる賢者たちが作り上げた象牙の塔。

 この空間に風の加護を常時展開させることによって、肉体が生存可能になっている。

  

 とはいえ、大賢者カマユーの肉体は月には無い。

 星幽体だけで、象牙の塔に存在している。

 ほかに集まっている賢者も似たような状態だった。肉体を伴っている賢者は少ない。


「『夢魔の女王』の確保に失敗した」


 大賢者カマユーの発言が、象牙の塔の大広間に響く。


「『夢魔の女王』は逃亡中。魔術騎士団が追跡しているが、芳しくはない」  

 特にリアクションは無かった。

 連盟の設立より二百年余り。代替わりしている賢者もいれば、していない賢者もいる。

 この程度で野次や怒声を発するほど、賢者たちは幼くない。あるがまま現実を受け止め、次に打つべき手を選ぶだけだ。


「………『夢魔の女王』か。さきほどから小娘に対して、御大層な二つ名じゃねぇか」


 暗がりからカマユーへ投げかけられた胴間声は、どこか嘲笑めいたものを孕んでいた。

 胴間声のあるじは、視覚聴覚と音声だけ月まで飛ばしてきている。実態はないが、それでもカマユーは声の方向を睨みつけた。

「あんたは彼女を目の当たりにしていないから、見くびるんだ。あの魔力の前に立ったら、軽んずることなどできない。彼女こそ夢を描き、夢を渡り、夢を統べる女王だ。まだ萌芽したばかりだが、一目で分かった」

 語る口ぶりも、濃淡の眼差しも、熱に浮かされていた。

 カマユーは星智学の頂に立つ魔術師だ。

 時間障壁や仮想惑星の発見によって、賢者となった魔術師である。

 『巨大なものの観測』、これこそがカマユーの最大能力であった。

 宇宙や因果律を観測し続けてきたカマユーさえも、ミヌレの魔力を観測しきれなかった。 

「正式に観測したわけではないが、おそらく彼女の魔力は………時間障壁の彼方にあるものに匹敵する」

 凪いでいた大広間にざわめきが走った。

「無窮神性『ゼルヴァナ・アカラナ』に等しいとは大きく出たな。そんなもの人間ではないぞ。耄碌しなすったか、カマユーの御大」

「ぼくの観測だ。疑うのか?」

 カマユーは眉宇に皺を刻む。

 険悪になる大広間の空気。

 誰もが沈黙を余儀なくされるほどの重さだが、若い賢者が手を挙げた。むろん賢者の中では若いという意味だ。

「ええっと……ですね、そもそもどうして逃げられたんですか?」

「一角獣のライカンスロープ術だ。ぼくは星幽体だったし、一角獣に馬では追いつけない」

 カマユーは苛立ちを、拳の中に握り込みながら答える。

 彼は老体だが、怒りを御せないほど老いてはいない。

「あー……すみません、カマユー・カマハエウス猊下。逃走方法でなく、逃走動機を伺ったんです」

「蛇蝎を殺させないためだ」

「ミヌレ・ソル=モンドさまには、オニクスどのの過去を伝えたのでしょう。闇の教団での大罪を。彼は処刑されてないのが不思議なほどの大罪人です。それを承知で庇ったと?」

「そうだ」

「どうしてオニクスどのを庇ったんです? ……なにか誤解が生じたなら、早急に解かないと」


「『夢魔の女王』は、蛇蝎に純潔を捧げていた」


 搾られた呟きに、静まり返る大広間。

 静寂と沈黙が飽和した空間に、カマユーは忌々しさを覚えた。

 そして怒りも。

「魅了……?」

 誰かがぽつりと呟く。

「このぼくが【遠視】できない相手に、【魅了】が通るわけない」

 カマユーは報告を受けた当初、ミヌレという少女を【遠視】しようとした。

 もちろん出来るわけがない。

 破格の闇耐性を持つミヌレに、【探知】【読心】などの闇魔術は通らないのだ。【魅了】や【恐怖】もかからない。闇魔術の一切が通じない相手だ。

 魅了ではないとしたら、まことの恋をしているのだ。

「【制約】をかけても「恋をするな」「恋をされるな」は無理ですからねえ」

 若い賢者から、暢気な発言が飛び出る。

 途端にカマユーは眦を裂いた。

「恋だと? あれは毒牙にかかったと形容するんだ!」

 大広間に反響するカマユーの怒声。

「蛇蝎が甘言で篭絡したのだろう。あれは教団総帥の愛人をしていた男だぞ。たぶらかすなど容易だ! そもそもあの蛇蝎、少女が恋をするような容姿でも性格でもないだろう!」

 地獄の如き気迫に、若い賢者は慌てて話題を変える。

「ええっと………報告者は、エクラン王国騎士サフィール・クリストー=カルケール・リコルヌさまですよね。有能だと伺ってますが、彼はそれを知らなかったんですかね? その、彼女がオニクスどのを慕っているということを」

 カマユーの耳にもサフィールの有能さは届いていた。

 だからこそ彼の報告に信頼を置き、巧遅よりも拙速を選んだ。

「騎士としての古めかしい配慮だ。婦女子の名誉にかかわるゆえに、あえて省いたそうだ」

「そこは省いちゃダメでしょ……」

 若い賢者のため息が、大広間の床に沈んでいく。

 カマユーも同意見だ。肉体から抜け出しているのに、脳髄が軋む感覚に煩わされた。

 あれは悪手だった。

 ミヌレが状況を理解せずただ付き従っていただけなら、オニクスの過去を暴露して信頼を失わせるのも、賢者側に引き込む方法のひとつだ。

 だが確固たる恋をしている以上、オニクスの名誉を毀損すれば、賢者の方が信頼を失う。

「彼女のような魔術師を、ぼくがどれほど待ち望んだか。『夢魔の女王』が、毒牙に犯されているなんて。やはり討伐決行したときに殺しておけばよかったんだ。あの蛇蝎が……ッ」 

「猊下。なんだか、あなたが恋をしているみたいですね」

 若い賢者の軽口に、カマユーは怒りの一瞥だけを送って黙らせた。


「ぼくが『夢魔の女王』を保護する」


「どうやってですか?」

 探し見つけ出すだけなら、魔術騎士団を投入し、賢者連盟に加盟している組織に要請すれば、それほど困難ではない。

 だが見つけた後が問題だ。

 無理に拘束して、ミヌレを傷つけるわけにはいかない。

 身体はもちろん、心もだ。

 ミヌレは闇魔術【制約】を危惧していたが、実のところ【制約】は、合意がなければ掛けられない。闇魔術はけして人の心を操る術ではない。ただ干渉するだけだ。

「ミヌレ・ソル=モンドさまが成長すれば、オニクスどのに対して心が変わるかもしれません。それまでは今まで通り、オニクスどのに鎮護を続けてもらえばよいのではないですか?」

「この若いのの言う通りだ。小娘の恋ってぇシロモノがどれほどの耐久性があるのか予想できんが、二十年か三十年も待てば心変わりもするだろうよ。それまで監視でいいんじゃねぇか?」

 胴間声も賛同する。

 集まっている他の賢者たちも、近しい意見だった。

 多かれ少なかれオニクスがやらかした所業に対して思うところが無いわけでもないのだが、それでも世界の安寧と平定のために目を瞑っているのが実情だ。

 だがカマユーだけは納得できない。

 一刻も早くオニクスを処分したいのだ。


「オニクスを逃がすなよ」

 

 カマユーはそれだけ言い捨てて、地上へと星幽体を飛ばす。


 行先は北方リコルヌ領。

 目的は伯爵令嬢エグマリヌだ。

 ミヌレは愛しい相手を助けるために逃亡したが、親しい相手の説得には応じるだろうか。


「卑怯だが、協力してもらうぞ。世界の安寧のために」  



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