第三十話(中編)極光白夜に獣は吼ゆる
エーテリック領域との時空断層が生じて、膨大な精霊が噴き出す。
魔術の天敵、いや、大災害である精霊の大進軍と呼ばれる現象。
魔術が使えないのに、空気中のエーテル濃度が急激に上昇していく。まずい。下手に呼吸したら、肺腑がエーテルに焼かれる。
わたしは再生能力が高いし、先生は先祖返りしているから平気だけど、マリヌちゃんたちが危険だ。
魔導航空艇が揺れ動き、床が斜めになった。
踏ん張ろうと四つ足になり、一瞬だけ【胡蝶】を解除。両腕を伸ばして、マリヌちゃんを抱き締める。
「クワルツくんも早く!」
「駄目だ! このままだと湖に突っ込んで、機関部が爆発する!」
未来視の眼を眇め、叫ぶ。
火属性動力による水蒸気爆発か?
それとも循環用弱水が、湖に混ざって噴出したんか?
クワルツくんは荒れる船体を跳ね跳ぶ。踏ん張り利かすため、くるぶしから下だけ魔狼化させ跳ねた。
側部に付いている係留綱を掴む。鋼で編まれた太い綱を振り回し、針葉樹へ投げつけた。鋼の係留綱が、針葉樹の幹へと巻き付く。
べきべきって針葉樹がへし折れていった。
「うわっ!」
さらに大きく傾く魔導航空艇。減速したけどバランス崩壊したぞ!
魔術さえ使えれば、わたしの【防壁】で魔導航空艇を止められるのに!
咄嗟に手すりに摑まり、身動きせず【胡蝶】を展開させた。幾千億万の蝶々の羽ばたきを纏う。
【胡蝶】は時魔術の結界だ。
北極近くでも展開ができている。
衝撃がいくつもくるけど、【胡蝶】の守りは完璧だ。この荒れ狂った魔導航空艇で、わたしが身動きしなきゃな。
先生も壁面にしがみついて、動けないレベルだぞ。
一角獣の下肢でも、もうすっ飛ばされそう。
限界だ。そう思った瞬間、魔導航空艇の勢いが止まった。
【胡蝶】が霧散した。
ということは、もう魔導航空艇は完全に停止して、エーテルによる危険もないってことかしら。空の上と違って、地表まではエーテルが濃くならなかったみたい。
次にわたしを包み込んでくるのは、噎せるほどの濃緑の芳香だ。何本もの針葉樹を倒しちゃったから、木の精気が香気になって立ち上っている。生命力に溢れた香りだ。
前方には大きな湖、ギリギリで止まってくれたな。
クワルツくんは地べたに倒れ、病的に息切れをしている。
高濃度のエーテルをいきなり吸ったもんだから、肺腑が焼かれたんだ。例えるならアルコールで酩酊している状態で、深海にいきなり沈んだダメージに近い。
息切れしているクワルツくんを、マリヌちゃんは助け起こす。
わたしは人工呼吸を施した。
先生が背後で長い舌打ちしているけど無視だ。人命救助に嫉妬するのは、幼稚だな。
「大丈夫ですか、ミヌレさま」
モリオンくんが水を持ってきてくれる。それから飴色の薬鞄も。
「わたしとマリヌちゃんは【胡蝶】で防御できてます。クワルツくんをお願い」
モリオンくんは頷いて、薬鞄から吸引器を出して、クワルツくんへ差し出す。
管付きの香水瓶みたいに見えるけど、肺に薬を入れるための医療器具だ。喘息とかに使う。
「クワルツ。エーテル中和錬金薬を肺へ吸入させる。口内で怪我してないか? 無ければ息を吐いて。吸うときに薬を噴出する。5秒かけて吸って、10秒息を止めて」
モリオンくんはてきぱきと処置していく。
熟練の錬金薬剤師の手際だった。
「モリオンくんは平気なの?」
「ご心配には及びません、ミヌレさま。ボクは第三人類と第四人類のハーフですからね。エーテル濃度が濃いのは歓迎です。むしろ普段の空気より調子がいいくらいですよ」
太古はエーテル濃度が高かったものな。
先生も平然としている。
エーテル順応性が特出している親子はいいとして、現生人類であるクワルツくんの呼吸器系には、ダメージが入っている。人工呼吸と錬金薬で症状は緩和したみたい。
「しかし惨憺たる有り様ですね」
モリオンくんが視線を後方へ投げる。
慣性の法則の逆らった代償として、針葉樹が十数本も倒れてしまっている。オプシディエンヌや現地の人たち見つからないよう、こっそり入国したかったのに。
予定としてはオンブルさんちに転移絨毯を設置させてもらって、魔導航空艇を連盟加盟地へ移動させるつもりだったけど、ここまで航空艇が損傷しているとご破算だ。
爆発するよりマシか。
魔導航空艇からスティビンヌ猊下が飛び出してくる。
「無事だったさね?」
スティビンヌ猊下はわたしと先生の様子だけを確かめて、ほっとしている。これは鎮護魔術師の安否を確認しにきただけだな。
「『未来視の狼』、助かったさね。冷却用の弱水が漏れてるから、湖に落ちたら噴水状態だったさ」
心配はしていないが、感謝している。
「あと面白いことが観察できたさね! オーロラで精霊が降ってきた時、魔力の安全弁が閉まっているところは、損傷率三割だったさよ。常時可動部の損傷は七割なのに! 魔導銃みたいに安全弁を付ければ、保護できるかもしれないさ」
「それでも常時動力の魔導航空艇は使えんだろう」
先生が魔導談議に乗り出した。
「常時タイプは使えないさね。でも魔導銃みたいな、対抗式の魔導技術なら北極でも使えるかもしれないさね!」
「スティビンヌ猊下。喜ばしい話ですけど、今はそれどころじゃ………」
早くこの場所から、魔導航空艇を移動させないと。
視界に白いものが過る。
ひらひらと舞う白い小さな輝きたち。
雪?
夏の盛りなのに、カルトン共和国では雪が降るの? それとも風のせいで、北極域から流れてきたのかしら?
オーロラが棚引く白夜から、無限に雪が舞う。
絶えず変わる光を浴びながらも純白を保ち、針葉樹へ、大地へ、雪は降りた。濃緑の森が、純白に粧われていく。
幻想的だけど、オーロラの次は吹雪なんて踏んだり蹴ったりじゃないか。
これじゃまるで北極大陸だ。
「もとから不全呪文用の安全弁だから、暴発抵抗があるのか」
「そうさね! 不発に対してはまだ対応できないけど、暴発なら防げるさ」
まだ魔導談義を続けている。
「おふたりとも! そんな場合じゃありませんよ。雪だって吹雪いてきたんですから」
そう叫ぶ間にも、雪が強くなってくる。
わたしは完全一角獣化すれば、耐寒性は強くなるし、ホワイトアウトしても方向を掴めるから、それほど危機感は無い。
でも他のひとたちは、危険だ。
なのにスティビンヌ猊下はきょとんとしていた。硝子の双眸で、白い空へ焦点を合わせる。
「雪? ………って雪なんて降ってるさね?」
「予知か?」
スティビンヌ猊下もオニクス先生も、不思議そうに空を見上げていた。
こんなに吹雪いているのに!
クワルツくんへ視線を移せば、彼まで首を傾げていた。
「吾輩の網膜にも、雪なぞ映らんぞ」
未来視と遠視の瞳にも映らない?
じゃあ、わたしたちへ吹雪いているこの白い小さな結晶は、霊視でしか掴めない不可視物質か?
手のひらにひとひら、白い結晶が舞い降りる。
違う! 六花結晶じゃない!
蛆みたいなものが、ぴくぴくと蠢動している。
視界から霊視モードを解除して、物理レイヤーだけにする。
見えなくなった。
「不可視物質が周囲に充満しています!」
「オーロラの余波か?」
「鉱石望遠鏡で三点観測するさね!」
スティビンヌ猊下が良い笑顔で、観測器を取りに魔導航空艇の中に走る。
危機感というものが無いのか!
オプシディエンヌが元凶だったら、どうするんだ!
いや、でも命にかかわることだったら、【胡蝶】が反応しているはずだよね。これは観測されたことがないオーロラの余波か?
「………ぅ」
苦しそうな呻きが、耳に届く。マリヌちゃんからだった。
霊視を移す。
雪もどきがマリヌちゃんの腕に入り込んでいた。それは春先の雪が解けるみたいに静かに吸い込まれていったけど、六花のような美しいものじゃない。
蛆めいた何かだ。それも何匹も。
「マリヌちゃん、服を脱いで! 利き腕に何か潜り込みました」
言葉が終わるより早く、マリヌちゃんは刺繍の上着を脱ぎ、シャツをめくり上げる。
薄い雪膚の下に、何かびくびくと鼓動していた。
「ミヌレ! 切るから回復お願い!」
マリヌちゃんは逆手でレイピアを抜き放って、脈打つ皮膚を切り裂く。
雪もどきは弾けたけど、肉がむき出しになり、血が溢れた。生々しい傷口へ、反射的に口づける。
わたしのキスには魔法が宿っている。
病気でも怪我でも呪いでも、癒すことが出来る。
なのに、いつまでも生臭く鉄臭い。
「治りが悪い……っ」
わたしの呻きに、モリオンくんが傷口を覗き込む。
「ミヌレさまの治癒で癒せない? オーロラが干渉しているのでしょうか?」
「ふむ。テュルクワーズ猊下に診せた方がいいな。ミヌレくんは、転移絨毯を設置し直して………」
クワルツくんが途中だった言葉を切り、呼吸を整えた。
表情も姿勢も変えてないけど、空気だけが変わる。これは彼の臨戦態勢だ。
「何か、来る」
沼ヒノキと白樺の森は静かなまま。
風のそよぎ、鳥の声、そんなものがひとつもなく、不可視物質の雪もどきが深々と吹いていた。
倒れた針葉樹から、唐突にウサギが飛び出す。
野兎かと思ったけど、これ、北極ウサギだ。
白樺の木立からは、麝香ウシがのっそりと歩いてきた。黒褐色の深い毛に覆われた巨体を揺らし、角を向けてくる。
麝香ウシって淡水湿原にいる動物だった気がするけど、どうしてこんな森に?
ひょっとしてオプシディエンヌの使い魔か?
すかさず霊視モードに切り換える。
使い魔じゃない。
「ライカンスロープです」
麝香ウシだけじゃない。北極ウサギもライカンスロープだ。
大きな岩場に白フクロウと象牙カモメが止まり、北極キツネが飛び出した。
凪いでいた湖が波紋して、竪琴アザラシたちが岸に這い上がる。遠巻きにこちらを見つめていた。
湖から現れたのは竪琴アザラシだけじゃない。大きく波を立てて、真っ白い巨体が飛び出してきた。
白イルカだ。
純白の姿をくねらせて、水面に顔と尾びれを出す。
「ミヌレ、まさかすべてライカンスロープ術者か?」
「はい」
数えきれないほどのライカンスロープ術者たちは、わたしたちを円形に取り囲んで、距離を保ちつつ視点を定めている。警戒されているな。
「オプシディエンヌの配下か、それとも先生に報復するご一行さまかしら?」
「可能性は高いな。だがこれはおそらく海の民だ。集会でもしていたのか? あるいは海の民が、オプシディエンヌに支配されたか。どちらにせよ一掃するのは容易いぞ」
「一掃しないで下さい」
ライカンスロープしている同士は、言語が通じる。
異言語でも通じるのかな?
わたしは上着を脱いで、自分の輪郭を変貌させる。半獣の姿から、完全なる一角獣へ。
「お騒がせして申し訳ありません。賢者連盟のミヌレと申します。事故によりこのような着地をせざるを得ませんでした」
挨拶に対して、白イルカが歌う。
高く高く、人類の可聴域さえ越えて高らかに歌う。
人間の耳には途切れ途切れの歌にしか聞こえないけど、ライカンスロープしているわたしには言語として届けられた。
「守護獣が一角獣とは、初めてお目にかかった。一角獣に守られし娘」
白イルカから発された声は、女性的で穏やかだった。
よかった、言葉が通じる。
敵対しなくてすみそうだ。あとはきちんとお詫びしなくちゃ。禍根は残さないようにしないと。
「獣の加護を宿しながら、穢れた息を吐く娘よ。オーロラの異変はそなたらが原因か」
穏やかなまま声に威圧が増した。
嫌な感覚に冷や汗が噴く。
「わたしたちは………」
「いや、そなたらがオーロラ事変の原因であろうとなかろうと、関係あるまい。一角獣に守られた娘と、蛇に呪われた男よ。悍ましき罪を腹に抱え、我らの地に踏み入ったこと万死に値する」
穏やかな声に籠っていた嫌悪と不快感は、瀝青にも似ている。わたしの肌に粘りながら、張り付いてきた。